「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?

 昨日につづいて、「札幌市」は賢治のいつの体験だったのか、という話から始めます。

 賢治の生涯の中から、彼が札幌市内の広場ですごした可能性のある日を選び出してみると、石本裕之さんの挙げておられる(2)修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、という二日のほかに、あと1923年8月の「オホーツク挽歌」行の復路途中、という可能性も否定できないというところまで、昨日は書きました。
 これも検討に加えたくなる理由は、上の(2)(3)は、基本的には生徒を連れており、スケジュール的にもかなり厳しいので、どうしても他の可能性も考えておきたいのです。

 しかし実は、「オホーツク挽歌」行の復路というのは、まだその具体的日程がほとんど明らかにされていないのでした。
 1923年8月7日の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱい持って/わたくしは宗谷海峡をわたる」という一節があることから、賢治は8月7日夜21時に樺太の大泊港発の稚泊連絡船に乗り、8月8日朝5時に稚内港に着いたとする説が、かなり有力です。そして、8月11日の日付の「噴火湾(ノクターン)」が夜明け頃の描写であることから、この日の朝6時27分に函館桟橋に着く函館本線下り急行二列車に乗っていたと推定されています。
 この二つの「時」と「場所」は、それなりの確度をもって押さえておくことができるかもしれませんが、その二点の間の賢治の足跡は、まったく不明です。したがって、8月9日と10日のいずれか、または両方を、札幌ですごすことは理屈の上では可能です。ただその証拠は、まだ何一つありませんが。

 一方、上記で宗谷海峡を渡った日程に関しては、「7日夜大泊港発の便は強風のために欠航になり、賢治が乗船したのは隔日運航の次の便である9日夜だった」とする説もあります(松岡義和氏ら)。もしも賢治が、9日夜に大泊港を発っていると、10日朝5時に稚内港到着、そしてこれに連絡して稚内駅を午前7時25分に出発する上り列車が、実はそれから23時間かけて函館桟橋に向かう上記の「急行二列車」なのです。そしてこの列車はそのまま、11日未明に噴火湾を通過します。
 このように、連絡船と列車がきれいに一本につながるところも、「9日乗船説」のもっともらしさの一つなのです。
 ただし、その場合の帰結の一つとして、「オホーツク挽歌行の復路途中で、作品「札幌市」の体験があった」という可能性は、消滅します。賢治が稚内から函館まで一本の列車で向かったとすれば、もちろん札幌で下車している暇などないからです。

 これに対して、萩原昌好さんは『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』において「7日乗船説」を採り、その根拠の一つとして、1923年8月9日付けの「樺太日日新聞」記事(下写真)を引用しておられます。これによれば、賢治が大泊港から連絡船に乗ろうとしていた8月7日に、ちょうど貴族院議員16名の視察団が大泊で歓待を受け、「此宴終って後一行は同夜出帆の連絡船に搭乗帰途につきたる」と書かれているのです。
 すなわち、貴族院議員一行が7日夜に稚泊連絡船で大泊から稚内に渡ったというのですから、この夜の便は欠航せずに運航していたはずだ、というわけです。記事の最後の部分が切れてしまって、文章の最後まで読めないことだけがちょっと気になりますが、この論にはそれなりの説得力がありますね。

1923年8月9日「樺太日日新聞」

 さて、長くなってしまいましたが、ここからがやっと今日のブログで私が書きたかったことです。
 賢治の文語詩に、「宗谷〔二〕」というのがあります。現在、宗谷岬にその一部が詩碑としても建てられている作品です。

 この「宗谷〔二〕」の舞台は宗谷海峡の連絡船のデッキであり、賢治が宗谷海峡を渡ったのは「オホーツク挽歌」の旅における往復だけですから、やはりこの時の体験がもとになっていると考えられます。
 それが、サハリンに渡る往路(稚内→大泊)のことだったのか、北海道に戻る復路(大泊→稚内)のことだったのかを考えてみると、「はだれに暗く緑する/宗谷岬のたゞずみと/北はま蒼にうち睡る/サガレン島の東尾や」という一節で、宗谷岬が「緑」に、サガレン島が「蒼」に見えていることから、船の位置は、サハリンよりも宗谷岬の方に近いところにあると推測できます。そして、作品中の時刻が日の出直前、すなわちすでに連絡船の目的地到着が近い時間であるということをあわせて考えれば、これは大泊を夜に発ち稚内に翌朝着く上り便、賢治にとって「復路」だったことがわかります。

 この作品の眼目は、「髪を正しくくしけづり/セルの袴のひだ垂れて/古き国士のおもかげに/日の出を待てる紳士」という登場人物にあります。賢治はこの紳士の立派な装束と立ち居振る舞いに注目し、日の出に対する反応を観察していますが、確かに印象的な様子だったのでしょう。
 ここで上掲の新聞記事を見て私が思ったのは、賢治がサハリンの大泊から稚内に帰る時に「貴族院議員一行」が同船していたのだとすると、この「紳士」は、乗客の貴族院議員の一人だったのではないだろうか、ということです。
 きっと非常に物々しい団体だったことと思いますが、賢治は彼らが貴族院議員だということをはたして知っていたのでしょうか。わざわざ「国士」という言葉を使っているのは、実際のその身分を知らなかったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ということで、今日はちょっと石本裕之さんの『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』から離れてしまいました。同書「あとがき」の、「今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください」という一文に、甘えてしまった結果です。

 次回はまた、石本さんの著書に戻りたいと思います。