一昨日イーハトーブセンターから送られてきた会報第32号には、「八戸・賢治を語る会」特集の一項目として、同会の事務局長である中川真平さんが、戦前に三陸海岸の「運搬船」の船員をしていた小袖丑松さんという方にインタビューした記事が載っていました。
この「運搬船」は、陸路交通の困難な三陸地方において、戦後の初期までは物資輸送の要として機能していたというもので、賢治が1925年の三陸旅行の際に乗船して、「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」「発動機船[断片]」などの作品で描いた船と推測されています。「運搬船」と言っても、海産物や薪などの物資だけでなく、乗客も乗せたということですね。
この記事には、昔の「運搬船」の写真も掲載してくださっていて(右写真)、賢治は当時こんな船に乗ったんだなあ、とまた私の感慨を新たにしてくれました。
さて、そのインタビュー記事のなかで注目されるのは、次のようなやりとりです。
――航海の様子を聞きたいのですが、陸中海岸の村々から荷を積んだ船は、南の宮古に向かう場合、北から順々に南下していったものですか?
小袖 えーや、そっただもんでなくて、荷でも人でも積むものがあれば、北さでも南さでも、どごさでも飛んでぐんだぁ。
――では、たとえば田野畑村の羅賀にいた船がそこで人を乗せて、一旦北に向かって普代村のネダリ浜で荷を積み、再び南の宮古に向かうこともありえますか?
小袖 あるも、あるも、荷さぇあれば何処さでも走ったんだ。
中川さんがわざわざこのような質問をされているのは、「賢治はこの三陸旅行においてどこの港から発動機船に乗船したのか」という問題を意識してのことです。
賢治の乗船地については、従来は「発動機船 三」にある「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が賢治自身のことを指していると解釈して、羅賀から乗船したという説が有力でした。『【新】校本全集』の「年譜」においても、「次のような推理もできる」と慎重な姿勢ながら、羅賀乗船説のみが掲載されています。
しかしこれに対して、木村東吉氏は大著『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、「発動機船 一」で描かれている情景は、羅賀より北の「ネダリ浜」と呼ばれる場所のことであると考証し、また「発動機船 第二」に描かれている章魚の樽の積み込みこそが羅賀港での出来事であると推定し、賢治の乗船地は羅賀より北で宿泊地の下安家より南の港、すなわち安家、堀内、大田名部のいずれかであるとの説を提唱されました (このあたりの詳細については「旅程幻想詩群」のページを参照)。
今回の中川真平さんによる元船員さんへのインタビュー結果は、「木村東吉氏の示した論拠によっても、必ずしも羅賀乗船説は否定はできない」ということを示してくれたわけです。
これをもとに中川さんは、次のように推定しておられます。
賢治を乗せた運搬船は昼頃に羅賀の港を出て一旦北に向かい、普代村のネダリ浜で若い女性たちの運んできた割木を積み、今度は再度、羅賀に南下し、羅賀の漁師たちが昼の間に採った章魚を夜の早い時間に買い取り、南の宮古に向かったものであろう。
羅賀乗船説を貫いた立場からの推理ですが、はたして皆さんのお考えはいかがでしょうか。
私としては、今回の貴重な情報を知った上でも、賢治の乗船地を羅賀とすることには、それでもやや無理を感じてしまうのです。羅賀より北から乗ったとする方が、より自然に思えるのです。
その理由の一つは、羅賀から一度出港し、北へ行ってまた羅賀に戻って荷を積んで南へ向かう、という航路の効率性の問題です。本来ならば、最初から荷を羅賀で積み込んでおけば、また羅賀で再び停船させたりせずに、ネダリ浜から真っ直ぐ南へ航行できたはずですが、なぜこのようなことをしたのでしょうか。
一つ考えられるのは、中川さんもそれとなく書いておられるように、最初に羅賀を出港した時点では、積み荷と推測される章魚の樽の準備が間に合わなかったので、このような行程をとった、という可能性です。しかし、羅賀とネダリ浜は直線距離で約8km、発動機船の速度を木村東吉氏のように6ノット(時速11km)とすれば片道せいぜい1時間あまりですから、二度目に羅賀に寄港した時に暗くなっていたこと(発動機船 第二)からして、最初の羅賀出港は、お昼をかなりまわってからだったのではないかと思われます。そうであれば、それくらいの時間に章魚の樽詰めが間に合わなかったというのは、ちょっと不思議です。
結局このように非効率的な航路を想定してまで、羅賀乗船説を支持する人がいる理由は、「発動機船 三」の「羅賀から乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が、賢治のことを指しているとする解釈の一点に尽きるわけですが、はたしてこれは本当に賢治のことなのでしょうか。この点に関する疑問が、私を羅賀乗船説に傾きにくくしているもう一つの理由です。
「発動機船 三」の「下書稿(一)第一形態」を見ると、この箇所は当初「代りにひゞく船底の声/(羅賀で乗った/あの外套を遁がすなよ/海盛楼をおごらすからな)」となっていました。「海盛楼」というのは何かわかりませんが(先日国会図書館で見た『全国旅館名簿』でも宮古の項にはありませんでした)、その名と「おごらす」という言葉から推測するに、宮古にある料理屋か何かなのでしょう。すると、これは発動機船の船員たちが「陸(おか)」に上がってからの相談をしているところと推測され、船が着いたら「羅賀で乗った外套の男」をつかまえておき、その人物から海盛楼で料理をおごらせよう、という算段なのだと思われます。
しかし船員たちは、通りすがりの旅行客にすぎない賢治に対して、こんなことをさせようというのでしょうか。見知らぬ人に飲食代を強要するというのは、どう見ても「たかり行為」ですね。船員たちがそんな犯罪謀議をしていたと考えるよりは、この「外套」を着た男は、船員にとって何らかの知人であったと考える方が、ここは自然なのではないでしょうか。
したがって「外套の男」の解釈としては、木村東吉氏のように、「「発動機船 第二」に「うしろの部下はいつか二人になってゐる」とある人物などを指すと考えた方が妥当であろう」という説の方がもっともらしく思えます。(ただ、「発動機船 第二」の描写には、この時に人間が乗船したと思えるような記述は見られません。)
結局、賢治がどこから発動機船に乗ったのか、という謎は闇の中にあるままだと思いますが、今回の「会報」を読んでいると、昨年に訪ねた「ネダリ浜」の美しい情景がまたまぶたに浮かぶようでした。
じつは私は、一昨年に「なめとこ山」を訪ねた「賢治学会春季セミナー」の折に、中川真平さんにはじめてお会いして、こちらの方から声をおかけして、この「羅賀から乗った・・・」の箇所の解釈についてご教示をお願いしたことがあったのです。今回、中川さんがわざわざ発動機船の元船員さんを探し出し、貴重な情報をもたらしていただいたご努力に感謝して、ここに最大限の敬意を表させていただきたいと思います。
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