7日乗船説と9日乗船説(2)

 賢治がオホーツクの旅からの帰途において、サハリンを離れたのは、8月7日なのか9日なのか。
 これを考える上で一つの大きな鍵になるのは、前回も引用した晴山亮一の証言(森荘已池『宮沢賢治の肖像』所収)を、どう評価するのかということになるのだろうと思います。

 いろいろな話のなかに、カラフトに行った話がありました。夏休みにカラフトに行ってきたが、カラフトは、花の匂いがよくて、とてもよいところだったと言いました。二、三人の人たちの職場をさがしてくる旅行ということでした。
 先生は、この旅行で、生まれてはじめて、あとにも、さきにもないことに、出会ったんです。友人が料亭に先生を招待して、芸者を呼んで、さかんな宴会をしたのですね。大騒ぎで飲めや唄えやとやったのでしょう。ところが先生はそういう方面の芸はゼロといった情けない方です。そこで懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまったのですね。
 汽車賃もなくなったので、青森までの切符は買ってもらい、青森では、何か身の回りのものを売ったりして盛岡まで汽車で帰り、盛岡からは、花巻まで徒歩旅行というわけです。

 『新校本全集』の「年譜篇」では、この証言は脚注では紹介されていますが、本文には採用されていません。
 堀尾青史著『年譜 宮澤賢治伝』においては、8月4日のこととして「再び豊原へもどり高農先輩、後輩たちの歓迎宴を毎日受ける。」と書かれていますが、晴山証言には触れられていません。

 一方、『新校本全集』年譜篇の本文においても、堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』においても、8月12日の項には、「盛岡より徒歩で帰花(花巻に帰る)」と記されています。
 ここで、私はまだ不勉強のためにわからないのですが、賢治が「盛岡から徒歩で花巻に帰った」ということに関しては、晴山証言以外にも何らかの根拠があるのでしょうか。他にも裏づけがあるので、これは確度が高いこととして、(晴山証言は脚注扱いなのに)『新校本全集』年譜篇の本文にも採用されているのでしょうか。

 もしも、「盛岡から徒歩帰花」ということに対して晴山証言以外にも裏づけがあるのなら、その別の証拠は、晴山証言の信頼性を格段に高めることになるでしょう。盛岡まではずっと列車で来て、あと花巻までだけを徒歩にする理由としては、「金が足りなかった」ということ以外考えにくいからです。
 『新校本全集』の補遺伝記資料篇によれば、当時、青森発上野行きの急行として、13時30分発で盛岡には停車するが花巻には停車しない「八〇二急行」と、14時35分発で花巻にも停車する「二〇二急行」があったようです。しかし、荷物も多く、盛岡から花巻まで歩けば上記の列車の時間差よりもはるかに遅くなってしまうことを考えると、お金さえあれば、花巻に停車する列車を選んだだろうと考えるのが自然です。たとえ青森駅で、花巻に停車しないことを知らずに間違えて「八〇二急行」に乗ってしまったとしても、盛岡で下車して「徒歩」を選ばず、2時間半ほど後の「二〇二急行」を待ったでしょう。
 つまり、賢治が徒歩で盛岡から花巻に帰ったのだとすれば、サハリンで「懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまった」という晴山証言が、真実味を帯びてくるのです。

 そしてその場合には、「9日乗船説」が、俄然有利になります。なぜなら、サハリンを離れる時に賢治がお金を持っていなかったのなら、7日に乗船して8日に稚内に着き、9日、10日を北海道の「どこか」で(無銭で)過ごし、11日に噴火湾を通るという日程をとるとは思えないからです。
 一方、9日に乗船したとしたら、10日午前5時に稚内港に着き、7時25分発の「急行二」に乗って、11日未明に噴火湾を通過して6時27分に函館桟橋に着き、7時発の青函連絡船に乗れば、一直線に青森まで到着します。

 あるいは、『新校本全集』が、8月12日に「盛岡より徒歩で帰花」と本文に記した理由は、『校本全集』にそう書いてあったから、というのが真相なのかもしれません。しかしそれにしても堀尾青史氏は、晴山証言以外に何かの根拠を持っておられたのでしょうか。
 いずれにしても、「8月12日に盛岡より徒歩で帰花」ということを認めるのならば、「9日乗船説」の方が有利になるだろうというのが、最近の私の考えです。

 ただ、そう考えてしまうと、賢治が「札幌市」に描かれた体験をした可能性のある機会が、一つ減ってしまうことにはなるんですね。

[この項まだつづく]