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修学旅行 詩群

1.対象作品

『春と修羅 第二集』

116 津軽海峡 1924.5.19(定稿)

118 凾館港春夜光景 1924.5.19(下書稿(四)手入れ)

123 馬 1924.5.22(下書稿手入れ)

126 牛 1924.5.22(下書稿(三))

133 〔つめたい海の水銀が〕 1924.5.23(定稿)


「補遺詩篇 I」

〔船首マストの上に来て〕(下書稿)

2.賢治の状況

 1924年5月18日から23日の間、賢治は花巻農学校第二学年の修学旅行の引率者の一人として、北海道へ旅しました。この旅行のあいだにスケッチされたと考えられる作品が、上の5篇です。
 賢治自身による「〔修学旅行復命書〕」、一緒に修学旅行を引率した白藤慈秀教諭の日記、および「【新】校本全集第十六巻 補遺・伝記資料篇」所収の当時の鉄道関係時刻表をもとに再構成すると、この修学旅行の行程は、以下のようなものでした。

5/18 昼間に賢治は、「〔日はトパースのかけらをそそぎ〕」をスケッチ。
午後8時、引率教諭2名(宮澤、白藤)、生徒26名、父兄3名の旅行者一同は、農学校校庭に集合して人員検査の後、8時半に花巻駅に再び集合した。花巻駅から、21時59分発の東北本線下り夜行列車に乗り、修学旅行に出発した。
5/19 午前5時20分青森駅に到着。時間の余裕を利用して海岸に建つ冷蔵庫の見学をした後、7時55分発の青函連絡船「田村丸」に乗船。船上で「津軽海峡」をスケッチ。昼の12時55分に函館港に着いた。
函館では、過燐酸工場と五稜郭を見学し、函館公園でいったん自由解散して夜景などを楽しむ。賢治はここで「凾館港春夜光景」をスケッチ。さらに、23時15分函館発の夜行列車に乗り、小樽へ向かった。
5/20 午前9時に、小樽駅に到着。小樽高等商業学校の参観をして、10時半に辞去する。丘伝いに歩いて小樽公園へ行き、ここで40分間の自由行動。「公園は新装の白樺に飾られ北日本海の空青と海光に対し小樽湾は一望の下に帰す。」(復命書)
12時33分、小樽駅から札幌行の列車に乗り、13時40分に札幌に到着。まず駅前の旅館「山形屋」に宿泊を約し、北大附属植物園(下写真)および博物館を見学した。
「門前より既に旧北海道の黒く逞き楡の木立を見、園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑円錐の独乙唐檜並列せり。下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり、我等亦郷里に斯る楽しき草地を作らんなど云ふものあり。」(復命書)
前二夜の車中泊を考慮して、一同は植物園で夕方の閉園近くまでゆっくりと過ごし、道庁構内を近道して横切り、旅館に帰った。
夜は「任意散策」ということであったが、結局賢治が引率をして、旅館から電車で中島公園に出かけた。「途中の街路樹花壇星羅燈影燈『ビュウティフル サッポロ』の真価は夜に入りて更に発揮せられたり。」(復命書)
生徒たちは公園内の菖蒲池(右写真)でボート漕ぎに興じたが、慣れないオールを持てあまして「各艇みな蛇行す」。ボートを降りると皆は公園音楽堂で歌を唄い、「旅情甚切なり」と賢治は記している。
帰途は狸小路の夜店を観て、9時半に旅館に戻った。
5/21 朝7時半に旅館を出発して、まず札幌麦酒会社(右写真)に行って糖化室や瓶詰工場を見学した。最新の機械設備を見た一行は、「その巧妙なる機転驚嘆せざるなし」という様子であった。
続いて帝国製麻会社に行き、茶菓を饗せられ支店長の講演を聴いた。
10時半、一行は北海道帝国大学に赴き、学生2名の案内で講堂に入り、佐藤昌介総長(右写真)の訓辞を聴いた。佐藤総長は花巻出身という縁があり、出張を延期して一行を迎えてくれたのである。賢治がこれに対して答辞を述べ、一同は菓子牛乳の饗を受けた。ここで生徒は各自1リットル以上の牛乳を飲んだと、賢治は書き残している。
この後、水産標本室や農学部温室などを見学した後、一行は中島公園内の植民館(拓殖館)に行った。各種展示を見た後、札幌駅に向かったが、賢治は途中で「北海道石灰会社石灰岩抹を販る」ところを見て、北上山地を「クローバーとチモシイの波」に変えることを夢見た。
札幌駅に着くと、案内してくれた大学生2名に感謝をこめて一同で「行進歌」を歌い、16時3分発の列車に乗った。
「車窓石狩川を見、次で落葉松と独乙唐檜との林地に入る。生徒等屡々風景を賞す。蓋し旅中は心緒新鮮にして実際と離るゝが故に審美容易に行はるゝなり。若し生徒等この旅を終へて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨まんか孰れかかの懐かしき広重北斉古版画の一片非らんや。」(復命書)
岩見沢駅で34分の待ち合わせの後、17時52分発の室蘭線列車に乗り換えた。「岩見沢を過ぎて夕陽白樺と柏の彼方に没す。この附近好摩滝沢に似たり。新墾の畑に焼土法を行へるものあり。その煙青く漂ひて旅愁転た深し。苫小牧に近く遙に樽前火山を望む。」(復命書)
19時24分に苫小牧に着き、駅前の旅館「富士館」に宿泊した。この夜、「」をスケッチしたか。「パルプ工場の煙赤く空を焦し、遠く濤声あり。」(復命書)
5/22 苫小牧で製紙会社を見学した後、白老のアイヌ集落を訪問し、午後は室蘭で製鋼所の見学をした。そして17時発の室蘭青森連絡船に乗船した。
5/23 明け方に津軽海峡で、「〔船首マストの上に来て〕」をスケッチ。この作品は『春と修羅 第二集』には属していないが、生徒たちを無事に引率してもうすぐ本州というところまで帰ってきた教師賢治の、安堵感が読みとれる。
午前4時20分に船は青森港着。6時15分青森発の列車に乗り、車中で陸奥湾の湯の島を見つつ、「〔つめたい海の水銀が〕」をスケッチ。13時49分に花巻に着いた。
日付からは、さらにこの日に「」がスケッチされたことになるが、花巻に戻った賢治は、その後また毘沙門天のある成島まで赴いたか。

 このような強行軍だったようですが、この間の作品の基調は、総体として明るい色あいをもっています。函館公園での夜には、オペラファンだったという賢治の片鱗も見せています。
 上の日程から推測するかぎりでは、「一二三 馬」は、白老あたりでスケッチされた作品でしょうか。
 「一二六 牛」(逐次形題名「海鳴り」)は、夜の場面の描写ですが、スケッチ日付の「5.22」にもかかわらず、実際には21日の夜か、強いてスケッチ日付に合わせれば、その夜中で日付が変わってからの情景かと思われます。「修学旅行復命書」の21日夜の記載にも、作品中の情景に対応した記載があるのは上記の通りです。


 思い返せば、賢治はこの修学旅行の前年の8月に、あの「オホーツク挽歌」を詠った北への旅で、この時とかなり共通した経路をたどっています。(さらに言えば、「青森挽歌」の列車は暁ごろに青森にさしかかっていますが、この修学旅行で最初に乗った列車と、同じ時刻のものです。)
 その時から、まだ1年も経っていません。

 「オホーツク挽歌」では、あれほど強迫的なまでに亡妹を追い求めていたことを思えば、今回の旅行で前年の旅や妹のことを回想する様子を見せていないのは、ちょっと不思議な気がします。
 ここで賢治は、意識的に、前年の旅や亡き妹に関する思いは書き残さないようにしていたのではないかと思います。

 上ではこの「修学旅行詩群」を、「総体として明るい色あい」と述べましたが、じつはこれはあくまで、かなり推敲を経た後の作品形態を見るかぎりでのことです。
 たとえば、「牛」の下書稿には、「そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ/そのまっくろなしぶきをあげて/わたくしの胸をとどろかせ/わたくしの上着をずたずたに裂け/すべてのはかないねがひを洗へ/それら巨大な波の壁や/沸き立つ瀝青と鉛のなかに/やりどころないさびしさをとれ」という部分があります。
 言うまでもなく、「やりどころないさびしさ」とはトシを亡くした喪失感を、「はかないねがひ」とは「オホーツク挽歌」で固執したトシとの交信の願望を連想させます。ふたたび北海道の海を前にした賢治に、前年の思いが強くよみがえってきたとしても何の不思議もありません。
 しかし、この部分は、その後の推敲によって消されてしまいます。

 実際の旅行中、賢治の胸中にはいろいろな思いが去来したでしょうが、それをあえて作品の上には残さないように、作者は意識的に抑制していたのではないでしょうか。