富士館と中村牧場

 先日、苫小牧市立中央図書館で、「富士館旅館」と「中村牧場」の昔の写真をコピーしてきましたので、ご紹介します。

 「富士館」は、1924年5月21日に賢治らの引率する花巻農学校修学旅行生が宿泊した旅館で、苫小牧駅前にあり、当時の苫小牧町では最も大きな旅富士館旅館(大正4年)館だったということです。『苫小牧市史(下)』には、「昭和八年には苫小牧の旅館数は大小を合わせて二十軒を超えていたが、富士館を除いて立派な旅館は少なく木賃宿、馬宿程度のものが多かった。」との記載があります。
 右の写真は、『苫小牧市史(下)』に掲載されている大正4年時点の「富士館」ですが、賢治たちが訪れた大正13年には、もう少し立派になっていたという説もあります。

 敗戦後は一時、進駐軍の宿舎として接収されていた時期もありましたが、接収が解除され営業を再開してからは、旅館とともに高級食堂としても、苫小牧市民の人気を集めていたということです。
 しかし、1977年に駅前の市街地再開発事業によって、この場所は大規模商業施設「サンプラザ(現エガオ)」およびその駐車場となります。さらにその後、開業と同時に核テナントとして出店していたダイエー苫小牧店も、2005年には閉店・撤退してしまいました。
 時代とともに、「流転」を重ねた場所だったわけですね。

fujikan_t4.jpg 現在その場所は、駅前本通りの敷石(右写真)が示してくれているところによれば、下写真のような様子になっています。

 左側に見えるビルが商業施設「egao(エガオ)」、右に少しだけ見えている高いビルは、「グランドホテルニュー王子」です。
 宿泊業に関しては、苫小牧の老舗旅館は軒並み閉店していく中で、王子製紙グループの「グランドホテルニュー王子」と「プラザホテルニュー王子」という二つの大ホテルが、現在はこの街に君臨しているようです。

富士館跡地の駐車場


 次に、夜の散歩に出た賢治がたまたま浜辺で「エーシャ牛」を見かけて、作品「」を書くきっかけとなったと推定されている、「中村牧場」です。この牧場に関しては、『大苫小牧を囲繞せる人』(北海道平民新聞社)という1925年(大正14年)に出版された本に、下のような写真が掲載されていました。 右の楕円の中が、経営者の中村拙郎氏です。

中村牧場と中村拙郎氏

 この『大苫小牧を囲繞せる人』という本は、当時の苫小牧町の名士録のようなものなのですが、この中に「牧畜業 中村拙郎」の記事として、次のように人物紹介がなされています。

氏は明治八年鳥取縣は鱒掬ひの本場濱坂生れである。
明治十八年十一歳の折義兄に當る人が北海道空知郡江別に屯田兵として來道せるを頼り渡道したのである、二十八年戦役には従事して満鮮の野に馳駆した歴史もある。
苫小牧町沼ノ端に落ちついたは、爾来幾星霜を閲した三十八年であつた、同地に於て牧畜業に従事し、更に四十一年苫小牧に王子製紙の創設をみるに當り炯眼なる氏は其の前途の有望なるに着目し現在の地に轉住するに至つた、以來牧畜業の傍ら搾乳業を営み、逐年事業の増大を成しつゝある、資性温良、町有志として公共事業に儘瘁する處多大である。

 発刊が1925年であることからすると、上の写真が写されたのは賢治がやってきた時期とかなり近い頃と思われます。ここに牛は少なくとも11頭は数えることができて、実はこれまで私は、「一ぴきのエーシャ牛が…」という作品の冒頭から、囲いの中で牛が一頭だけ飼われている情景を何となく想像していたのですが、考えてみれば中村氏が「牛乳屋」を営むためには、牛一頭で成り立つはずはありません。「逐年事業の増大を成し」た氏は、当時すでにたくさんの乳牛を飼っていたわけですね。
 夜に賢治が目にした時には、他の牛は牛舎の中にいて、たまたま一頭だけが出てきて遊んでいたのでしょう。

 また、「」の下書稿(一)である「海鳴り」には、「黒い丈夫な木柵もある」との描写がありますが、上写真の左の方を拡大した下の画像で見えるのが、その「木柵」でしょうか。

中村牧場拡大写真

 ちなみに、「エアシャー(Ayshire)種」の牛とは、スコットランド原産の乳用種で、もともと貧しい草地と厳しい気候条件の原産地で育てられたため、体質は強健で耐寒性に優れていて、粗放な飼養管理にもよく耐えるので、高緯度の地域で比較的よく飼われていたということです。日本へは、明治11年に札幌農学校に輸入されたのが最初で、明治の末までは政府の奨励品種として普及していました。しかしその後、より乳量の多い「ホルスタイン種」が小岩井や北海道の大規模農場に導入され、大正年間には全国的にホルスタイン種の方が広まっていったということです(「畜産ZOO鑑」および「酪農今昔物語」参照)。
 賢治が中村牧場にやってきたのは大正時代も終わり近くですが、北海道の海辺の吹きさらしのような場所で飼育するには、やはりエアシャー種の方が適当だったのでしょう。

 あと、先日訪問した「サイロ」は、少なくとも上記の写真には見えません。『苫小牧市史』によれば、苫小牧では昭和初期以降、サイロ設置を奨励するために補助金制度などが設けられたということですから、あのサイロは賢治が訪れた後、昭和になってからできたのかもしれません。


 最後になりましたが、今回とり上げた「富士館」および「中村牧場」の写真の存在について、私は浅野清さんという方の「宮澤賢治の北海道紀行(その一)」という Web 上の文章によって知りました。ここに、浅野さんの詳細な調査に敬意を表させていただきます。