四信五行に身をまもり

 「口語詩稿」に分類されている「〔四信五行に身をまもり〕」は、冒頭部分を欠いた断片で、下記が全集に掲載されている最終形テキストです。

〔冒頭原稿なし〕
四信五行に身をまもり
次なるぼく輩百姓技師は
すでに烈しくやられて居り
最后の女先生は
ショールをもって濾してゐる
さても向ふの電車のみちや
部落のひばのしげりのなかに
黄の灯がついて
南の黒い地平線から
巨きな雲がじつに旺んに奔騰するといふ景況である

 この状態のテキストだけを読むと、いったいどういう状況を描いているのかわからず途方に暮れてしまいますが、実はこれは文語詩「〔さき立つ名誉村長は〕」の先駆形であることが明らかにされているので、後者を参照すると、様子が見えてきます。

 下記が、その文語詩「〔さき立つ名誉村長は〕」です。

さき立つ名誉村長は、   寒煙毒をふくめるを、
豪気によりて受けつけず。

次なる沙弥は顱を円き、  猫毛の帽に護りつゝ、
その身は信にゆだねたり。

三なる技師は徳薄く、   すでに過冷のシロッコに、
なかば気管をやぶりたれ。

最后に女訓導は、     ショールを面に被ふれば、
アラーの守りあるごとし。

 上の文語詩と口語詩「〔四信五行に身をまもり〕」を比較すると、口語詩の方に残存しているのは、文語詩の第2連の2行目以降、と考えられます。
 そして、信時哲郎さんの『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』における推定よれば、ここに順番に登場する四人の人物は、次のような顔ぶれではないかということです。

  • 名誉村長:長く湯口村長を務め、賢治と法論を戦わせたエピソードもある阿部晁
  • 次なる沙弥:浄土真宗の僧籍も持つ農学校の同僚白藤慈秀
  • 三なる技師:賢治自身
  • 最后の女訓導:羅須地人協会時代に賢治と交流のあった高瀬露

 ということで、出てくるのは皆それぞれ、賢治と浅からぬ因縁のあった重要人物ばかりのようなのです。
 信時さんの推測では、この四人はある農事講演会でそれぞれ講演を行って、終了後に一緒に吹雪の中に出た時の情景が、詩に描かれているのではないかということですが、この四名が勢揃いしている様子は、想像するだけでも楽しくなってきますね。もしも賢治の伝記映画を作るならば、ぜひとも入れたいワンシーンです。

 賢治がわざわざこの場面を文語詩に創作したのは、彼もやっぱりこの4人のショットが、自分の人生の中で印象に残るものだったからなのではないかと思います。

 ところで今回、この「〔四信五行に身をまもり〕」を取り上げようとしたきっかけは、「四信五行」という言葉は『大乗起信論』に由来していて、他の仏教の経論には見られないということを書こうと思ったからだったのですが、調べてみるとそのことはすでに原子朗さんの『定本 宮澤賢治語彙辞典』にも、『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』に収められた赤田秀子さんによる評釈にも書かれていましたので、わざわざ今さら言うほどのことではありませんでした。
 しかし、賢治と『大乗起信論』の関わりを示す一つの証左として、ここに一応書きとめておくことにします。

 さて、『大乗起信論』の体系は、一般に次のようにまとめられるのが通例です。

一心 ─ 二門 ─ 三大 ─ 四信 ─ 五行

 全世界のあり方と仏教の信仰が、美しい数的形式に整序されていて、西洋で言えばピタゴラス派のような趣があります。

 最初の「一心」は、立義分冒頭で、「大乗=衆生心=真如」として提示される、この世界全体のことです。『大乗起信論』は、この全世界が衆生の「心」であり、しかも実はそれは唯一で本来清浄な「心=真如」である、と説きます。
 次の「二門」は、その「一心」に、曇りのない空性である「真如門」と、刹那ごとに生と滅を繰り返す現象としての「生滅門」という、二つの側面があることを示しています。
 三番目の「三大」とは、「体大」「相大」「用大」のことで、「大乗=衆生心」は、その本体(体)も、性質(相)も、働き(用)も、偉大であるということを表しています。

 四番目の「四信」は信仰のあり方を示し、「真如」「仏宝」「法宝」「僧宝」の四つを信ぜよ、ということです。
 最後の「五行」は、五種類の修行をするということで、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「止観」の五つを行いなさい、と勧めています。

 ということで、ここに「四信五行」が登場するわけです。

 ところで、通常はこの「一心 ─ 二門 ─ 三大 ─ 四信 ─ 五行」が『大乗起信論の』の根幹であると言われているのですが、この「五行」を修することができないような弱い衆生のために、論の最後では「念仏」も勧めています。念仏の中でも易行の称名念仏は「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えることですから、浄土教系の論者は、『大乗起信論』の体系を、

一心 ─ 二門 ─ 三大 ─ 四信 ─ 五行 ─ 六字

という風に表現する人もいます。

 周知のように賢治は中学生の頃に、浄土真宗学僧の島地大等の『大乗起信論』の講義を聴講していますが、大等は『国訳大蔵経 論部』第5巻(1927年刊行)所収の「大乗起信論開題」の中で、次のように述べています。

 これに依て先考離言院常に語りて曰く、この論を読むもの須らく順逆二観あることを知るべし。順観すれば、上来の自力行を正とし末段の他力法を傍とす。爾に若し逆観すれば則ち論主の正意この弥陀法に在て存し、前来の諸法門は畢竟この浄土念仏の行布施設と見るべし。故に順観の前には一真如法を一論の根本とし、逆観すれば一名号法を一論の大本と為す。法然上人選択集に判じて浄土傍依の論部に属するものは且く順観の意に依るのみ、別に逆観の幽微を啓明するところなかるべからずと。また一論の大綱を説くに通途、一心・二門・三大・四信・五行と云ふに附加するに更に六字の一句を以てし一心・二門・三大・四信・五行・六字と云はざれば尽理と云ふべからずと曰へり。予先考に侍して屡この説を聞く、且私に案ずるにこの説必ずしも先考の特説に非ず唱和の余師亦存す。(上掲書p.25)

 最初に出てくる「先考」というのは「亡父」のことで、「離言院」というのは島地大等の義父である島地黙雷の院号ですから、上の話は島地黙雷が大等にしばしば語っていたということになります。
 賢治が、島地大等によるこの「大乗起信論開題」を読んでいたかどうかはわかりませんが、しかし大等の義父黙雷がつねづね「一心・二門・三大・四信・五行・六字」ということを語っていたであれば、賢治が中学生の頃に聴いた大等の講義でも、この話が披露された可能性は高いと思われます。

 ところで、盛岡市にある「願教寺」は、1892年に島地黙雷が住職となり、1911年に黙雷が死去すると、大等が後を継いで住職になっています。
 その後、白藤慈秀は賢治と同じく1926年3月に花巻農学校を退職すると、願教寺で島地大等の留守を預かる「院代」となり、大等の没後は住職を継いでいるのです。

 すなわち、「島地黙雷 ─ 島地大等 ─ 白藤慈秀」という願教寺の歴代住職は、「一心・二門・三大・四信・五行・六字」という『大乗起信論』の教えを引き継いだ者であり、賢治が白藤慈秀のことを、「四信五行に身をまもり……」と描写したことは、非常に的を射たものだったということになります。

 もちろん、この「四信五行」という言葉は、とりあえず口語詩としての最終形態に出てくるだけで、その手入れ前の形態では「信仰によって身を護り」でしたし、また文語詩に改作されると「その身は信にゆだねたり」という表現になってしまいます。
 すなわちこの言葉は、賢治の推敲プロセス途上でごく一時的に現れた表現にしかすぎないのですが、それでもこういうところにさっと『大乗起信論』の表現が出てくるところは、やはり彼がこの論書をそれなりに読み込んでいたという事実を、明らかにしてくれているのではないかと思う次第です。

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願教寺の宮沢賢治歌碑「本堂の 高座に島地大等の ひとみに映る 黄なる薄明」