親子の宗教意識

 7月の安倍元首相の銃撃事件以来、「宗教2世」の問題に社会的な注目が集まっています。特に親がカルト的な新興宗教にのめり込んでいる場合、その子供には心理的・経済的に様々なマイナスの影響がありえますが、既成宗教あるいは伝統宗教と呼ばれる教団の信者家庭も、この問題に無縁でありえないことは、私自身も仕事の中で常々実感しているところです。

 宮澤賢治が生まれた家庭も、ご存じのように父の政次郎や親族が浄土真宗の篤信家で、家の中には濃密な宗教的雰囲気が満ち満ちていました。このことが、後年の彼の深い宗教性を形づくる上で大きな役割を果たしたことは明らかですが、そこに何らかの「問題性」があったという文脈で語られることは、これまであまりなかったように思います。
 しかしその中で、栗原敦さんの1973年の論考「賢治初期の宗教性──宮沢賢治論(一)」(大島宏之編『宮沢賢治の宗教世界』所収)は、父親の信仰が賢治の上に落とした「影」の部分にも迫る、貴重な視点を与えてくれるものです。

 この論考の中で栗原さんは、幼い賢治が経典を暗誦して家族を驚かせたという、通常は(「栴檀は双葉より芳し」的に)ポジティブな意味合いで語られるエピソードについて、次のように述べておられます。

 年譜を見てくると、明治三十二年で次のような記事に出あう。
「四歳 浄土真宗の経典『正信偈』『白骨の御文章』を家人から聞いて暗誦した。」
 いわば、賢治の宗教生活の第一頁をかざる記事ということになるわけなのだが、私たちはいったいにこういったことの恐ろしさについて、あまりに見落としているのではないだろうか。ここで家人とは、父政次郎や伯母にあたる平賀ヤギなどをさしているわけで、その薫育によっておのずと身についていく宗教心というものを想像することができる。しかし、いったい宗教心とか信仰心というものは何であるのか。とりわけ、四歳の子供にとって「正信偈」や「白骨の御文章」が彼の必然性として選ばれるはずはないと考える時、あらかじめ検討しておかなければならない。
 幼少年期に付与された宗教心は、一般性としては、彼の現実にとっての過剰な観念である。すると彼の現実をこえた余剰分の観念はどこへ行くか。それは彼自身来歴を知りえない生得のもののごとく、感性のうちに染め込まれる。つまり、得体の知れない重荷として、時には不安や恐れの素因を形成しうるのである。感性自体を対象化する方法をとらない限り、「生得」はその関係を改変しない。こういった構造は、ふつう私たちが意識しているよりもよほど恐ろしい影響を私たちに与えているにちがいないのである。(『宮沢賢治の宗教世界』pp.88-89)

 最初の方と最後の方で、「恐ろしさ」「恐ろしい影響」と繰り返し出てくる言葉に、思わず身が引き締まります。
 賢治の生涯や作品を見る時、彼がたしかに栗原さん言うところの「得体の知れない重荷」を背負っていたように感じるのは、私だけではないでしょう。作品の登場人物や彼自身が、そういった重荷を引き受けつつ刻苦勉励する姿は、傍目の私たちにとっては感動を与えてくれる要因の一つでもありますが、しかしそれは同時に、ある種の「悲劇」でもあります。
 賢治のこの「得体の知れない重荷」の由来としては、「貧しい人から利ざやを稼ぐ商売で自分たち家族が豊かな生活をしているから」という罪障感などもこれまで挙げられていて、おそらく彼の意識においてはそれも大きかっただろうとは思いますが、栗原さんに指摘されてみれば、彼自身にも不明な無意識下で動いていた要因として、上のようにアプリオリに与えられた宗教的な「過剰な観念」も、相当に重要なものだったのではないかと思われます。

 また、政次郎が息子を評して、「賢治には前世に永い間、諸国をたった一人で巡礼して歩いた宿習があって、小さいときから大人になるまでどうしてもその癖がとれなかったものだ」と語ったことについては、栗原さんは次のように述べておられます。

 だから、父政次郎が賢治のことを〈哀しいもの〉を宿習としてもっていたと言ったのは、いうなれば賢治に反射した自分自身の信仰を感性にうつして語ったものであったと見ることができる。まさに「宿習」とか「前世」とは、俗にいう「親の因果」に他ならないという思いを禁じえない。一方、賢治の側には、それゆえ、父親からの信仰の転移になっていたわけである。(『宮沢賢治の宗教世界』p.90)

 たしかに、子供の持つ何らかの性質の原因を考えるとなれば、得体の知れない「前世」を云々するよりも、まずは現世の環境要因、とりわけ親の影響を考えるべきというのは道理です。

 さらに栗原さんは、賢治の妹トシが大学時代に祖父喜助に宛てた手紙を題材に、父から子への影響を別の角度からも検討します。トシはこの手紙で病床の祖父に対して、死後の魂の問題を真摯に考えるように、そして自らの行いを厳しく省みるように勧めるという、孫としてはかなり差し出がましい説教をしているのですが、その内容と動機について、栗原さんは次のように指摘します。

 生死についての考えから、因果応報、生活の中における善悪観、それにともなう罪障感と自己反省、いずれをとりあげても父政次郎の宗教的道徳的薫育ならざるものはない。この書簡集の編者(引用者注:トシ書簡集編者の堀尾青史氏)も、「常識的にいっても、孫が病人の祖父を説教するというのは珍しい」と驚いており、そのわけを「多分トシ自身の緊張した心の問題があったのだろう」と推測しているが、恐らく本質的な根拠は、親が子に与えた観念(宗教・倫理的)の自己増殖性というものにあったと思われる。子にとっては、与えられることで身につけた善なるもの・正しきものの観念は、現実の関係の中にではなく感性のうちによりどころをもつばかりだから、現実の障害が感性自体を疑わせる程にならない限り、だれにむかっても普遍的に投げかけうるものと思われるのである。こういった構図は、トシの場合も賢治の場合も、ほとんど同様であったと言いうる。(『宮沢賢治の宗教世界』pp.91-92)

 「観念の自己増殖性」という言葉が不気味ですが、これは本人の意思にかかわらず意識下から生まれてくる、「強迫観念」とも言えるものでしょう。

 そして以上の考察は、ひとまず次のようにまとめられます。

 再言すれば、父親が宗教的なことばを通じて息子たちに与えようとしたものは、実は、実生活において彼が自分自身果しえなかった信念であり、また信じながら日々裏切らざるをえなかった宗教的理念であった。だから、政次郎はいつか遠からぬうちに、彼自身のいわば理想主義の公式的な適用から復讐をうけることにならざるをえないのである。(『宮沢賢治の宗教世界』p.92)

 ということで、父政次郎にとってはかなり厳しい視点からの分析ですが、鋭く核心を突いていると思います。
 上記のように考える時、宮澤賢治という人も、父親からの大いなる宗教的負荷を受けて育ち、ずっとその重荷を抱えて生きざるをえなかった、一人の「宗教2世」だったと言えるのではないかと思うのです。

 おそらく政次郎は、自分の父喜助がひたすら金を儲けることと、現世的な享楽(食い道楽や義太夫など)に明け暮れることに反発を感じつつも、しかし己れの務めとして、家業には全力で邁進したのでしょう。その結果、喜助以上に金儲けの才覚を発揮しましたが、その過程では、正当な商売ながら他人から金銭を搾り取っているという面も否めず、良心の呵責を感ずることもあったのではないでしょうか。
 そのような負い目の意識を、政次郎は仕事と同じように全力を尽くして信仰に身を捧げることで、何とかバランスをとっていたのではないかと、私は思うのです。親鸞の教えでは、善人であろうと悪人であろうとほぼ全ての人間は無力で、結局自力では問題を解決することはできず、阿弥陀の力に頼るしかないのです。商売のやり方が少々甘かろうと悪どかろうと、仏から見れば所詮は「どんぐりの背比べ」にすぎません。
 政次郎が金儲けのために「日々裏切らざるをえなかった宗教的理念」を自覚していたとすれば、なおさらのことそのような悪人は阿弥陀にすがるしかなく、また阿弥陀によって救われるのです。

 さて、その政次郎の息子として生まれた賢治は、父がもたらした負い目の感情と、無条件の信仰と献身を当然とする空気を身に受けて育ち、素直に父の教えを吸収していったことでしょう。しかし、その負い目の感情は、ずっと重くのしかかったままでした。
 その理由は、父は自らの負い目を薪のように燃やして、花巻全体の在家仏教界を動かすほどの熱量で宗教的献身を行ってきたのに対し、賢治は父の負い目の商売で何不自由なく養われつつ、宗教的にも父が準備した道をただ安穏と歩むだけでは、抱えた負い目がどうしても燃えずに残ってしまうのです。
 そこで賢治がその負荷を、父のように自分の力で燃やして進むためには、その燃焼と釣り合う熱量で切り拓くべき「新たな別の道」を、見つけるしかなかったのです。

 こうして賢治は、父の宗旨である浄土真宗を捨てることになり、また負い目の由来である家の商売を継ぐこともありませんでした。これが、栗原さんが上記の引用箇所で、「政次郎はいつか遠からぬうちに、彼自身のいわば理想主義の公式的な適用から復讐をうけることにならざるをえない」と書いておられるところの、「応報」なのかと思います。

 しかしこの後の、おもに賢治の死後の政次郎の生き方は、そのような「親の因果」を、自らの責任で回収しようとするものだったようにも見えるのです。
 賢治が継がなかった家業は、その後次男の清六が引き受けて金物・電動機具商に転じ、これは戦災で廃業を余儀なくされますが、その後の清六は政次郎の方針で、もう新たな事業は行いませんでした。
 そして事業の代わりに清六がやったのは、賢治の作品を世に送り出し、彼の思いを人々に広く伝えることでした。清六はこの役目に残りの半生を捧げることになります。

 また宗教的には、やはり戦後になって政次郎は、宮澤家代々の宗旨を浄土真宗から賢治の奉じた日蓮宗に改宗し、賢治の遺骨も浄土真宗の安浄寺から日蓮宗の身照寺に移したのです。
 先祖代々、安浄寺の檀家の中心的な役割を果たしてきた宮澤家が、そのお寺と縁を切って別の宗旨に変えるというのは、社会的にも相当重大な決断を要したことと思います。

 政次郎が改宗を決断した詳しい経緯は明らかにされていませんが、知らずに自分が息子に課していた重荷を、遅ればせながら自分も自ら背負ってみて、後から同じ道を歩んで行こうとしたようにも感じられます。

 それに信仰を同じくしておけば、ひょっとしてまた次の生でも、二人は出会えるかもしれませんし……。

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