三代の生活意識

 先週の「親子の宗教意識」という記事では、父政次郎の信仰が賢治に与えた影響について、栗原敦さんの考察を拠り所にして考えてみました。
 ところで、賢治と政次郎という父子が、似た部分と正反対な部分を併せ持ち、一筋縄ではいかない独特の関係にあったように、政次郎とその父喜助も、「商売熱心」というところは共通する一方、宗教や教育に対する考えは対極的なようで、一世代上のこの父子の関係にも、なかなか興味深いものがありそうです。賢治も含めた三世代は、喜助が亡くなるまで一緒に暮らしていましたが、後述するように賢治の性向には、祖父喜助に対する隔世代的な反動と思える要素も一部見られて、三者の関係はけっこう複雑そうです。

 そこで今回は、喜助─政次郎─賢治という宮澤家三代の、それぞれの人となりの特徴について、考えてみたいと思います。

20221030f.jpg 賢治の祖父宮澤喜助(右写真は筑摩書房『写真集 宮澤賢治の世界』より)は、1840年(天保11年)に生まれ、1917年(大正6年)賢治が21歳の時に亡くなっています。商家の三男という立場で、ごくわずかの金をもらって分家し、小さな古着屋・質屋を開いて、当初はかなりの苦労をしたようですが、質素勤勉を旨として努力を重ね、次第に財産を蓄えていったということです。
 一般に賢治の評伝においては、父の政次郎は「厳父」、母のイチは「慈母」と呼び慣わされていて、二人とも伝統的家庭の親たる者の理想像のように描かれることが多いのですが、なぜか祖父の喜助には好意的な描写が少なく、年譜では「石に金具を着せたような堅物」などと表現されています(『新校本全集』第十六巻下年譜篇p.7)。
 日常生活の様々な場面で、喜助のために他の家族が苦労したという話が伝わっていますが、以下では「宗教」「教育」「食」「芸術」という四つの分野に関して、喜助―政次郎―賢治という三世代それぞれの意識を、順に見ていくことにします。

1.宗教

 まず前回も見た宗教意識ですが、宮澤家は祖父喜助の代も、浄土真宗の安浄寺の檀家だったので、喜助も浄土真宗に帰依していたはずです。しかし、その実際の信心の様子は前回もご紹介したように、孫のトシから「真面目に信仰するように」と説教する手紙を送り付けられたりするくらいですから、相当に心もとないものだったと思われます。この手紙でトシは、「仏様とはいかなる御方かなどと云ふ事は御父様がよく御承知にて……」と書き、仏教については政次郎に教えを乞うように祖父を諭しており、政次郎と喜助の間の宗教的格差が如実に表れています。

 このトシの手紙の後、喜助が心を入れ替えて信仰を深めてくれたらよかったのでしょうが、そうはならなかったことを示す手がかりが、後の賢治の書簡に見られます。喜助の死の翌年に賢治が父政次郎にあてた書簡44には、「亡祖父様いづれに御出でなされ様やも明かならず……」と記されているのです。
 ここで賢治が心配しているのは、「喜助の死後の行方が不明である」ということであり、もしも喜助が真面目な浄土真宗門徒として、毎日きちんと南無阿弥陀仏を唱えておれば、その死後は阿弥陀如来の力によって極楽往生が約束されているので、行方は明らかです。それなのに賢治が、「亡祖父様いづれに御出でなされ様やも明かならず」と言っているということは、結局喜助は最期まで十分な信心を示さなかったのだと、考えざるをえません。

20221030c.jpg 一方、政次郎(右写真は30歳頃、筑摩書房『写真集 宮澤賢治の世界』より)は、長年にわたって花巻の夏季仏教講習会を中心的に運営し、個人的にも当時を代表する様々な仏教者に教えを乞うとともに、他方では多くの仏教専門書を購入し読んでいたわけで、本当に篤い信仰心を持った人だったようです。「自分は仏教を知らなかったら三井、三菱くらいの財産は作れただろう」という政次郎の言葉は、己れの商才に対する並々ならぬ自信とともに、その財産を上回るほどの深い信仰を仏教に捧げたという自覚を、示すものでしょう。
 不信心な喜助とは対照的に、政次郎が信仰に生きるようになった背景には、金儲けに徹し、あとは後述のように美食や義太夫に興じた、父喜助に対する反動もあったのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。

 さて、前回も見たように、このような父親が作り上げた濃密な宗教的環境の中で賢治は成長し、やはり仏教を深く信仰していきます。ただ賢治は、青年期に父の浄土真宗を棄てて法華経への熱狂的な信仰に転じ、一時は父と激しい衝突を繰り返すようになりました。
 政次郎が、己れの信仰を常識的な規範の中に収めつつ円満な社会人として生きたのに対して、賢治は信仰のために家出をしたり、寒修行と称して夜の町中を大声で「南無妙法蓮華経」と唱え歩き周囲の顰蹙を買うなど、その激しさは時に常識的な範囲を逸脱することもありました。
 彼は父の宗教心を受け継ぎながらも、それを超越してしまう部分もあったのです。

2.教育

 学校時代の賢治を語る上でよく話題になるのは、祖父喜助が「商人に学問は必要ない」という考えを持っていたことによる束縛でした。喜助は、小学校では優等生だった賢治を当初は中学校に行かせるのも乗り気ではなかったということで、これは政次郎の説得によって渋々了承したものの、それより上級校に進学することはどうしても許さず、賢治は中学の高学年になると勉強の意欲をなくして、成績や素行も低下していきます。卒業すると、高等学校に進学する級友たちを尻目に、賢治はまるで生きる目標を失ったような有り様で、悶々とする日々を送るようになりました。
20221030d.jpg しかし、ちょうどこの年に喜助から家督を引き継いだ政次郎は、家長としての権限によって、賢治が盛岡高等農林学校に進学することを許可します。これで一挙に道が開けた賢治は、一躍勉強に邁進して、見事に首席入学を果たすのです(右は盛岡高等農林学校入学願書用写真、筑摩書房『写真集 宮澤賢治の世界』より)。
 さらに政次郎は、長女トシも東京の日本女子大学に進学させますし、次男清六は盛岡中学卒業後に東京の研数学館に、次女三女は花巻高等女学校に行かせており、当時の地方にあっては、稀に見るほど教育熱心な人だったと言えます。

 政次郎がこのように教育熱心になった背景には、父喜助の「商人に学問は必要ない」という方針によって、自分が中学校にも行かせてもらえなかったことの反動もあったのだろうと、私には思えます。
 また成人した政次郎は、商売に励む一方で厖大な仏教書や経典を買い集め、貪るように勉強をするのですが、これは若い頃にやり場のなかった向学心を、後にこのような形で満たそうとしていたのではないかと思われます。それにしても小学校を出ただけで、難解な経典を自力で読み進めていくのは大変だったと思いますが、その勉学への情熱には頭が下がります。

 そして、このような政次郎のおかげで勉学に励むことができた賢治も、その後は自ら教壇に立って独創的な教育を行ったわけですから、もちろん教育熱心な人となりました。

3.食生活

 賢治の評伝において、もう一つよく話題になる喜助のエピソードは、食い道楽で美食にこだわり、よく家族を困らせていたということです。『新校本全集』第十六巻の年譜篇には、次のような記載があります。

 喜助は義太夫好きで、朝顔ラッパの蓄音器で越路大夫や呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本も集めた。また、食いしん坊で料理にうるさく、とりわけ魚好きだった。酒の肴なので量はしれているが、皿数が少ないと文句をいうので、台所をうけもつ者は手間がかかった。賢治の母イチの話によると「鮎など一匹二銭ぐらいもする大きなものを、二匹、でっぱりと大皿につけさせて、おじいさんは食べておりました。塩引きが一本八銭ぐらいの時で、鮎などは、何年たっても食べない人もあるのですから、「おごりの頂上」(ぜいたくの極致)でした」というありさま。孫のシゲたちに「サカナ、食べるか」といってよこすのも、おいしい身ばかり食べたあとの残り物で、子どもたちをがっかりさせる。この料理にうるさい祖父のためにイチの手のまわりかねる姿に義憤を感じた孫のトシが、祖父をやりこめた手紙もある。
 のち脳出血で倒れて下根子桜の別荘で療養したが、そのときも魚料理をとどけてこないと文句をいった。これは病気によくないという政次郎の配慮だった。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻下年譜篇pp.8-9)

 そしてそのように病気を理由にたしなめられても、「おれのもうけた財産だ。おれの好きなもの食わせないというごとあるか」と言って、あくまで魚を要求したことも年譜には記されています。喜助の食へのこだわりは、年譜編纂者からも呆れられている感があります。

 一方、政次郎の食への意識がどうだったかということは、賢治の年譜等には記載がなく、詳細は不明です。しかし、特に喜助のように美食にこだわることはなかったようで、また特に食事を倹約していたというわけでもなく、まあ常識的なものだったのではないかと推測されます。

 さて、賢治の食への意識というと、時には高級な料理店で生徒にご馳走をしたとかいう話もありますし、「やぶ屋」で食べていたという「天ぷらそばとサイダー」というセットも立派なものですが、基本的には菜食主義で、粗食を旨としていました。自炊をしていた羅須地人協会時代は、「井戸に吊しておいた飯に醤油をかけて食べる」とか、「トマトだけ」や「じゃが芋だけ」で済ませる食事も多かったようで、この時期の粗食による栄養不良が、青年期に感染していた結核の再燃の主因になったとも言えます。

 ところで賢治は、1918年の保阪嘉内あて書簡63に、不平を言いながら魚を食べる人への「悪口」を綴っています。

さりながら、(保阪さんの前でだけ人の悪口を云ふのを許して下さい。)酒をのみ、常に絶えず犠牲を求め、魚鳥が心尽しの犠牲のお膳の前に不平に、これを命とも思はずまずいのどうのと云ふ人たちを食はれるものが見てゐたら何と云ふでせうか。もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横たはってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあはれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、わざわざ「保阪さんの前でだけ人の悪口を云ふのを許して下さい」と断っていることから、ここに描かれている内容は単なる空想ではなく、実在の人物への感情だと思われます。すなわち、ここに登場する「酒をのみ、常に絶えず犠牲を求め、魚鳥が心尽しの犠牲のお膳の前に不平」を言っているのは、実際に賢治の周囲にいた人物と推測され、そして上に年譜から引用した祖父喜助の言動を見ると、これは喜助のことを指していると考えざるをえません。
 となると、賢治が魚を食べることに抵抗感を覚え、菜食主義に至った要因の一つは、祖父喜助が魚に執着するあまり見せていた醜態や、母への無理難題への反発だったのではないかと、思えてきます。隔世代的に現れた反動というべきでしょうか。

4.芸術

 上に『新校本全集』の年譜から引用したように、「喜助は義太夫好きで、朝顔ラッパの蓄音器で越路大夫や呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本も集めた」ということで、「堅物」という評価からすると意外にも、相当に芸事を好んでいたようです。

 政次郎が、こういった芸事や芸術に対してどのような意識を持っていたのかはよくわからず、特に何かを趣味として愛好していたという記録もありません。賢治の作品に対して、「唐人の寝言のようなものではだめだ、どんな本が売れているか本屋へいって調べてみよ、と言った」(『新校本全集』第十六巻下年譜篇p.20)というエピソードは、創作をその中身よりもマーケティングによって指南していて、いかにも商人らしい発想が面白いです。
 ということで、政次郎自身は何も芸術を嫌っていたわけではないでしょうが、さほど愛好していたわけでもなさそうです。

 そして賢治は、文学はもちろんのこと、浮世絵収集やクラシック音楽のレコード収集への情熱にも表れているように、芸術に対して並々ならぬ才能と関心を持っていたことは、言うまでもありません。

 すなわち、芸術に関しては、なぜか喜助と賢治が隔世代的に類似した傾向を示しているということになります。

 以上、宮澤喜助・政次郎・賢治という三世代の、「宗教」「教育」「食」「芸術」に対する意識を、通覧してみました。ここで試みに、上の内容を図にしてみます。
 図の(-)は意識が弱いこと、(0)は平均的、(+)は意識が強いことを表しています。

 まず、「宗教」に関しては、喜助は不信心で満足に念仏も上げなかったらしいのに対し、政次郎と賢治は非常に宗教意識が強かったわけです。その二人を比べると、常識的で穏健な信仰を貫いた政次郎に対し、賢治は規範を逸脱するほど熱狂的な信仰を示した時期もあったため、下図で賢治の意識は右欄外にはみ出して表示してあります。

宗教意識
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 次に「教育」については、「商人に学問は不要」と言う喜助は教育軽視、一方で政次郎と賢治は教育重視なので、下図のようになります。これは、上の「宗教意識」とよく似たパターンです。

教育意識
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 食については、喜助はこだわりが非常に強く、政次郎はひとまず平均的と考えられ、賢治は食意識を抑圧していたように思われることから、下図のようになります。上述のように、賢治の食に対する態度は、喜助に対する隔世代的な反動のようにも感じられます。

食意識
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 芸術に関しては、喜助は意識が強く、政次郎は平均的で、賢治がまた意識が強いことになります。喜助と賢治が同じ傾向を示すのは、今回の五つの分野では、これだけです。

芸術意識

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 最後に、賢治には申しわけないですが、それぞれの「商才」を図にしておきます。祖父と父が同じで、賢治だけが逆というのは、上にはない新たなパターンです。

商才

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 ということで、こういう図にしたからといって特に何か大した結論があるわけではないのですが、まず一つ感じられることは、宮澤家のこの三人というのは、みんなそれぞれ相当に個性的で、その性質は平均的であるよりも、プラスかマイナスかどちらかに大きく偏った特徴を持つ場合が多いということです。

 それからもう一つは、子供が父親の性質をそのまま引き継ぐことは少なくて、あたかも父への反動のように、親とは反対方向の特徴を持つ場合が多いということです。これは上に述べたような、「それぞれが個性的」ということとも関係しているでしょう。
 以前から指摘されてきたように、賢治がしばしば父政次郎に反発して、父とは逆の道を行こうとしたように見えるのは上図でもわかりますが、その政次郎自身も、あるいはむしろ政次郎の方が、自分の父喜助とは逆の生き方へと進んでいることが多いのが、興味深いところです。
 賢治は、表立ってはっきりと父親に反抗したのに対して、政次郎はあまり波風は立てないようにしながらも、実際には喜助を反面教師としつつ、冷静に自分なりの別の道を進んで行った、という感があります。