「石碑の部屋」に、「法華堂建立勧進文」碑をアップしました。この碑は、すでに2003年に建立されていたものですが、私は最近までその存在を知らず、つい先日教えていただいたので、見学に行って参りました。
碑は、北万丁目共同墓地の東の端の、無縁仏の墓碑などを集めた一角にあります。美しく磨かれた、黒御影石の碑面です。
ここに刻まれている「木石一を積まんとも/必ず仏果に至るべく/若し清浄の信あらば/永く三途を離るべし」という言葉は、賢治が農学校教師時代に請われて起草した、「法華堂建立勧進文」の最後の4行です。
この長大な勧進文は、まさに賢治らしい格調高い名文だと思うのですが、彼の童話や詩を愛好する人々でも、これを読む機会は比較的少ないかと思いますので、本日は以下にその全文を掲載しておきます。
法華堂建立勧進文
教主釈迦牟尼正偏知
涅槃 の雲 に入 りまして
正法 千は西 の天
余光 に風 も香 はしく
像法 千は華油燈 の
影堂塔 に照 り映 えき
仏滅 二千灯 も淡 く
劫 の濁霧 の深 くして
権迹 みちは繁 ければ
衆生 ゆくてを喪 ひて
闘諍堅固 いや著 く
兵疾風火 競 ひけり
この時 地涌 の上首尊
本化上行大菩薩
如来 の勅 を受 けまして
末法 救護 の大悲心
青蓮華 咲 く東海 の
朝日 とともに生 れたもふ
百 たび開 く大蔵 は
久遠 に契 ふ信 の鑰
諸山 の雑 は精進 の
鏡 に塵 の影 もなし
正道 すでに証 あれば
法鼓 は雲 にとどろきて
四箇格言 の判 高 く
要法 下種 の旨 深 し
街衢 に民 を誨 へては
刀杖瓦石 いと甘 く
要路 に国 を諌 むれば
流罪 死罪 も尚 楽 し
色身 に読 む法華経 は
雪 のしとねに風 の飯
水火 審 さにそのかみの
勧持 の讖 を充 てましぬ
三度 諌 めて人 昏 く
民 に諸難 のいや増 せば
いまは衢 の塵 を棄 て
ひたすら国 を祷 らんと
領主 の請 をそのままに
入 るや甲州 波木井郷
霧 は不断 の香 を焚 き
風 とことはに天楽 の
身延 の山 のふところに
聖化 末法 万年 の
法礎 を定 め給 ひけり
そのとき南部 実長 郷
法縁 いとどめでたくて
外護 の誓 のいと厚 く
或 ひは餞 を奉 り
或 ひは堂 を興 しつつ
供養 を励 み給 ひしが
やがては帰 る本誓 の
墨 の衣 と身 をなして
堤婆 の品 もそのまゝに
給仕 につとめおはしける
帰命心王大菩薩
応現化 をば了 へまして
浄楽吾浄 花深 き
本土 に帰 りまししより
向興 諸尊 ともろともに
聖舎利 を守 り給 ひつゝ
法潤 いよよ深 ければ
流 れは清 き富士川 の
み末 も永 く勤王 と
外護 に誉 を伝 へけり
后事 ありて陸奥 の
遠野 に封 を替 へ給 ひ
辺土 の民 も大法 の
光 隈 なき仁政 の
徳化 四辺 に及 びつゝ
永 く遺宝 を伝 へしが
当主 日実上人 は
俗縁法縁 相契 ひ
祖道 を茲 に興起 して
末世 の衆生 救 はんと
悲願 はやがて灌頂 の
祖山 に修 を積 み給 ふ
奇 しき縁 は花巻 の
優婆塞 優婆夷 契 あり
法筵 数 も重 なれば
諸人 ここに計 らひて
新 に一宇 を建立 し
たとへいらかはいぶせくも
信楽衆 は質直 の
至心 に請 じ奉 り
聖宝 ともに安 らけく
この野 の護 り世 の目 ざし
未来 に遠 く伝 へんと
浄願 茲 に結 ぼれぬ
いま仏滅 の五五を超 え
劫 の濁 りはいや深 く
われらは重 き三毒 の
業 の焔 に身 を灼 けり
泰西 成りし外 の学 は
口耳 の証 を累 ね来 て
傲 りはやがて冥乱 の
諸仏菩薩 を詐 と謗 り
三世 因果 を撥無 しぬ
阿僧祇 法 に遭 はずして
心耳 も昏 く明 を見 ぬ
罪 の衆生 のみなともに
競 ひてこれに従 へば
人道 疾 く地 に堕 ちて
邪見 鉄囲 の火 を増 しぬ
皮薄 の文化 世 に流 れ
五慾 の楽 は日 に増 せど
本 を治 めぬ業疾 の
苦悩 はいよよ深 みたり
さればぞ憂悲 を消 さんとて
新 に憂苦 の具 を求 め
互 に競 ひ諍 へば
こは人界 か色 も香 も
鬼畜 の相 をなしにけり
菩薩 衆生 を救 はんと
三悪道 にいましては
たゞひたすらに導 きて
辛 く人果 に至 らしむ
衆生 この世 に生 れ来 て
虚仮 の教 に踏 み迷 ひ
ふたたび三途 に帰 らんは
痛哭 誰 か耐 ふべしや
法滅相 は前 にあり
人界 生 はいや多し
仏弟子 ここに逸 ければ
慳貪 とがは免 れじ
信士女 なかに貪 らば
諸仏 の仇 と身 をなさん
世界 は共 の所感 ゆゑ
毒 重 ければ日 も暗 く
饑疾 風水 しきりにて
兵火 も遂 に絶 えぬなり
正信 あれば日 も清 く
地 は自 から厳浄 の
五風 十雨 の世となりて
招 かで華果 の至 るなり
世 の仏弟子 と云 はんひと
この法滅 の相 を見 ば
仏恩 報謝 このときと
共 に力 を仮 したまへ
木石 一を積 まんとも
必 ず仏果 に至 るべく
若 し清浄 の信 あらば
永 く三途 を離 るべし
とまあ、全体で143行もある長大さで、かなり難しい仏教用語も使われていますが、見事に整えられた七五調が調子良く弾み、気がつくと最後まで読んでしまいます。
その内容は、釈迦の入滅から正法―像法―末法という時代の推移、 日蓮の誕生とその輝かしくも苦難に満ちた生涯、甲州の南部氏が日蓮に篤く仕えた後に遠野に移ったこと、そしてその遙かな子孫である南部日実の縁によって、このたび花巻に法華堂を建立するに至った経過を、まさに滔々と述べ連ね、さらに昨今の仏教界の有り様について痛烈に批判を行った後、結びで法華堂への寄進を募っています。
この文の起草を賢治に依頼した叔父の宮澤恒治によれば、賢治は依頼を受けたわずか一両日後の朝に、原稿を叔父宅に持参したそうで、これほどの名文を短期間でさらりと書き上げてしまう田舎の農学校教師とは、いったい何者なのかという感じですが、やはり宮澤賢治という人は、こういう仏教的素養と作文力を、当たり前のように自家薬籠中のものにしていたということなのでしょう。
この文章は単に「宗教色が濃い」というよりも、まさに純度100%の宗教的テキストですから、賢治愛好家にもあまり親しまれていないかもしれませんが、それでも日蓮の流謫を述べるところに出てくる「雪のしとねに風の飯」という表現や、「世界は共の所感ゆゑ…」という認識論などは、いかにも賢治らしい感じがします。
これまで全国各地に建てられてきた賢治の文学碑としては、詩や短歌や俳句や童話の一部が刻まれたもの、またその思想の表現としては「農民芸術概論綱要」の一節が採られたものなどが多々ありますが、この「法華堂建立勧進文」の碑は、それらに加えてまた新しいジャンルを開くものと言えるでしょう。
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