先月に刊行された、『宮沢賢治とサハリン 「銀河鉄道」の彼方へ』(藤原浩著,東洋書店)という本を読みました。
宮沢賢治とサハリン―「銀河鉄道」の彼方へ (ユーラシア・ブックレット) 藤原 浩 (著) 東洋書店 2009-06 Amazonで詳しく見る |
著者は、鉄道・旅行ライターで、有名な旅行ガイドブックシリーズ『地球の歩き方』において、「ロシア」篇や「シベリア&シベリア鉄道とサハリン」篇を執筆しておられる方です。
そのような著者の専門性のおかげで、大泊(コルサコフ)、栄浜(スタロドゥプスコエ)、豊原(ユジノサハリンスク)など、賢治が訪れたであろう場所に関する案内や解説は、とても丁寧で詳細です。私のように、サハリンに憧れつつもまだその地を踏んだことのない者にとって、このわずか63ページの薄い本は、いつか実現したいサハリンへの旅の際には、ぜひとも携行したいガイドブックです。
さらにこの本には、そのような現地の案内本としての意味あいとともに、もう一つ「あとがき」において著者が次のように書いているような要素も、含まれています。
旅行ガイドブック『地球の歩き方』の取材のため、筆者はこれまで何度かサハリンを訪れ、賢治についても簡単ではあるがガイドブックで扱ってきた。またひごろより鉄道に関する執筆をつづけていることもあり、賢治の旅の行程についても多分に興味を持って調べてきた。本書でも、その筆者自身が調べた結果をもとに書きつづっているが、序でも述べたとおり、従来の研究と食いちがう点がないわけではない。その点については、いずれ別の機会にあらためて論じなければならないと思っている。
この、「賢治の旅の行程」に関する著者の考察が、現在の私にとってはとても興味を引かれるものでした。
まず、花巻からサハリンまでの往路について。このタイムスケジュールに関して、『〔旧〕校本全集』の年譜では、
七月三十一日(火) 花巻駅午後二時三一分乗車、青森、北海道経由樺太旅行へ出発。(後略)
八月一日(水) 「青森挽歌」「青森挽歌三」「津軽海峡」
午前十二時半発連絡船で海峡を渡り、五時函館に上陸。(後略)
と記されていたところ、ますむらひろし氏が「時刻表に耳を当てて「青森挽歌」の響きを聞く」(『宮沢賢治』13,洋々社 1995)において、上記の列車では「青森挽歌」や「津軽海峡」の作品中時間に合わないこと、むしろ花巻発21時59分、青森着5時20分の列車、そして青森港7時55分発、函館港着12時25分の連絡船に乗れば、作品時間とぴたりと合うことを指摘されました。
さらに入沢康夫氏も、「賢治の尽きせぬ魅力―その一局面についての随想―」(『国文学 解釈と鑑賞』,1996年11月)という文章において、『〔旧〕校本全集』年譜の「花巻駅午後二時三一分乗車」の根拠となった向井田重助氏が賢治と会ったという回想(川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』所収)について、この1923年7月31日よりも後の出来事だった可能性も大きいことを考察し、ますむら氏の提案した列車時刻は、より現実味を帯びてくることになりました。
この往路の列車時刻も、まだ断定的な確度を持って決めつけることはできませんが、『【新】校本全集』第十六巻「補遺・伝記資料篇」に、≪参考≫として、ますむら氏による時刻表が掲載され、今や研究者はともかく「賢治ファン」の間では、こっちの方が「定説」になったような観があります。
今回の『宮沢賢治とサハリン』において、著者が推定している往路の行程も、これを踏襲しています(下図)。
このスケジュールに関しては私も大きな異論はありません。ただ、「オホーツク挽歌」が書かれたのは確かに栄浜の海岸と思われますが、その日付は「一九二三、八、四」とされていて、賢治が栄浜に着いた翌日の午前のことと推測されます。また、上記では8月3日7時30分に大泊港に着いて、9時30分に栄浜行きの列車に乗ったとされていますが、萩原昌好氏は『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』(河出書房新社,2000)において、賢治はこの日の午前に大泊の王子製紙会社にいる細越健氏を訪ね、教え子の就職依頼をし、13時10分発大泊発、18時20分栄浜着の列車に乗ったと推測しておられます。
また私としては、文語詩「宗谷〔二〕」の題材となったのは、往路ではなく復路の稚泊連絡船における体験だったのではないかと考えるところが、上の表と異なるところです。私が復路と考える理由は、以前に「「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?」という記事にも書きましたが、この作品は「日の出」が出てくるように早朝の情景であり、さらに
はだれに暗く緑する
宗谷岬のたゞずみと
北はま蒼にうち睡る
サガレン島の東尾や
とあるように、宗谷岬の色は「暗く緑」で、サガレン島の東尾の色は「ま蒼」である点です。近くや遠くの山の色を思い浮かべていただいたらわかるように、近い山は緑に見えるのに対して、遠くなるほど色は青く見えます。これは、空気中の分子によって光が散乱されるためで、波長の短い青い光ほど散乱されにくいので、遠くても目に届きやすいのです。空が青く見えるのも、同じ理由です。
つまり、宗谷岬が「暗く緑」で、サガレン島が「ま蒼」に見えるとすれば、宗谷岬の方が観察者に近く、サガレン島の方が遠いと推定されるので、朝に宗谷岬の近くにいるとなると、夜に出航して翌朝に着く稚泊連絡船においては、大泊→稚内の「復路」と考えられるわけです。
あと、著者の藤原浩氏がこの本で示しておられることで興味深かったのは、花巻からサハリンまで行くならば、賢治が採用したと思われる上の行程よりも、より短時間で到着できるダイヤが当時存在したというのです。それは、下の表のようなものです。
つまり賢治の旅行にあてはめてみれば、何も7月31日の夜に発たなくても、8月1日の朝7時11分の列車に乗れば、同じく8月3日の朝7時30分に大泊港に着くことができたのです。
賢治も、旅行計画を立てる際にはおそらくこの「最短乗り継ぎ」のことはわかっていたでしょうが、こちらを採用しなかった理由として著者の藤原氏は、賢治が乗った列車乗り継ぎの方が、運賃が安くなるからではないか、との考えを示しておられます。賢治が函館で乗車した「三列車」は普通列車で、旭川から乗車した「一列車」は函館から滝川までは急行なのですが、それから先は普通列車になるので、旭川から乗った場合には急行料金がかからないのだそうです。そのため往路の料金は、最短乗り継ぎよりも1円22銭安くなるということです。
このような「運賃」という観点からの考察は、これまでの賢治研究においてはなされていなかったことと思いますし、これはさすが、「鉄道・旅行ライター」の面目躍如ということろですね。
ここで、もしもそれ以外に賢治が花巻発21時59分の列車に決めた理由を考えるとすれば、「最初から往路途中で旭川の農事試験場に寄ることを計画していたから」、あるいは単に「青森まで夜行列車に乗りたかったから」、ということも、想定することはできます。
いずれにせよ、もしも賢治が花巻を朝に発つ列車に乗っていたならば、
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
という一節で始まる「青森挽歌」を、私たちは読むことはできなかったでしょう。
◇ ◇
さて、復路に関しては、著者の藤原氏は、つぎのように推定しておられます。
藤原氏は、「8月7日乗船説」をとっておられますが、その上でまず一つの特徴は、賢治が豊原に3泊したと推測しておられるところです。ただこれは、具体的な根拠があってのことではありません。
私が勝手にその背景を推測してみれば、まず作品「樺太鉄道」は8月4日の日付を持っていて、「夕陽」の描写があるところから、夕方の情景と思われます。4日の夕方に賢治が鉄道駅まで来ているとなると、この時にもう栄浜を後にして、鉄道で南に向かったという可能性も、想定させます。それなら、8月7日には豊原近郊の「鈴谷平原」にいたことは作品からわかりますから、賢治はこの日のうちに豊原まで来たのかもしれないと考えてみることもできるでしょう。なお「樺太鉄道」には「鈴谷山脈」という地名が出てきますが、鈴谷山脈そのものは大泊の楠渓台地から豊原の東を通って栄浜に至り海に沈む南北に長い形になっていますので、これだけではどこでスケッチされたのか断定できません。
当時の豊原市は、「樺太庁」の庁舎所在地で南樺太の中心都市であり、人口は約2万、札幌市を模して街路が碁盤の目の如く引かれ、整然とした街並みを誇っていたそうです。賢治は、現在も建物が残っている「樺太博物館」や、小沼の農事試験場、鈴谷山脈の山すその西側(すなわち賢治の言う「鈴谷平原」)にあった「樺太神社」などを訪れたのではないかと、藤原氏は推測しておられますが、これも残念ながら証拠はありません。
それから、藤原氏の推測する復路行程のもう一つの大きな特徴は、「旭川で2泊」としておられるところです。これは新たな大胆な提起だと思いますが、その根拠は、往路でも「花巻発22時59分」という便を賢治が選んだ理由として挙げておられたのと同じく、「稚内発の「二列車」を旭川で下車すれば、急行料金がかからない」ということと、旭川では往路で見逃した農事試験場を見学したのではないか、ということです。これはこれで、一つの筋が通った理屈だと思います。
さらに、「急行列車になるべく乗らない」というポリシーを護持して、旭川から函館までの列車も、『【新】校本全集』第十六巻「補遺・伝記資料篇」に、≪参考≫として掲出されている急行の「二列車」(函館桟橋6時27分着)ではなく、著者は上の表のように、普通列車の「八列車」を想定しています。ただし、この場合は函館着が「二列車」より1時間早まるだけでなく、噴火湾あたりを通過する時刻は1時間よりもっと早まるでしょうから、「噴火湾(ノクターン)」の作中時間と一致するかどうかが、やや気になる点ですね。この列車の噴火湾あたりの通過時刻については、機会があれば調べてみなければなりません。
それから、もしも復路において旭川で2泊したとすれば、札幌で途中下車する時間はなく、この旅において「札幌市」(「春と修羅 第三集」)のもとになる体験があった可能性が消滅するところが、私にとっては影響をこうむる点です。残された機会は、1924年の修学旅行引率の時だけになります。
ただ、旭川で農事試験場を訪ねるだけなら、2泊もする必要はなかったのではないかと思いますので、1泊は旭川、もう1泊は札幌、という可能性を生き残らせることもできなくはなさそうです。
最後に、賢治が「盛岡から花巻まで歩いて帰った」という逸話に関して、藤原氏は新たな示唆をされています。まず、「豊原から盛岡までの運賃と花巻までの運賃では、22銭しか変わらず、(サハリンにおける宴会で芸者に所持金の大半を祝儀として渡してしまったという話は)にわかに信じがたい話ではある」とした上で、
豊原からはたして花巻まで通しで切符が買えたかどうかは疑問が残る。当時の連帯運輸はあくまで、主要駅間での発券を可能とした協定であった(のちに運用範囲はひろげられている)。往路の場合は事前に手配をすれば何とかなっただろうが、帰路に関しては、もしかすると盛岡までの切符しか買えなかった可能性も否定できない。
と書いておられるのです。「連帯運輸」という言葉が出てくるのは、鉄道省管轄下の本土の国鉄と、「樺太庁鉄道」では母体が異なるということから、本土内を移動する切符を買う場合とは異なるためでしょう。
私は以前に「7日乗船説と9日乗船説(2)」という記事において、「盛岡まではずっと列車で来て、あと花巻までだけを徒歩にする理由としては、「金が足りなかった」ということ以外考えにくい」と書きましたが、「それ以外の理由」がありえたわけですね。
ただ、それでも私は思うのですが、たとえ豊原から盛岡までの切符しか買えなかったとしても、お金さえあれば、盛岡でいったん降りて花巻までの切符を買うとか、花巻で乗り越し料金を払うとか、花巻まで列車で帰ることはできたはずです。賢治がいくら健脚とはいえ、長旅の疲れもあったでしょうし、「標本をいつぱいもつて」わざわざ35km以上も歩くというのは、もしお金さえあったなら、私には非常に不自然に感じられてしまいます。
それはともかく、ブックレットというコンパクトな形式で、樺太の写真もいろいろと入っていて定価は600円、これは手軽な良書だと思います。
コメント