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『大乗起信論』と賢治

 先月の初めに、「ABC予想」という数学の超難問を、望月新一氏という数学者が解決したというニュースが日本中を駆けめぐりましたが、この件ほどには話題にはならなかったものの、仏教学の分野でこれに相当するのではないかと思われる画期的な業績が、2年半前に一人の日本人研究者によって成し遂げられました。大竹晋氏による、『大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』が、それです。

 望月新一氏の「宇宙際タイヒミュラー理論」については、残念ながら私はその1文字すら理解することができませんが、こちらの大竹晋氏のお仕事ならば、たとえ門外漢でもその有り難さの一端には触れてみることができるのではないかと思い、この外出自粛の連休中に一念発起して、氏の大部な著書を紐解いてみました。
 そこには、やはり私には読めもしないサンスクリットの文字や漢文の白文もたくさんあったのですが、それでも研究全体の緻密な構成と、静かで穏やかながら確固とした叙述、それによって開かれていく前人未踏の世界に、心からの感銘を受けた次第です。

大乗起信論成立問題の研究:『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク 大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク
大竹晋 (著)

国書刊行会 (2017/11/24)

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 私などがご紹介することさえおこがましいですが、これが一体どんな研究なのかというと、6世紀の中国に現れてその後の東アジアの仏教に多大な影響を与えた『大乗起信論』という論書について、それがテキスト中に記されているようにインド仏教に由来するのか、それとも中国で作られた「偽書」なのか、その出現以来1500年近くにわたって繰り広げられてきた論争に、ついに終止符を打った!というものなのです。
 私がこれ以上ご説明するよりも、専門家である駒澤大学教授の石井公成氏による、上掲書の批評「【書評】大乗起信論成立問題の研究―『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク」をご覧いただくのが、一番よいと思います。これがどれほどの意義を持つ研究なのかということが、わかりやすく書かれています。
 加えてこの本には、唐代に流通していたであろう『大乗起信論』のテキスト古形が、著者による綿密な校訂によって復元されており、その現代日本語訳も収録されています。またこの日本語訳というのが、実に平易でありつつ論理は明晰で、私でさえまるで水を飲むようにすらすらと、『大乗起信論』の全文を読むことができました。(もちろんその真意の理解は、また別の問題ですが...)

 さて、この大竹晋氏の仕事によって、現代の仏教に何か変化が起こるのかというと、もちろん「信仰」のあり方には何も変わりはないはずで、変える必要もないでしょうが、「思想」や「世界観」として仏教をとらえる上では、今後いろいろと影響が出てくるのではないかと思います。
 大竹氏自身が、この2月に『中外日報』に寄せている文章「『大乗起信論』と一元的世界観」も、まさにそのような意味で重要な問題提起の一つです。中国で作られた『大乗起信論』は、実は本来のインド仏教を一部誤解したままに理論を構築しており、しかもこれがその後の中国・朝鮮・日本においては「正統的な大乗仏教」として受容されたために、その後の東アジアの仏教は、元祖インドのそれとはかなり変質してしまった部分があるのです。(ただ1冊の小さな書物に、そこまでの影響力があったというのですから、このこと自体も『大乗起信論』の重要性を物語っています。)
 その「誤解」の具体例については、大竹氏の著書の第二部第三章「『大乗起信論』における奇説」でも論じられているのですが、上の『中外日報』の文章で述べられているような、独自の「一元的世界観」という側面や日本への影響の指摘までは含まれていませんので、この文章はこれで、貴重なものと思います。
 ウェブ上からはいずれ削除されてしまうと思いますので、保存の意味も込めて、少し長くなりますが下記にその一部を引用させていただきます。

 同書(『大乗起信論成立問題の研究』)において、筆者はさらに『大乗起信論』がインド大乗仏教と異なる奇説をいくつか含んでいることを指摘した。ここでは、そのような奇説のうち、日本仏教に大きな影響を与えた一元的世界観を採り上げ、その問題性について再考したい。

インド大乗仏教の説
 インド大乗仏教においては、現象を構成しているあらゆる法(枠組み)は、空(からっぽ)、すなわち、無我(おのれがない)と説かれている。
 言い換えれば、インド大乗仏教においては、あらゆる法に、空性(からっぽさ)、すなわち、無我性(おのれのなさ)という共通的属性が内在すると説かれている。
 この、空性、すなわち、無我性は、真如(そのとおりのまこと)と呼ばれる。われわれはこの真如について伝聞するにすぎないが、インド大乗仏教の聖者は、修行によってこの真如を実見し、最終的にブッダとなる。

『大乗起信論』の奇説
 ところが、『大乗起信論』においては、インド大乗仏教と異なる奇説が説かれている。
 具体的に言えば、『大乗起信論』においては、あらゆる法は一なる真如であり、われわれの妄念によって、あらゆる法へと分節されていると説かれている。
 インド大乗仏教においては、あらゆる法に内在する共通的属性が真如なのであるが、『大乗起信論』においては、あらゆる法が真如なのである。
 インド大乗仏教は二元的世界観である。あらゆる法と、真如との二元にもとづいて、あらゆる法を実見する凡夫と、真如を実見する聖者との区別がある。それに対し『大乗起信論』は一元的世界観である。そこには凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性があった。

『大乗起信論』から生まれた修行軽視
 現実に、『大乗起信論』からは、凡夫はすでに真如のうちにいる以上もともと悟っていると説く、修行軽視の学説が生まれた。
〔中略〕
 日本においては、『大乗起信論』にもとづいて天台宗において発生した本覚思想(誰でももともと悟っているという思想)の文献、『真如観』(13世紀)に次のようにある。

 今日よりのちは、わが心こそ真如であると知り、悪業や煩悩も〔極楽往生にとって〕障りとならず、名声や利得も却って仏果たる菩提にとって備えとなる以上、ただただ破戒無慙であり懈怠嬾惰であるにすぎなくても、もしつねに真如を観じて忘れることがないならば、悪業や煩悩を極楽往生にとって障りと思ってはならない。

 これらはいずれも『大乗起信論』の一元的世界観にもとづく修行軽視(特に戒の軽視)である。

 すなわち、日本仏教の最大の特色と言われ、道元、親鸞、日蓮にも多大な影響を及ぼし、島地大等が「仏教思想上のクライマックス」とまで呼んだ「天台本覚思想」は、もとをたどれば『大乗起信論』の「奇説」に由来するものだったというのですから、かなり衝撃的です。
 あるいは、その「奇説」の影響は近代以降にも及んでいるようで、たとえば私が想起するのは、鈴木大拙の『大乗仏教概論』です。これは、鈴木大拙が大乗仏教を欧米に紹介するために、アメリカ在住中の1907年に英語で刊行した大著ですが、鈴木自身が1900年に英訳した『大乗起信論』を、その重要な土台としていました。
 その辺の影響関係について、岩波文庫版『大乗仏教概論』の、佐々木閑氏による「訳者後記」には、次のように説明されています。

 鈴木は本書を著すにあたって、『大乗起信論』を最も根本的な資料として用いている。それはここで述べられているように、馬鳴作の『大乗起信論』が最も古い大乗の概説書であり、そこからその後の大乗が徐々に展開したと鈴木自身が考えているからである。本書で鈴木が語る大乗の基本構造は、真如あるいは法身とよばれる汎神論的絶対者が宇宙を包含しており、それが慈悲と智慧を顕して現実世界の個々の衆生の中で活動するというものであるが、それはこの『大乗起信論』から導かれるものである。(p.455)

 ここで佐々木氏が「汎神論的絶対者」と呼んでいるものが、大竹晋氏の言い方では「一元的世界観」の「一元」に相当するわけですが、このようなインド大乗仏教にはない「奇説」を中心に据えていたために、この鈴木大拙の渾身の著作は、当時のヨーロッパの仏教学者から、「これは釈迦の真の思想を表すものでも大乗仏教を語るものでもない」と、厳しい批判を浴びてしまいます。
 批判を受けた鈴木は、この本の再版も日本語訳も禁じ、事実上「封印」してしまうという対処をとったのです。

 ただ、鈴木大拙のその決断にもかかわらず、彼の『大乗仏教概論』の日本語訳は、ほぼ100年の歳月を経て、2004年に刊行されることとなりました。すると、そこに姿を現した「真如あるいは法身とよばれる汎神論的絶対者」の様子は、宮澤賢治の言う「宇宙意志」なるものと、非常に似ていることに気づかされます。
 まず下記は、鈴木大拙が描く「法身の意志」です。

法身の意志
 以上をまとめると、法身は基本的に三種の面で我々の宗教的意識の中に映し出されるということになる。第一は智慧、第二は愛、第三は意志である。法身が智慧であるということは、法身が宇宙の流れを盲目的ではなく合理的に方向づけるという言明から知ることができる。また、法身が愛であることは、それが一切の生き物を慈父のやさしさで包み込むことから知られる。そして、それが意志であると考えざるを得ないのは、この世の一切の悪が最終的には善になっていくことを確固たる活動の目的にしているからである。(鈴木大拙『大乗仏教概論』岩波文庫p.257)

 そして下記は、賢治の書簡下書きから。

たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学のいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷悟をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。(書簡252c下書(四))

 このような考えは、山根知子氏によれば仏教や賢治に独自のものというわけではなく、トシが日本女子大学で学んだ成瀬仁蔵の(キリスト教的な)思想にもあるようですが、賢治にとっては『大乗起信論』とも関係していた可能性があります。

 さらに私としては、賢治が抱いていたと思われる一元的唯心論の世界観も、その源は『大乗起信論』にあったのではないかと、最近感じています。それはたとえば、次のようなところに表れている世界観です。

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経 世間皆是虚仮仏只真(保阪嘉内あて書簡49より)

「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。(「銀河鉄道の夜」初期形三より)

 もちろん、上の書簡の終わりに出てくる「世間皆是虚仮」という言葉はオリジナルな経典に由来することが示すように、この世の現象がすべて「虚仮=かりそめの姿」にすぎないというのは、インド仏教そのものの正統的な教えです。ただしかし本来の仏教では、「現象の背後には何も存在しない=無である」とまで言われているわけではなく、ただ「現象に本質的な実体はない=空であるとともに、存在そのものの有無については論じられない」とされているのです。
 たとえば『華厳経』には、「三界は虚妄にして、唯だ是れ心の作れるなり」という言葉がありますが、これは「世界は心が勝手に作った幻だから実在しない」と言っているわけではなくて、「(実在するかどうかについては何とも言えないが)我々が感じている現象は、心が作ったかりそめの姿にすぎず、真実を表しているわけではない」と言っているのです。
 あるいは、中国天台の智顗が言う「一念三千」にしても、「一瞬一瞬の心のうちに三千世界が凝縮している」ということを言っているのであって、「一念が三千世界を作り出しており、心的現象以外に世界は存在しない」ということではありません。

 これに対して賢治は、「心象だけしか存在しない」と言っているように、私には思えるのです。
 たとえば、『春と修羅』の「」に、次の一節があります。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここには、風景や人物や、記録、歴史、地史などというもの、すなわち私たちが自己の「外界」においてその実在を想定している全てのものは、「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と記されており、つまり「感じ」だけしか存在しないのだと言っているように読めます。
 冒頭の方には、(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)という言葉がありましたが、光だけを残して「電燈が失われ」ていることが意味するのは、やはり「現象の背後には何も実在していない」ということを言っているように思えます。
 また、次の箇所はどうでしょうか。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします

 心象スケッチとして「記録されたこれらのけしき」が、「虚無ならば虚無自身がこのとほり」だと言っているわけで、これ自体は「虚無ならば」という条件つきの陳述の形をとってはいますが、ここで賢治が実際に言いたいのは、「これらのけしきは、本当は虚無なのだ」ということのように、私には思えます。
 このあたりの事柄については、他の解釈もありうるとは思いますが、私としては、少なくともある時期までの賢治は、外界の客観的実在さえ否定するほどの、極端な唯心一元論者だったのではないかと思うのです。

 そして、もしもそうだったとすれば、そのような世界観は、仏教的にはどのように理解すればよいかというのが、私にとっては謎でした。
 「心象スケッチ」という営為を理解するためには、富山英俊さんが著書『挽歌と反語』で指摘しておられるように(p.254)、天台教学の「一念三千」が、うってつけの枠組みを提供してくれると思います。それは、人間の「一念=心象」の中に、この世と異界も含めた三千世界が展開すると、教えてくれるのです。これはきっと、『春と修羅』の「」を書いた賢治の心の中には、確かにあった思想でしょう。
 しかし私個人としては、当時の賢治の世界観はそれだけにとどまらず、もっとラディカルで一元論的だったような気がしてしょうがないのです。

 そこで最近は、そのような彼の世界観の源は、『大乗起信論』の一元論にあったのではないかと、思ったりしています。『大乗起信論』の説く世界では、「衆生心」=全ての生き物の心が、本当は「心真如」というただ一つの「心」であり「法」であり、同時にそれは現実には「心生滅」として、それ自体が我々の心に映る全ての現象を、生成しているのです。そしてこの「心」以外には、世界に存在するものは何もなく、これはまさに究極に一元的な唯心論なのです。
 その見本として、いまここに『大乗起信論』が「三界唯心」について述べた箇所を、大竹晋氏の研究書における現代語訳から引用させていただくと、下記の如くです。

 それゆえに、三界は虚偽であって、ただ心によって作られたものにすぎない。
 心を離れては〔色、声、香、味、触、法という〕六境はない。
 "そのことはいかなることか"というならば、あらゆる諸法はすべて心によって起こっており、虚妄な念によって生じている。
 あらゆる分別は自らの心を分別している。
 心は心を見ない。〔心においては〕把握されうるような特徴がないのである。
 世間のあらゆる対象は、いずれも、衆生の、無明である虚妄な心に依拠した上で成立し得るのである、と知るべきである。
 それゆえに、あらゆる諸法は、あたかも鏡のうちの色像のように、得られうる体("本体")がなく、ただ心のみにすぎず、虚妄である。
 心が生ずるならば、さまざまな諸法が生じ、心が滅するならば、さまざまな諸法は滅するからである。(『大乗起信論成立問題の研究』p.143-147)

 この清々しいほどに一元的な世界観は、大竹晋氏が指摘するように、本来のインド仏教の二元的世界観とは異なったもので、その正統から見れば逸脱した「異端」なのでしょう。しかしそれは『春と修羅』の頃の賢治にとっては、一元論ならではの純粋さと透徹性を備えた、強力なスプリングボードとなったのではないでしょうか。

 賢治の「心象スケッチ」と『大乗起信論』が関わっている可能性については、安藤礼二氏が最近の著書『迷宮と宇宙』の中で、島地大等の「大乗起信論開題」(『国訳大蔵経』論部第5巻所収)を引用しつつ、次のように述べています。

 大等は、こう断言している。「唯識論は個人的・相対的唯識論」であり、「起信論は普遍的・絶対的唯心論」である、と。『大乗起信論』が説く二重性かつ両義性をもった「アラヤ識」こそ「万有開発の根本原理となり、「万有開展の根本原理」となるものなのだ。まさに、さまざまな「心象スケッチ」を産出する「こころ」の原理そのものである。(『迷宮と宇宙』p.240)

 ここで島地大等は、大竹晋氏が「二元的」と表現したインド仏教の唯識論の世界観は「個人的・相対的」と評し、一方「一元的」な『大乗起信論』は「普遍的・絶対的」としているわけです。賢治としては、とにかく世界を己れの視点から徹頭徹尾描き切る上では、後者の方がよりパワフルな眺望台となったのではないでしょうか。
 また栗原敦さんは、「宮沢賢治の「大乗起信論」」(『賢治研究』107号、2009)において、賢治も参加した1911年の夏季仏教講習会における島地大等の『大乗起信論』講義に関する実証的検討を行った上で、より控えめながら次のように述べて、やはりその意義を示唆しておられます。

だからといって、この時賢治が「大乗起信論」を読んだとか、この時にこのように理解したと言いたいわけではありません。〔中略〕そういうことではなくて、この後に彼が深めて行くことになる仏教信仰の、その基底をなす精神、いわば大乗仏教の精神とでもいうものの姿がこれを通じて確かめられた、といえるのではないかと思うのです。

 実際のところ、賢治にとって『大乗起信論』とはいったい何だったのか、これからも考えみたいと思います。