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書簡252c下書(十六)の思想

 『新校本宮澤賢治全集』第十五巻(書簡)で、「書簡252c」として分類されているのは、1929年(昭和4年)頃の、小笠原(高瀬)露あての手紙の下書きと推測されている断片です。この手紙には、さらにその下書きと思われる断片が実に16種も残されていて、賢治がいかに慎重にこの手紙を書こうとしていたかがうかがい知れるとともに、羅須地人協会も消滅して病臥している頃、すなわち賢治のかなり晩年の思想の一端が表明されており、とても興味深い言葉が垣間見えます。

 たとえば、その「下書(四)」には、次のような有名な一節があります。

たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷悟をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。

 ここに出てくる「宇宙意志」とは、法華経を信じる賢治の立場からすると、如来寿量品に示されている久遠の本仏たる「釈迦如来」の意志になるのでしょうが、一方でこれを浄土教のように「阿弥陀如来」と解釈しても何の違和感もなく、晩年の賢治がとらえていた仏教、あるいはもっと普遍的な宗教の本質を、うかがわせます。

 ただ今回ここで取り上げてみたいのは、「下書(十六)」の方です。

 その書簡252c「下書(十六)」の全文は、次のようなものです。

お手紙拝見、一一ご尤です。まことの道は一つで、そこを正しく進むものはその道(法)自身です。みんないっしょにまことの道を行くときはそこには一つの大きな道があるばかりです。しかもその中でめいめいがめいめいの個性によって明るく楽しくその道を表現することを拒みません。生きた菩薩におなりなさい。独身結婚は便宜の問題です。一生や二生でこの事はできません。さればこそ信ずるものはどこまでも一諸に進まなければなりません。手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さでなければ情ない次第になります。なぜならさういふことは顔へ縞ができても変り脚が片方になっていも変り厭きても変りもっと面白いこと美しいことができても変りそれから死ねばできなくなり牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなるです。大いにしっかり運命をご開拓なさいまし。

 私がこの文章にとりわけ興味を引かれるのは、以前から個人的に考えつづけてきた、賢治の「〈みちづれ〉希求」というべき心情を理解する上で、非常に示唆的な内容が含まれているからです。ただその話に行く前に、まずはこの下書の冒頭で述べられている「道」のことについて、考えておきたいと思います。
 〈みちづれ〉を希求するためには、ともに歩むための〈みち〉が存在することが、前提となるからです。

 それにしても、この冒頭に賢治が書いている、「まことの道は一つで、そこを正しく進むものはその道(法)自身です。みんないっしょにまことの道を行くときはそこには一つの大きな道があるばかりです。」という文章は、なかなか難しいものです。
 これはつまり、「道」と「道を進む者」が、実は同一であるということを述べているわけですが、この不思議な理屈をいったいどのように理解したらよいのでしょうか。

 普通は、「誰か(A)が・道(B)を・進む」という状態であるはずですが、ここではA=Bだというのですから、「道が道を進む」という、わけのわからないことが言われています。何かの間違いかとも思いたくなりますが、その次の文「みんないっしょにまことの道を行くときはそこには一つの大きな道があるばかりです」も、やはり「道を進む者=道」ということの帰結なのでしょう。

 賢治も、自分の勝手な思いつきでこんな大胆なことを言っているのではないでしょうから、きっとどこかに、このパラドキシカルな論理の由来があるのだろうと思われます。そしてそれは、ここに出てくる「まことの道」などの言葉からして、おそらく仏教的なものに違いありません。しかし私が探したかぎりでは、賢治の信仰の中心である「法華経」のテキストや、それを日蓮が解釈した遺文には、このような記述を見つけることはできませんでした。
 総じて、法華経や日蓮の言うことはもっと具体的で、上のように極端に抽象的な概念論・存在論は見当たりません。

 そこで私なりに、この不思議な思想の由来について考えてみたのですが、これぞという感じで思い当たったのは、『大乗起信論』です。
 これは、大乗仏教全体の土台に関して抽象的・哲学的な議論を展開する論書で、賢治は1911年(15歳)に大沢温泉で行われた「夏季仏教講習会」で、島地大等による『大乗起信論』の講義を聴いています。それ以来、賢治は島地大等のことは非常に尊敬し、盛岡の願教寺の講話にも通い、そして1914年(18歳)には、島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』と出会うに至ります。『大乗起信論』は、その後の賢治の思想にも影響を与え続けていたようで、その具体的内容については、たとえば田村公子氏が論文「島地大等が宮沢賢治に与えた影響」で論じておられます。

 さて、その『大乗起信論』と書簡252c下書(十六)の関係ですが、『大乗起信論』の「第二段(立義分)」では、「大乗とは何か」という問題について、次のように説かれています(岩波文庫版『大乗起信論』の高崎直道氏による現代語訳)。

 〔本書は〈大乗〉(摩訶衍、マハーヤーナ)とは何かということを主題としている。〕
 この〈大乗〉〔という言葉〕には二つの側面がある。一つは〔大乗とよばれる〕もの(法)〔すなわち何をさして大乗とよぶのか〕、他はその内容(義)〔すなわち「大乗」ということばの意味、あるいは、それが「大きい乗りもの」とよばれる理由〕である。
 まず、ここにいう〔大乗とよばれる〕もの(法)とは〔具体的には〕衆生ひとりひとりの心(衆生心)をさす。(p.176-177、強調は引用者)

 すなわち、「大乗とは何か」という問題に対する『大乗起信論』の答えは、「大乗とは、衆生ひとりひとりの心だ」というのです。

 もともと「大乗仏教」の「大乗」という言葉は、従来の部派仏教に対して革新派が、自らの優越性を示そうとして名乗った呼称です。部派仏教が、各自一人一人の修行によってそれぞれの解脱を目ざしたのに対して、革新派の人々は、自分たちのはそんな「一人乗りの小さな乗りもの」ではなくて、この世のすべての衆生をみんな一緒に乗せて救済するような、「大きな乗りもの」だと主張したわけです。
 元来「大乗」という言葉は、このように一種の「比喩」として用いられていたわけですが、『大乗起信論』は、これを単なる比喩ではなく、現実的な「もの」としてとらえる画期的な視点から、「大乗=衆生心」であると宣言するのです。

 言われてみれば、もしも衆生が悟りを得て解脱できるものならば、それは各々の心の中に備わっている成仏可能性(如来蔵)のおかげなのですから、「心そのものが自分を乗せる乗りものになって、救済へ向かって進んで行く」というのは、確かに理屈にかなっています。私はこの書を初めて読んだ時、(他の部分はよくわからないところも多かったのですが)この冒頭の命題の言わんとすることが妙に腑に落ちて、何か心がワクワクしたものです。

 この辺の事情について、高崎直道著『「大乗起信論」を読む』(岩波セミナーブックス)には、次のように書かれています。

 これはどういうことでしょうか。私どもの日常の常識で申しますと、大乗というのは大乗仏教、大乗の教えであり、それを信ずることを、ここで要求されている。それに対して、それを信ずるのはわれわれであり、われわれの心のはたらきです。衆生心というのはこの信ずる方の主体をさす名前です。そこで、「大乗とは衆生心である」という解答は、信の対象がイコール信の主体であるということになります。それは、大乗を大乗が信ずるといってもよいし、衆生心が衆生心を信ずると解してもよいことになります。これは常識では考えにくい。しかし『起信論』はどうやらその常識をこえた世界、信ずるものと信ぜられるものとが一つになったような世界を一生懸命説き明かそうとしているように見受けられます。また、そういう、教えと教えを信ずる者とが一つであるような世界を説くことが大乗の本来の目的であるという面も、大乗仏教の伝統のなかにはあると思われます。(p.41)

 このような考え方に立てば、「まことの道は一つで、そこを正しく進むものはその道(法)自身です」という上の賢治の言葉も、すんなりと理解できます。
 すなわち、ここで賢治が「まことの道」と言っているのは、衆生を究極の救済に導く教え=「法」であり、すなわち衆生を乗せて運ぶ「大乗」であるわけですが、『大乗起信論』によればこの「大乗」とは、実は見方を変えれば「衆生自身の心」だと言うのですから、取りも直さず「道=道を進むもの」だ、ということになるのです。

 ここで、これを私なりに、「大乗(マハーヤーナ)」の別称である「摩訶衍」というという言葉に則して考えてみましょう。
 漢和辞典で「衍」という字を調べてみると、「(「衍」の字は)水(氵)とその流れるみちの意を示す行から成り、水が遠くから引き続いて海に流れこむ意」とあります(『角川漢和中辞典』)。「水が遠くから引き続いて海に流れこむ」状態とは、取りも直さず「川」のことですが、私たちが「川」と呼んでいるものは何かと言えば、(地図に示されているような)水が流れる「みちすじ」のことであるとともに、その道筋を通る「水そのものの流れ」のことでもあります。
 すなわち、「川」というのは、「道」であるとともに、「道を進むもの」でもあるわけで、ここにはやはり「大乗」と「衆生心」の関係と同型の、一見パラドキシカルな二面性が秘められているのです。

 これに続く賢治の文章には、ただ「一つの大きな道があるだけ」でありながら、「しかもその中でめいめいがめいめいの個性によって明るく楽しくその道を表現する」という、やはりもう一つの二面性が述べられています。ここは、「大乗=衆生心」であるその「心」は、唯一つで不変の「心真如」であるとともに、多種多様な現象を呈する「心生滅」でもあるという、やはり『大乗起信論』の説を連想させます。
 信仰において目ざされるのは、不滅の「心真如」であるのに対し、賢治が生涯にわたる創作活動で追求したのは、「せはしくせはしく明滅」するところの「心生滅」の方だったのも、賢治の作品を理解する上では重要な点だろうと思います。

大乗起信論 (岩波文庫) 大乗起信論 (岩波文庫)
宇井 伯寿 (翻訳), 高崎 直道 (翻訳)
岩波書店 (1994/1/17)

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 ということで、次にはこのような〈みち〉の上を、ともに進む〈みちづれ〉の方を見てみましょう。
 以前から私が考えてきたこととして、ある時期までの賢治は、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」(「小岩井農場」)という意味での〈みちづれ〉を強く希求し、保阪嘉内や妹トシや堀籠文之進が、そのような対象となることを願っていました。しかしその彼の思いは、様々な理由でかなえられず、深い苦悩を抱えることになります。
 そして結局賢治は、一対一の〈個別的みちづれ〉を求めることは断念し、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」(「小岩井農場」)ような、〈普遍的みちづれ〉とともに歩むことを、己れの目標とするようになったのです。
 これが、以前に「「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩」や「「〈みちづれ〉希求」の昇華」などの記事で書いたことの骨子であり、先日の「宮沢賢治研究会」でも発表させていただいたことでした。

 この書簡242c下書(十六)に書かれている内容も、もちろん上のような意味では、昇華された「〈みちづれ〉希求」であり、「みんないっしょにまことに道を行く」と表現されています。目ざされているのは、〈普遍的みちづれ〉なのです。
 そして賢治は、「独身結婚は便宜の問題です」と書いていますが、ここからは「結婚」という制度に則って〈みちづれ〉を得ようとするような考え方が、俎上に載せられます。「結婚」とは一対一のパートナーシップであり、〈個別的みちづれ〉の典型的形態なのです。

 これに続く「一生や二生ではこの事はできません」という文の趣旨は、「まことの道を行く」というような多数の「生」を要する作業においては、そのわずか「一生」のうちのまた一部にしかすぎない婚姻関係などに、何かを期待してもしょうがない、ということなのでしょう。そして、「さればこそ信ずるものはどこまでも一諸に進まなければなりません」と述べ、「どこまでも」という言葉の意味は、この一生に限られるものではなく、死んで生まれ変わった次の一生でも、そしてさらに死んで生まれ変わった後の一生でも、ずっと続いていくものであることが示唆されます。

 ここで私は、「死」によって隔てられてしまった賢治とトシのことを、思わずにはいられません。

 トシを亡くした賢治は、かけがえのない〈たつたひとりのみちづれ〉(「無声慟哭」)を失ってしまったと思い、悲嘆に打ちひしがれます。翌年の夏には、「もしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」(「宗谷挽歌」)との決意を記し、〈個別的みちづれ〉として、死後の世界にまで同行しようとしていたのです。

 しかし、元来〈みちづれ〉とは、「一生や二生では」終わらず、「どこまでも一諸に」進み続けるものなのだとすれば、途中に誰かの死があったとしても、何も気にする必要はないのです。たとえ「タンタジールの扉」(「宗谷挽歌」)によって互いに隔てられたとしても、そんなことは最初から折り込み済みで、「さればこそ信ずるものはどこまでも一諸に」、変わらぬ〈みちづれ〉として進んで行けばよいのです。

 次の、「手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さでなければ情ない次第になります」という所を読むと、上のように「通信」のできない彼方へ行ったトシとともに、その前年に別れた保阪嘉内のことも、連想します。ひと頃の賢治は、嘉内やトシとの別離の悲しみで、実に「情ない次第にな」っていたと思いますが、しかしこの苦悩を自ら乗り越えた彼だからこそ、「手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さ」を獲得したのだと思います。
 そして、畢竟「道」は「一生や二生」を超えてずっと続いているものであり、嘉内やトシだけでなくこれまでに出会った無数の〈みちづれ〉たちが、今も変わらず「一諸に進んでゐるのだ」と、心から信ずることができるようになったのでしょう。

 さらにその次に出てくる、「顔へ縞ができても変り脚が片方になっても変り……」からしばらく続く一連の描写は、この世において「結婚」への障壁となる、様々な要因の列挙のようです。
 「顔へ縞ができて……」というのが、いったい何のことを言っているのかわかりにくいですが、賢治と高瀬露の間に伝えられている逸話として連想するのは、賢治が彼女を遠ざけるために、「顔に灰を塗って(一説には墨を塗って)」登場して、「自分は癩病だ」などと言ったらしい、というエピソードです。ハンセン病に対する当時の差別・偏見からすれば、この病に罹ることは、一生結婚ができなくなることを意味していたでしょう。
 この逸話の頃の賢治は、彼女との仲を取り沙汰する世間の目もあって、おそらく大いに悩んだのでしょうが、その後重い病気もして、そんな世俗の些事は超越してしまい、この書簡の下書きをした1929年の終わりともなれば、昔の自分の奇矯な行動についても、「顔へ縞が……」などと多少のユーモアも交えて、語れるようになっていたのではないでしょうか。
 最後の、「ははは、世間の手前でもできなくなるです」も、自分と高瀬露の間に立てられた良からぬ噂を含め、この世における結婚その他の人間関係をめぐる、自嘲も込めた述懐のように思えます。

 さて、この書簡252c下書(十六)という断片をあらためて読んでみて、私が感じることの一つは、賢治は「〈みちづれ〉希求」を昇華し、すなわち個別的愛を超克し普遍的愛に生きることを己れに課した際に、実は個別性を抹消してしまったわけではなく、普遍性の中にしっかりと含み込ませておいたのかもしれない、ということです。
 それは、「手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さでなければ……」という一節から、静かにしかし力強くにじみ出ているように、私には思えます。ここで賢治は、遠く離れて音沙汰のない保阪嘉内との間にも、さらには死んだトシとの間にも、それでも「一諸に進んでゐる」のだという、強い信念の絆を、きっと確かに感じていたに違いない、と感じるのです。
 たとえば、トシとの間のそれは、以前に「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」という論文(『宮沢賢治研究Annual』Vol.26, 2016)に書いたように、彼女の死後に「喪の作業」を経た賢治は、「トシの不在・喪失」を反転して、「いつもトシと一緒にいる」という心境に至っていたのだろうと、私には思われます。保阪嘉内についてもきっとそうで、たとえ遠く離れていても、賢治は嘉内との心の絆を感じ続けていただろうと思うのです。(それはたとえば、「〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕」などからも、感じられます。)

 また、この書簡下書からわかることのもう一つは、真ん中あたりにある「生きた菩薩におなりなさい」との言葉にあるように、賢治はここで自ら言っている「みんないっしょにまことの道を行く」という行為は、まさに「菩薩行」だと考えていたのだろう、ということです。この言葉は、高瀬露に対して言っているわけで、賢治も彼女が本当に「菩薩になる」と思って言ったのかどうかはわかりませんが、それでもこれだけ他人に勧めているのですから、賢治自らも必ずや、これを自分の目標として心に抱いていたに違いありません。

 これまで多くの研究者が、賢治の生き方が「菩薩行」と言いうるものであることを指摘していますが、ここでは賢治自身の言葉でも、それが「菩薩」と呼ばれているわけです。
 上記のように「みんないっしょにまことの道を行く」ことを、あるいは「小岩井農場」の言葉で言えば「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」ような生き方を、きっと賢治も自ら「菩薩行」と考えていたと、私たちは信じてよいはずです。

 そして賢治は、それこそが「(己れの)運命を開拓する」ことだと、言っているのです。