少なくともある時期までの賢治は、「あらゆる存在はただ心の現れにすぎない」という、唯心論的な世界観を強く持っていたと思われます。
学生時代の書簡でも、1918年の父あて書簡46には「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候」と書き、1919年の保阪嘉内あて書簡153には「石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」と書いています。
彼のこのような世界観は、「三界唯一心、心外無別法」(華厳経)という言葉に見るように仏教の根本であるとともに、自らの心的現象の描写によって世界を記録しようとする、「心象スケッチ」の方法論の基盤でもありました。
ただ、若い頃の賢治は、あまりにも「自らの心象」を重視するあまり、他者の存在までも自分の内部の出来事のようにとらえる、「独我論」に傾くきらいもあったように思われます。
1918年の書簡49は、退学になった保阪嘉内を慰めるために書かれたものですが、そこには「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか」などと綴られていて、親友の退学という深刻な事実を相対化しようという意図なのでしょうが、それが賢治の中の現象だと言われても、保阪嘉内にとってあまり慰めになったとは思えません。
あるいは「春と修羅」には、「草地の黄金をすぎてくるもの/ことなくひとのかたちのもの/けらをまとひおれを見るその農夫/ほんたうにおれが見えるのか」という、賢治の深い孤独感を象徴する一節がありますが、この「農夫」は賢治にとってはあくまでも自らの心象の中の「ひとのかたち」にすぎず、彼とは別個の主体として、こちらを見返す眼差しを持った存在とは、思われていないかのようです。
その後、このような独我論的な世界観とは、明らかに違った見方が現れるのが、『春と修羅』の「序」です。
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
ここでは、世界の様々な現象はやはり「こゝろのひとつの風物」と見なされており、唯心論に立っていることに変わりはありませんが、それは「わたくし」だけのものではなく「ある程度まではみんなに共通」するものなのです。そして、自己と他者の関係については、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべて」であることによって、「わたくし」と「みんな」は対等な位置を占めるようになります。
さらにまた少し後の箇所では、「けだしわれわれがわれわれの感官や/風景や人物をかんずるやうに/そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに」と述べられていて、ここでも「われわれ」が「共通に感ずる」ことが強調されていて、心象はもはや自分一人のものではないのです。
あるいは「小岩井農場(下書稿)」という初期の段階では、自らの体験する幻覚について、「おいおい。幻想にだまされてはいけない。/幻想だと、幻想なら幻想をおれが、/感ずるといふことが実在だ。/かまふもんか。」と記していて、この「自分が感ずるということが実在だ」というのはやはり独我論的な見方でしたが、後の「小岩井農場(初版本)」になると、「さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て」と述べていて、「たれにも見え」る客観的・科学的な「実在の現象」に依拠する態度をとっています。
このような変化は、賢治の世界観における重要な転換だと思いますが、その変化が起こった時期を推測してみると、「春と修羅」や「小岩井農場(下書稿)」が書かれた1922年の前半から、「小岩井農場(初版本)」や「序」が書かれた1923年終わり~1924年初めまでの間のどこかだろうと、ひとまず言えるでしょう。
では、賢治がこのように世界観を変化させていった要因は、いったい何だったのでしょうか。
ここで私が気になったのが、「
この「共業所感」という仏教用語の意味するところは、「この世界でわれわれを取り巻く環境は、その中で生きる全ての衆生たちが積み重ねてきた「業(karma)」の総和(=共業)によって形成されるのだ」ということです。彼の作品中では、1924年5月16日の日付をもつ詩「〔鉄道線路と国道が〕」の下書稿(一)に、「風や水やまたかゞやかに熟した春が/共業所感そのものとして推移しますと……」という形で、一度だけ登場します。
また、やはり1924年~1925年頃に書いたと推測される「法華堂建立勧進文」には、次のように「
世界 は共 の所感 ゆゑ毒 重 ければ日 も暗 く饑疾 風水 しきりにて兵火 も遂 に絶 えぬなり正信 あれば日 も清 く地 は自 から厳浄 の
五風 十雨 の世となりて招 かで華果 の至 るなり
この「
ということで、1923年~1924年あたりに、賢治が「共業所感」という言葉に出会ったと思われる仏教書等が何かないか少し調べて見たのですが、なかなかこれというものに行き当たりません。
そんな時に、栗原敦さんのまとめられた「小倉豊文宛宮沢政次郎書簡集(一)」をたまたま見ていましたら、政次郎氏は書簡の中で、この「共業所感」という言葉を何度も使用しているのです。
※
この書簡集に収録されている、1943年(昭和18年)11月から1945年(昭和20年)4月までの18通の書簡において、政次郎氏は5か所で「共業所感」という言葉を用いています。
まずは、昭和19年8月10日付けの、書簡7です。以下、太字強調はいずれも引用者によります。
偖此度ノ御懇書ハ誠ニ意味深ク拝誦仕候 東海ノ君子国トハ昔ノ事摺レカラシノユダヤト交際中ニ箱入リ息子(カ)モ余リウブデハナク七十余年ニ余毒精算ニ大手術ノ苦悩トモ思ハレ共混乱ト動揺ノ多少アルヿハ止ムヲ得ズトシテモ茲ニ大覚醒セネバナラヌ事ハ仰セノ如ク百年戦覚悟ニテ彼等動物的性格ニ見レバ大蛇ノ如ク執拗ナル英ゴリラノ如キ米ニ対シテハ桃太郎デハ勤マラズ必ズヤ智恵モ鋭ク力モ伴フ大人格デナクテハナラズ箇様ニ見テ来ルト箱入息子ヤ娘ハ根本ヨリ出直ス必要アリ 肉体ニ水ヲ冠ル禊位デハナク心ノ底ヨリ沁ミ付いた垢ヲ洗ヒ真ノ出直シ立直シノ必要アルヿト存ジ候
此洗練ノツラサハ共業所感トシテハ地球上ノ老幼男女ノ全体ニマデ及ボシ候事ハ気ノ毒ノ次第ニ候(昭和19年8月10日 書簡7)
大戦において、大蛇のようなイギリスやゴリラのようなアメリカと戦うためには、日本は桃太郎あるいは箱入息子・娘では太刀打ちできないので、「肉体ニ水ヲ冠ル禊位デハナク心ノ底ヨリ沁ミ付いた垢ヲ洗ヒ真ノ出直シ立直シノ必要アル」と述べ、その「洗練」の辛さは「共業所感トシテハ地球上ノ老幼男女ノ全体ニマデ及ボシ……」と述べ、つまり日本および地球上の当時の戦禍の苦しみを、「共業所感」と捉えているわけです。
次は、昭和19年9月4日付けの、書簡9です。
地獄の縮図とも見らゝる戦争絵巻も箇々の所応や皆各自因縁の所作なると思へ候 身毛戦慄せらるゝを覚へ候
〔中略〕
共業所感とハ申せ首陀も刹利も同様の苦悩何とも気の毒の事ながら此時節ニあるものゝ因縁の所応ト申す外なかるべく候 これは国土防衛の上でハ惣蹶起であり心身の内観よりハ惣懺悔でなくてハならぬ事と存候
やはり「地獄の縮図とも見らゝる戦争絵巻」に、深い哀惜を感じながらも、それを身分に関係なく地球上の全ての人々の業による、「共業所感」と捉えています。
次の昭和20年3月9日付け書簡15には、2か所に「共業所感」が出てきます。
左りながら此時節となりてハいづこも同じ共業所感の悩みなきハ先つ現代人にハなき事と存せられ其中ニ別業の所感ハ又箇々に働いて何れハ免れ難き事ながら同じくハ明らかに因果を信ずる人にハ悩みも軽く受けられ候事と存候
〔中略〕
空襲下随分鬱陶敷御事ながら何れも同じ共業所感の下信念強く此時局を通過致し度く存候
この戦禍の苦しみを、皆の因果による「共業所感」と捉えた方が、「悩みも軽く受けられ候」として、仏教的な諦念の効用を述べています。
最後に、昭和20年3月21日付け書簡16です。
一念五百繋念無量劫とも承り候へバ因果の深くして又慎しむべき慄然たるを禁じ得ず候 思へばユダヤも哀れな国民に候 幾千の昔に祖国を失ひ他国に漂浪してハ迫害を受け積り積りし怨恨が陰性に背屈して報復を考へ民力に乏しき処を資財と陰謀にて深酷な報復を期図しそれが現はれて今の世相となりしものと存候 其中にも又報復の種類の変り目も見られ長き月日葛藤と迫害を経過せしバルカン地方や独墺地方蘇聯地邦ハ被害は甚大に直接の交渉ハなくも東洋も又累を被りしハ共業所感にもあり末法にもあり各自の因果にてあるべきも我日本の現状の如きハ正に開闢以来の国難に当面したる事ハ遺憾限りなく候も別業ハ又各別と存候
ここでは、この世界大戦をユダヤの怨恨によるものとする解釈が示されていますが、それでも誰かを一方的に悪者とするわけではなく、やはり「共業所感」であり「末法」であるとしています。
総じて、現世を生きる人間が意図的に起こす戦争を、過去世の「業」による「共業所感」として理解することに、若干の違和感がないではありませんが、しかし賢治も「法華堂建立勧進文」では「
当時、戦争真っ只中の日本では、日本が「正義」であり米英は「悪」であるという政府によるプロパガンダが行われていたわけですが、その中で政次郎は「鬼畜米英」などというスローガンには抵抗感を示し、戦争そのものは敵味方関係なくその双方の責任による「共業所感」であると見て、地球上の全ての人々への同情を述べているわけですから、この頃の一般人としては冷静で客観的な見方をしていたと言えるでしょう。
ただ、以上は賢治没後の政次郎の書簡ですから、賢治生前の政次郎の考えそのものとは言えません。しかし、若い頃から仏典を幅広く勉強していた政次郎のことですから、「共業所感」という概念に関するこのような見識は、賢治が生きていた頃から持っていたと考えるのが自然ですし、そうすると賢治もこれについて自ら仏教書等で読む以外に、普段の会話の中で父から聞く機会も十分ありえたことになります。
ということで、はっきりしたことはわからないものの、先日は「親子の宗教意識」という記事に書いたように、ここでも父親からの宗教的影響が賢治に作用していた可能性を、想定することができるわけです。
かなり主観的で独我論的だった『春と修羅』前半までの賢治の世界観が、より客観的で相互的なものに変化していった背景に、父親の存在を見ることができるのかもしれません。
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