「雲とはんのき」の手宮文字(1)

1.はじめに

 『春と修羅』に収められている「雲とはんのき」(1923.8.31)という作品には、先日私が小樽で見てきた、「手宮文字」という言葉が出てきます。作品の半ば過ぎあたり、それが登場する文脈を抜粋すると、次のようになっています。

感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
   (ひのきひらめく六月に
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに 

 この作品は、全体としても素直には意味がとらえにくいのですが、中でもこのあたりは、とりわけ謎めいている感じです。
 「ひのきひらめく六月におまへが刻んだその線」というのは何なのでしょうか? 「男らしい償ひ」とは何なのでしょうか? そして「手宮文字」がどうしたというのでしょうか?

 この辺の解釈について、秋枝美保氏は『宮沢賢治の文学と思想』(朝文社)第二章の「心象スケッチ「雲とはんのき」における「手宮文字」の意味」において、ここで「手宮文字」が象徴しているのは、当時の時代思潮の変化および賢治自身の方向転換としての、「国家主義からの離脱」という事態なのではないかと述べておられます。
 秋枝氏による綿密な史料的検討は、非常に奥深く示唆的なものですが、ここでは私なりにまた違った角度から、この箇所の意味するところについて考えてみたいと思います。


2.トシの死の残響および六月の線刻文字

 お読みいただければわかるとおり、「雲とはんのき」という作品は、全体として透明な輝きと、静かな「かなしみ」に満たされています。その「かなしみ」の由来を考える際に鍵になるのは、終わりから7行目に出てくる、「これら葬送行進曲の層雲の底」という言葉だと思います。
 これは、この作品のわずか20日前に書かれた「噴火湾(ノクターン)」において、作者がトシの追憶にひたっている時に、「Funeral March があやしくいままたはじまりだす」として登場した「葬送行進曲」が、まだ作者の心の奥底で鳴り響きつづけていることを示しています。
 すなわち、「雲とはんのき」という作品の基底には、やはり妹トシの死という問題があることを、まず押さえておく必要があるでしょう。もちろんこれは、作者が「オホーツク挽歌」の旅から帰ってまだ間もないことを思えば、当然のことではありますが。

 その上で、問題の「ひのきひらめく六月に/おまへが刻んだその線」というのは、いったい何なのかということです。
 まず第一に、この「おまへ」というのは、作者賢治が自分自身に呼びかけていると解釈するのが、自然でしょう。すると第二に、賢治は「六月」に、どこかに何かの「線」を刻んだという出来事があったのだろうと思われます。第三に、その「線」は、賢治に「重荷になる」とか「償ひを強ひる」とかいう結果を招く可能性があると想定されていることから、単なる無意味な「線」ではなくて、何らかの「記号」として、「意味」を帯びた「線」であったと考えるべきでしょう。
 この記号性は、次の行に出てくる「手宮文字」が、(後には否定されましたが)「線刻文字」の一種と考えられていたこととも照応します。「手宮文字です 手宮文字です」という行は、一字だけ「字下げ」されていて、これはこの行が、その前の「おまへが刻んだその線」に関して、地の文とも括弧内とも異なった(作者の)意識レベルから発せられたコメントであることを、示していると思われます。
 まとめて言えば、作者賢治は「六月」に、どこかに(手宮文字のような)何らかの意味を帯びた「線」を刻みつけたが、そこに彼が込めた意味内容は、その後「重荷」になって自身に「償ひ」を強いるような事柄だった、ということが推測されるわけです。

 それでは、賢治がここで書いた「内容」というのは、いったいどんな事柄だったのかということが、次の問題です。それを考えるためには、「六月」にまでさかのぼってみる必要があるでしょう。


3.1923年6月作品との関係

 まず、賢治が線を刻んだ「六月」というのが、いつの「六月」だったのかという疑問がありますが、たとえば前年の六月だったら「去年の六月」などと書きそうなものです。「雲とはんのき」が書かれた八月の時点で単に「六月」と言えば、つい二ヵ月前、1923年6月と考えるのが自然でしょう。いちおう念のために、『春と修羅』において前年(1922年)の6月の作品を見てみると、「林と思想」「霧とマツチ」「芝生」「青い槍の葉」「報告」「風景観察官」「岩手山」「高原」「印象」「高級の霧」という10作品がありますが、「雲とはんのき」の基底にあるはずのトシのことには、いずれもまったく触れていません。
 したがって、この「六月」とは、1923年6月のことと考えて検討を進めます。

 『春と修羅』において、1923年6月の日付を持つ作品は、「風林」「白い鳥」の二つです。前年11月に妹を亡くした悲嘆を歌う「無声慟哭」の章の最後の二作品で、どちらも、農学校の生徒たちと岩手山方面に来た時の情景を描いています。

 まず「風林」では、最初は抑制した筆致であたりの景色や生徒たちの様子をスケッチしていますが、途中から、「とし子とし子/野原へ来れば/また風の中に立てば/きつとおまへをおもひだす」との言葉とともに、妹への思いがあふれ出てきます。そして、「ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)/とし子 わたくしは高く呼んでみようか」として、「通信」というテーマが、ここで初めて登場します。
 さらに、この作品でちょっと異様な印象を与えるのは、本文16行目に現れる「《ああおらはあど死んでもい》/《おらも死んでもい》」という言葉です。これは、生徒たちの会話だと思われますが、いったいどういう文脈で、十代の少年がお互いに「あとは死んでもいい」などと語り合ったのでしょうか。岩手山から眺める景色の美しさに、死んでもよいほど感動したのでしょうか。
 これは、賢治の作品にしばしば現れる「幻聴」の類ではなく、現実の言葉として書きとめられていますが、この言葉が作者の印象に強く残ったことは、作品のその後の部分からも感じられます。賢治は、その言葉を誰が発したのか少し考えてみた上で、「たれがそんなことを云つたかは/わたくしはむしろかんがへないでいい」と記していますが、つまり賢治はこの言葉を具体的文脈から切り離して、より「普遍性を持った一つの言表」として受けとめようとしているのです。
 「私は後は死んでもよい。」―― この言葉が賢治に与えた「何か」が、約6ヵ月ぶりに「心象スケッチ」作品を生む力となったのではないかとさえ、私には思われます。

 次の作品「白い鳥」では、翌朝の光の中を啼きかわしながら飛ぶ「二疋の大きな白い鳥」を、賢治は死んだ妹トシの化身と見なそうとします(「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」)。
 そして賢治自身は、「ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか/けさはすずらんの花のむらがりのなかで/なんべんわたくしはその名を呼び」とあるように、何度もトシに呼びかけたことを書いています。前作「風林」において、「わたくしは高く呼んでみようか」と記したことを、さっそく実行に移したわけです。
 しかし、賢治がトシに呼びかけた結果は、「たれともわからない声が/人のない野原からこたへてきて/わたくしを嘲笑した」という虚しいものでした。「白い鳥」の啼き声も、それが「かなしい」ことだけはわかっても、兄に何を伝えようとしているのかは理解できません。
 すなわち、「白い鳥」に描かれているのは、賢治がトシとの「通信」を強く望み、それを何度も試みながらも、かなえられないという現実です。

 ということで、1923年6月の二作品から、ここで私が抽出してみる要素は、次の二つです。まずは、(1)賢治が妹トシとの「通信」を切望しつつもかなわない現実、それから、(2)「私は後は死んでもいい」という言葉です。
 この二要素は、それぞれ別々に賢治に現れ、彼を深くとらえた事柄ですが、もしこれらが賢治の中で結び付けば、次のような一つの陳述になります。

 「もしもトシとの通信がかなうならば、私は後は死んでもよい。」

 私の言いたかったことの一つは、これです。私としては、この1923年の「ひのきひらめく六月」に、賢治がある種の呪術的な願望も込めて、記号的な線によって刻みつけたのは、上のような内容の事柄だったのではないかと考えるのです。
 それを証明してくれる直接的な証拠は、残念ながらありません。しかし、「オホーツク挽歌」の旅そのものの目的が、賢治自身にとっては「トシとの通信」であったことは、多くの研究者が認めていることです。それに、もう少し作品に踏み込めば、その旅行中に賢治が、「もしトシとの通信がかなうならば、私は死んでもよい」と考えていた節があることも、読みとることができるのです。


4.「オホーツク挽歌」の世界へ

 「オホーツク挽歌」詩群の世界が錯綜している要因の一つは、そこで賢治は「トシとの通信」を切望し、「トシの後生の幸せ」を願っているのは事実なのに、一方では「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない(「青森挽歌」)」という仏教本来の教えに縛られ、自分がトシのことばかり考えてしまうのは間違いであると思い、彼自身の心が矛盾を抱え、葛藤をつづけていることにあります。
 もちろん、賢治はその葛藤を何とかしたくてやむにやまれず旅に出たわけですし、またその葛藤の凄まじさと切実な表現が、これらの作品の比類ない魅力になっているわけでもありますが。

 この矛盾を解消するために、「自分はトシとの通信を望んでいるが、それはトシ一人のためなのではなくて、衆生みんなのためである」と合理化しようとして、賢治は例えば「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)の半ばあたりにおいて、次のような理屈を述べています。
 もしも、「私たちの行かうとするこの道(=法華経に基づいた仏教信仰)がほんたうのものでないならば」、トシがそれを「さまざまな障害を衝きやぶって来て私に知らせてくれ」ることによって、その「まちがひ」が明らかになる。そうすれば、それが結局は「みんなのほんたうの幸福」につながる・・・。
 これは、ややこじつけのような感もありますが、当時の賢治にとっては一つの切実な思いだったでしょう。いずれにしても、「オホーツク挽歌」詩群の作品は、このような葛藤をはらみ、動揺する賢治の気持ちが、つねに背後にあることを踏まえて読む必要があると思います。

 さて、話を戻して、「オホーツク挽歌」詩群の最初の作品である「青森挽歌」には、次のような一節があります。

   (宗谷海峡を越える晩は
    わたくしは夜どほし甲板に立ち
    あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
    からだはけがれたねがひにみたし
    そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)

 「わたくしはほんたうに挑戦しよう」というのは何への「挑戦」かと言えば、やはり「トシとの通信」への挑戦だと思います。ここで賢治が「挑戦」などという戦闘的な言葉を使っている理由については、後でも述べますが、彼はトシとの通信を実現するためには、何らかの「鬼神」のようなものとの対決を想定していたからではないかと思われます。
 また、自分のこの願望を「けがれたねがひ」と表現しているのは、上にも述べたように、賢治は自分が妹との通信に執着することを、仏教的には正しくないことと感じていたからだと思います。


5.「宗谷挽歌」が示してくれること

 以上から、「宗谷海峡を越える晩」が挑戦の焦点になるわけですから、その晩のことを記した「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)について、ここで検討しなければなりません。

 この作品は、次のように始まります。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 冒頭から、賢治の思いは揺れています。(A)「私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。/それはないやうな因果連鎖になってゐる。」と書いた直後に、(B)「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く。」と書き、またその直後に(C)「とし子が私を呼ぶといふことはない」と直前の仮定を否定します。そう言いながら、さらに(D)「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一諸に行ってやらないだらう。」とまた逆を想定します。
 ここで賢治が考えているのは、[1]死んだトシは天界に転生したので、「呼ぶ必要のない所に居る」、したがって「通信も来ない」という、彼としては信じたい方の可能性、もう一つは、[2]トシが、畜生・餓鬼・地獄のいわゆる「三悪道」のいずれかに転生している可能性という二つで、[2]の場合には、トシが賢治に呼びかけるという「通信」を期待しているのです。
 初めの5行(A)では[1]と考えられ、次の3行(B)では[2]と考えられ、さらに次の2行(C)ではまた[1]と考えられ、次の6行(D)では[2]と考えられ、賢治の思いは交互に目まぐるしく変わっています。
 そして、「どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く。」とあるように、さらにまた「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一諸に行ってやらないだらう。」とあるように、もしもトシから「通信」が来たらならば、「自分も死ぬ」ということを、賢治ははっきりと言明しています。

 さらにここで注意しておくべきことは、これらの箇所で賢治は、通信を受けとったら自分は「自殺する」と言っているのか、ということです。これについては、「自殺ではない」ということを、彼は次の箇所で示してくれているようです。

 (私を自殺者と思ってゐるのか。
  私が自殺者でないことは
  次の点からすぐわかる。
  第一自殺をするものが
  霧の降るのをいやがって
  青い巾などを被ってゐるか。
  第二に自殺をするものが
  二本も注意深く鉛筆を削り
  そんなあやしんで近寄るものを
  霧の中でしらしら笑ってゐるか。)

 しかしながら、トシからの通信を受けとった時点で、もしも賢治が自分の意志で夜の海に飛びこめば、それは「自殺」になってしまいます。そうではなくて、「通信を受けとったら、自分は(自殺でなく)死ぬ」ということを賢治が前もって言明できるというのは、果たしていかなる場合に可能なのでしょうか。
 それは、「トシとの通信がかなうなら、ひきかえに自分の生命を奪ってもよい」ということを、前もって何者かに「宣言」し、「約束」していた場合でしょう。他者によって生命が奪われるのなら、自殺にはならないからです。

 これこそが、「ひのきひらめく六月」に、賢治が線刻文字で書きつけた内容だったのではないかということは、前述したとおりです。


 それにしても、ここで賢治が自分の側からの一方的な「契約」をしようとした相手というのは、いったい誰だったのでしょうか。この問題を示唆してくれる「宗谷挽歌」の最後は、次のように終わっています。

〔この間、原稿数枚なし〕
永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

 すなわち賢治は、「鬼神たち」の「試みを受けやう」と、覚悟していたようなのです。前述のように、トシからの通信が来るとすれば、それはトシが畜生・餓鬼・地獄のいずれかの世界に居る場合であって、その際にはこれらの三悪道を管理しているのは、鬼神の一種と見なされるからでしょう。
 この6月に、賢治が秘かに「線刻文字」によって表現していたのは、正統な仏教的祈りではなくて、このような鬼神のごときものに向けての呪術的なメッセージ(「挑戦」)だったと思われるのです。相手が相手だけに、8月末になっても賢治は、「やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない」と、一抹の宗教的な不安を感じていたのではないでしょうか。また、自分から「死んでもいい」と一度言ったからには、その償いにたとえ生命が懸かっても、「男らしく」いさぎよく応じなければ、という覚悟もあったのかもしれません。


 さて、「雲とはんのき」に出てくる「おまへが刻んだその線」の、記号論的な意味内容(シニフィエ)は、以上のようなものではないかというのが、ここまでで私が言いたかったことです。
 次回には、「手宮文字」と呼ばれたその「線」の表現形態(シニフィアン)は、いったいどんなものだったのかということについて、考えてみたいと思います。

[ この項つづく ]