小樽商大・小樽公園・手宮洞窟

 昨日は、まず市内のかなり山の手にある「小樽商科大学」に行ってみました。その前身の「小樽高等商業学校」には、賢治は盛岡中学5年の時の修学旅行の時(1913年5月24日)と、花巻農学校教師としての修学旅行引率の時(1924年5月20日)の2回、訪れています。
 後者の訪問について賢治が書いた「修学旅行復命書」には、次のように述べられています。

午前九時半小樽駅に着、直ちに丘上の高等商業学校を参観す。案内に依て各室を順覧せり。中にタイプライター練習室と、並に取引実習室の諸会社銀行税関等の各金網を繞らせる小模型中に於る模擬紙幣による取引など農事実習と対照して甚生徒の興味を喚起せり。商品標本室にては粗なる農産製造品と精製商品との連絡について参考となるべきもの多く殊に独乙の馬鈴薯を原料とせる三十余種の商品標本、米国の各種穀物を炙燉膨脹せしめたる食品等に就て注意せしむ。

小樽商科大学

小樽港等商業学校全景 現在の小樽商科大学は上写真のような様子ですが、賢治が参観した当時は、おそらく右写真のような全景で、これはまさに「丘上」にあるという感じです。

 1903年に、特定分野の高等専門教育を実施する「専門学校令」が公布されると、同年に賢治の母校の盛岡高等農林学校が設立され、商業分野では、山口高商、長崎高商に次いで1910年に開校したのが、小樽高商でした。この時点で、道内では北海道帝国大学に次ぐ二つめの高等教育機関で、当時発展のめざましかった地元小樽の財界の強い働きかけもあって、設立認可されたようです。

 ところで、賢治の「復命書」中に出てくる「取引実習室の諸会社銀行税関等の各金網を繞らせる小模型中に於る模擬紙幣による取引」というのは、下の写真のようなものだったようです。
小樽高商「商業実践室」

 これは本館の「商業実践室」の様子で、たしかに左側のカウンターには昔の銀行のように金網がめぐらされていて、「西南銀行」とあります。「小樽商科大学百年史編纂室」によれば、小樽高商では、最終学年の三年次になると週3時間の「商業実践」という授業があり、室内には銀行・保険・関税・貿易などの会社、個人商店などの窓口が設けられて、学生がそれぞれ担当者・客となり、実習を行ったということです。みんな真剣な顔で「取引」をしていますね。
 また、賢治が「商品標本室」と書いているのは、上の全景写真の方で、中央の「本館」の左隣にある三角屋根の煉瓦作りの建物のことで、「商品陳列館」と呼ばれていたそうです(同じく「小樽商科大学百年史編纂室」より)。


 賢治の「修学旅行復命書」には、上記の小樽高等商業学校の後、次のような記載がつづきます。

十時半同校を辞し丘伝ひに小樽公園に赴く。公園は新装の白樺に飾られ北日本海の空青と海光とに対し小樽湾は一望の下に帰す。且つは市人の指す処、一隻の駆逐艦と二の潜水艇港内に碇泊し多数交々参観に至れるを見る。茲に四十分間解散す。
大なる赤き蟹をゆでて販るものあり、青き新らしきバナナを呼び来るあり。身北海の港市に在るの感を深む。生徒等バナナの価郷里の半にも至らざるを以て土産に買はんなど云ふ。零時半小樽市一瞥を了り再び汽車に上る。

 私も、小樽高商生に「地獄坂」と呼び慣わされた坂道を通って、「丘伝ひ」に小樽公園に行ってみました。

小樽公園より海を望む

 公園内の「見晴台」という場所からは、小樽湾を一望することができました。もちろん駆逐艦などは見えませんが、小さな船のような姿もあります。ただ、83年前に賢治が描いたように、物売りが出ているような賑やかさは今ここにはなく、静かに犬の散歩をする人など何人かとすれちがうだけでした。

 公園を後にす手宮洞窟保存館ると、次には「手宮文字」という言葉が作品中に出てくることでちょっと気になっていた手宮洞窟に行ってみました。ここには現在、市が「手宮洞窟保存館」という施設を作って、遺跡を損傷から守るよう努めています。
 賢治も「手宮文字」と書いているように、この洞窟で発見された線刻模様(下写真)は、古代人が書きつけた「文字」であるという説が、ある時期まで世間をにぎわせていました。大正11年(1922年)の、皇太子=摂政宮北海道行啓の際の記念写真帖にも、「手宮洞窟古代文字ニ向ハセラル」と出てきます。
 しかし、その後まもなく「古代文字説」は否定され、一時は後代の「偽刻説」まで現れましたが、上記「手宮洞窟保存館」の解説によれば、現時点ではこれは、「角のある人」「仮面を付けた人」「角のある四足動物」など、様々な人や動物を描いた「岩壁画」で、「今からおよそ1,600年前頃の続縄文時代中頃?後半」に刻まれたものと考えられているようです。その内容は、大陸のアムール川周辺から中国、朝鮮に至る環日本海圏で見られる岩壁画とよく似ており、とくにシベリアのサカチ・アリアン遺跡にも、「角のある人」が描かれていて、これはシャーマンを表しているという説が有力だということです。

 一方、賢治の「雲とはんのき」に出てくる「手宮文字」という言葉の意味については、秋枝美保氏が『宮沢賢治の文学と思想』(朝文社)において詳細に考察されていますが、これについては私なりにも思うところがあるので、いずれここに書いてみたいと思います。
手宮洞窟の陰刻図

 さて、手宮洞窟の後は、「小樽文学館」をのぞいたり、運河に沿って散策したり、「出抜小路」の澤崎水産で「かに・イクラ丼」を食べたりしました。ゴールデンウィークとあって、このあたりの観光スポットは、小樽公園あたりとは対照的に、たくさんの人出です。

 いちおう予定していた事柄を終えると、のんびりと小樽駅まで歩いて、午後3時に小樽の街を発ち、千歳空港に向かいました。

小樽運河

 そうそう、「賢治の事務所」の「緑いろの通信」によれば、加倉井さんもこの連休は北海道に来ておられるとのこと、その5月4日号の末尾では私の記事にも触れていただきましたが、昨日は網走・北見・釧路とまわられて、今日あたりはどこにいらっしゃるのでしょうか。よい旅をお祈りしています。