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80年目の「異途への出発」 (2005年1月8日~1月10日)


2005/01/08
 例によって、京都から花巻まで行ける新幹線の最終便、のぞみ144号に乗り込みました。一時よりは少し日が長くなった感じですが、京都駅を発つ午後6時前には、もうほとんど暗くなっていました。たまたま車内でずっと読んでいた小説のなかに、主人公やその友人が大阪の下町にある行きつけの中華料理屋で、しきりに「レバニラ炒めと冷やしたウォッカ」を注文する情景が出てくるもので、なんとなく一度この組み合わせを試してみたくなってしまいました。

 東京駅で駅弁を買ってあわただしく乗り換え、さらに夜の東北路を3時間ほど走って、午後11時すぎに新花巻駅に着いてみると、駅前の広場にはあちらこちらに残雪が見られました。「セロ弾きのゴーシュ」碑は、ぽつんと静かに明かりに照らされています(右写真)。
 タクシーの運転手さんによればこの雪は、大晦日と元日に積もった雪が、まだ残っているのだそうです。「月の惑みと/巨きな雪の盤とのなかに/あてなくひとり下り立てば・・・」という「異途への出発」の冒頭を思い浮かべ、いちおう雪を期待してやって来たのですが、なんとかその期待はかなえられました。
 タクシーは北上川を渡って、静かな花巻の町を西へ走りました。

 タクシーを降りて花巻駅前のホテルに入ると、ロビーはもう明かりが落とされていました。一人で退屈そうにしていたフロント係の人にチェックインをお願いして部屋に入り、明日にそなえて、今日は早く寝ておくことにします。

 そうそう、今回そもそも花巻から三陸地方を旅行しようと思った理由は、今からちょうど80年前の1925年1月5日から9日にかけて賢治が三陸の孤独な旅をした、その足跡の一部でも同じ季節にたどってみたかったことと、それから去年の10月に普代村というところにできた、「敗れし少年の歌へる」詩碑を見てみたかったからです。

新花巻駅

 


2005/01/09
 朝起きると、窓の外は雪景色でした。知らないうちに、 夜のあいだにかなり降っていたようです。
 右写真は、ホテルから東の方を望んだところです。正面やや左よりに、薄くかすんで胡四王山の姿も見えます。

 朝食をとってロビーで待っていると、ちょうど8時30分に、賢治学会理事でもいらっしゃる阿部弥之さんが来られました。阿部さんとは、昨年後半からご縁があり、いろいろと連絡を取らせていただいていました。
 そもそもは、 三陸海岸沿いの普代村に、賢治歌曲を用いた「時報チャイム」を作る計画があるということで、阿部さんも属しておられる「リアスの海から賢治と語る会」で話題になり、阿部さんがイーハトーブセンターの牛崎敏哉さんにご相談したところ、賢治の歌曲についてはこの私に聞いてみたらどうかと言われたとのことで、ある日花巻から電話をいただいたのが、ご縁の始まりでした。
 それ以降、素晴らしい花巻のりんごを送っていただいたり、申しわけないほどご親切にしていただきました。阿部さんのりんごが素晴らしいのは当然で、それはそれは由緒正しい品なのです。

 日本におけるリンゴ栽培の育ての親と呼ばれる、島善鄰という農学者がいますが、この先生は実は宮澤賢治が生まれる7年前の1889年8月27日に花巻で生まれました。何と、誕生日が賢治と同じなのですね。島博士は北海道大学学長も務めて、「りんごの神様」とまで尊敬された人ですが、その島博士の花巻における弟子が、阿部弥之さんのお父さんである阿部博さんでした。岩手県果樹協会会長も務められた阿部博さんのりんごも有名で、花巻で暮らしていた頃の高村光太郎は、「酔中吟」という作品において、次のように謳っています。

奥州花巻リンゴの名所
リンゴ数々品ある中に
阿部のたいしよが手しほにかけた
国光紅玉デリシアス

 「阿部のたいしよ」こと阿部博さん直伝のりんごなのですから、ジューシーで、香り高く、本当に美味しいものです。
 さて、その阿部弥之さんが、今回私が三陸地方を旅行すると申し上げると、お忙しい中をさまざまな便宜をはかって下さいまいした。

 直接お会いするのは初めてだったので、ロビーでまずご挨拶をかわすと、阿部さんの車に乗せていただいて、胡四王山のイーハトーブ館に向かいました。雪はまだどんどん降り積もっていくので心配になりますが、阿部さんによれば「今日はまだ優しい雪でよかったですね」ということです。
 自動車は、昔の岩手軽便鉄道の跡に沿って走っていき、ここが昔の郡役所、稗貫農学校跡、女学校跡、などと阿部さんの丁寧な解説つき進みます。猿ヶ石川が北上川に注ぐあたりでは、木々はまさに「岩手軽便鉄道の一月」を彷彿とさせ、「鏡を吊し」たように一本一本真っ白になっていました。「まさに「岩手軽便鉄道の一月」ですね!」と、二人で眺めを楽しみながら走りました。

 イーハトーブ館の入口のところは、左写真でご覧のようなありさまです。玄関前の石段だけはいちおう除雪してありましたが、それでも一部は凍結してつるつるになっています。気をつけるように、と阿部さんに言われながら石段を下りて、館内に入りました。
 2階の事務所に上がると、阿部さんは何か賢治学会関係の事務的な処理事項があり、私の方は牛崎敏哉さんにお願いして、かなり昔に出ていた「原体剣舞連」の宮澤清六さん朗読によるソノシートを出してきていただきました。この清六さんによる朗読は、その最後の部分が、独特の節回しで賢治の歌曲「剣舞の歌」になっていくので、今度いつかこの曲を編曲する時の参考にするためです。
 私は、ソノシートからテープにダビングされた資料を何回か再生して、ICレコーダーに録音しました。(この時の体験をもとにして後に作成した「剣舞の歌」編曲は、こちらからお聴きいただくことができます。)

 作業を終えて2階の図書室から階下に降りると、「賢治曼陀羅展」というガラス絵の展覧会をやっていたので、しばらく見ていました。BGMとして、 私が昔に寄贈したCDが流れていて、うれしいような恥ずかしいような変な気持ちです。

 阿部さんにお礼を言って、それから三陸での連絡先について指示をいただいて、イーハトーブ館を後にしました。やはり滑らないように注意しながら日時計花壇などのある坂道を登って、上の駐車場に出てみると、「山猫軒」もやはり右写真のように、雪に覆われています。これでは客待ちをしているタクシーもなく、電話で車を呼んで、花巻駅に向かいました。さて、いよいよこれから三陸です。

 80年前の賢治のルートとはやや(?)違いますが、まず在来線で盛岡へ、そして盛岡駅構内では立ち食いのうどんを食べようと思っていたのですが、なぜか店がなくなっていて、やむをえず駅弁を買いました。
 盛岡からは下り新幹線に乗って、駅弁を急いで食べている間に、もう二戸に着きました。二戸駅前からは、太平洋岸の久慈まで、JRバスが1時間10分で走っています。
 昨年に普代村に詩碑ができてから、どういう経路で行くのがいちばん速いのか、夜行バスなども含めていろいろ検討してみたのですが、新幹線とこの二戸―久慈のバスを使うのが、最も効率的なようです。

 二戸駅は左写真のような感じですが、だいぶん天気はよくなってきて、雪もやみ日が差してきています。駅を発車したバスは、雪に覆われた峠道をくねくねと進んでいきました。
 久慈駅で降りて乗り換えようとしていると、どこかからかすかに「星めぐりの歌」が聴こえてきます。こんな北の方でも、賢治の人気は根強いのかと思っていると、何のことはない、私の携帯電話の着メロにすぎませんでした。寒さに備えて、ふだんはしないような厚着をして、オーバーの奥深くに携帯を入れマフラーなども巻いていたので、聴き慣れない音になっていたのです。電話は普代村の金子さんからで、到着時刻の確認でした。

 久慈からは、三陸北リアス鉄道に乗って、太平洋岸を南へ走ります。左手に見える海は、さすがに一面とても深い紺色をして、いかにも冷たそうです(右写真)。
 ほとんど海岸沿いにも平野が存在しないリアス式海岸を走る三陸鉄道は、その地形のために高架になっている部分が多く、いくつもの鉄橋とトンネルとを交互に通ります。久慈から約30分あまり列車に揺られ、午後4時頃に普代駅で列車を降りると、郵便局の職員の方が駅前まで車で迎えに来てくれていました。これも阿部さんからのご配慮の一環です。

 昨年の秋に建立された「敗れし少年の歌へる」詩碑は、前述の「リアスの海から賢治と語る会」の代表で、普代郵便局局長でもいらっしゃる金子功さんが中心になり、各方面に働きかけて実現されたものでした。この会をいっしょにやっておられる阿部さんの方から、その金子さんに頼んでいただいたおかげで、金子さん直々の運転の車に乗って、北三陸海岸のドライブを楽しんだ後、詩碑へも案内していただけることになったのです。

 ドライブでは、まず「発動機船 一」に 「雑木の崖のふもとから/わずかな砂のなぎさをふんで/石灰岩の岩礁へ・・・」とある通称「ネダリ浜」の白壁を見るために、黒崎の展望台に連れて行っていただきました(左写真)。

 正面に見えるやや白っぽい岩礁が重要な意味を持っていて、賢治は上のように「石灰岩の岩礁へ」と書きとめていますが、実際には三陸海岸には石灰岩の岩礁はありません。では、この「発動機船 一」の舞台は果たしてどこだったのか、これに関して『「宮澤賢治 《春と修羅 第二集》研究』を著した木村東吉氏は、賢治が船から見て石灰岩に見まちがえたのは、このネダリ浜の「白壁」と呼ばれる白っぽい岩であろうと推定しておられます。北三陸海岸では、ここ以外の岩の色はどこもかなり黒く、賢治が石灰岩と見誤ることは考えにくいということなのです。

 白壁の手前の小さな湾になった部分の浜が「ネダリ浜」ですが、ここは昔は「弁天港」という港となっており、「発動機船 一」の中で、「うつくしい素足に/長い裳裾をひるがへし」、「頬のあかるいむすめたち」が船荷の積み下ろしをしていたのは、この浜辺だったかもしれないのです。
 いちばん遠いところで右の方に長く延びている岬は、野田村の向こう、久慈湾の手前にある「三崎」です。素晴らしい展望ですが、撮影のために車の外に出ると、 とにかく北から吹きつける風がすごかったです。

 ドライブはさらに続き、今度は夕暮れの北山崎海岸の展望台へと向かいました。黒崎から北山崎にかけては、高さ約200mの断崖絶壁が8kmにもわたって続き、「海のアルプス」ととも呼ばれる場所です。実は私は5年前にも、この近くまで来たことがあったのですが、この時は遊覧船に乗って、海側から断崖を眺めたのでした。
 国道脇に車を停めて、海の方へ数百mほど歩くと、北山崎展望台がありました。確かにその時に見た憶えのある海蝕洞門を、遠くに見ることができました。
 やはり吹きつける風は強く、道路に電光表示される温度計には、マイナス5度と出ていました。

 この間ずっと、車内では金子さんのお話を聞きながらのドライブで、そのお話と素晴らしい景色にしばし時のたつのを忘れていましたが、さすがに北山崎展望台から車に戻る頃には、あたりは暗くなってきました。この辺で引き返して、堀内漁港の詩碑に向かうことになりました。
 金子さんが詩碑を建立しようと思い立たれたいきさつや、その後の苦労話についてもこの時いろいろうかがいましたが、これについては「敗れし少年の歌へる」詩碑のページでご紹介しています。

 今度は来た時とは逆に海岸に沿った国道を北上して行き、堀内漁港脇の「まついそ公園」に着いた時には、もう日はとっぷりと暮れていました。海辺の公園の一角に立つ詩碑は、ストロボをたいて撮影するのがやっとの明るさでしたが、それにしても建立者じきじきに案内していただけるとは、詩碑フリークとしてこれに勝る光栄はありません。

 さて、ドライブはまだ終わりません。賢治が1925年1月6日の夜に宿泊し、「文語詩篇ノート」に「寒キ宿」として登場するのは、野田村下安家(しもあっか)にある現在の「小野旅館」の前身であるというのが現在の一応の通説となっています。しかし「金子説」ではそうではなくて、もう少し奥に入った「島川家」という旧家だったのではないかということで、その家の前にも車を走らせていただきました。
 宿泊場所はともかく、少なくとも賢治は北の方からその家の裏手の山を越える旧道を通って、下安家の集落に入ってきたのです。山が海岸まで迫るリアス式海岸においては、鉄道が通る以前は隣の村まで行くのも本当に大変だったそうです。金子さんは、子供の頃に足を怪我した時に、大人に負ぶってもらってその島川家の裏の旧道を越えて、隣村まで運んでもらったという思い出を語って下さいました。

 その後、安家川の河口へまわり、その昔に小野旅館が建っていたのは今の場所ではなくて、100mほど東の河口近くだったことや、奥田弘著『宮沢賢治研究資料探索』には、昭和8年の大津波で昔の小野旅館が流失してしまったと書いてあるが、金子さんは当時小野旅館に泊まっていた人から、窓から津波の様子を見ていたという話を聞いているので、流失はしなかったらしいという話などを聞かせていただきました。
 そしてこの後、今晩私が泊まる、問題の「小野旅館」に送り届けてもらったのです。金子さんには多大な感謝とともに、阿部さんから頂戴した花巻のりんごも、おすそ分けさせていただきました。

 今日のスケジュールは、まだこれで終わりではありませんでした。金子さんが帰られてから私はとりあえず旅館の夕食を食べて、しばらくたった午後7時に、普代村の合唱団のメンバーの方が3人、わざわざ宿に訪ねて来られました。金子さんが、あらかじめ声をかけていただいていたのです。
 旅館の私の部屋で一緒にお茶を飲みながら、去年の詩碑除幕式における合唱のこと、そして賢治歌曲を題材とした普代村の「時報チャイム」の選定計画などについて、お話を聞きました。
 町に流れるチャイムと言えば、花巻市の「精神歌」(午前7時)、「星めぐりの歌」(午後7時)が先例としてありますが、何か普代村にも独自のものをということで、考えておられるそうです。「ポラーノの広場のうた」という案もあるということでしたので、それはいい曲ですねと私は賛成していたのですが、実はもう一つの別の案があるということです。
 それは、今回「敗れし少年の歌へる」の詩碑が村に完成したことだから、何かこの詩に曲を付けて「歌」ができれば、そしてそのメロディーが村の時報チャイムとして流れるのなら素晴らしい、という意見があるというのです。
 そこから、話は意外な方向に発展して、この私というのは賢治の歌曲の編曲などをやっているのだったら、賢治の詩に新たに曲を付けることもできるだろうから(?)、一つ「敗れし少年の歌へる」に作曲をしてくれないか、と3人でおっしゃられるのです。
 しかし、編曲と作曲では大違いです。私は音楽は全く素人ですから、そんな大役を引き受けるなど滅相もないとご辞退したのですが、結局は熱意に負けて、「村で曲の公募をされるなら、私も一つ応募してみます」ということになりました。
 この後まだいろいろ話をしているうち、偶然にも私が大学時代に属していたオーケストラが、数年前にこの地方に演奏旅行にやってきて、合唱団と一緒にジョイントコンサートをやったり、その晩は地元でホームステイをさせていただいたりした、ということなどもお聴きしました。私の後輩が、この地でお世話になっていたのです。
 お帰りには、私が「歌曲の部屋」にアップしている賢治歌曲をCDに入れたものを、記念に差し上げました。

 みんなが帰った後、お風呂に入って暖まり、ビールを1本だけ注文しました。ビール瓶とグラスをお盆に載せて運んできてくれたのは、高校生くらいの女の子で、この家の娘さんかな、という感じです。こんな夜まで仕事をさせてしまって申しわけないとこちらが恐縮するようなあどけなさで、賢治の「文語詩篇ノート」に記されていた、「安家寒キ宿ノ娘、豚ト、帳簿ニテ/ 濁ミ声ニテ罵レル」というのとはえらい違いでした。

 さて今日は最初から最後まで、本当にいろいろな方にお世話になり、イーハトーブの人情の暖かさに触れさせていただいた一日でした。それに引きかえ80年前の賢治の旅は、まるでみずから進んで孤独を求めたようにさえ思えます。やはり、この時の賢治の旅は「謎」ですね。


2005/01/10
 朝5時前に目が覚めると、まだ真っ暗な部屋の中は、しんしんと冷え込んでいます。昨夜ふとんに入るまではファンヒーターをつけていたので暖かかったのですが、切ってしまうとまるで室内も氷点下になっているような感じです。 もう一度ヒーターを入れてふとんにもぐり込みましたが、結局そのまま目は覚ましていました。賢治も「寒キ宿」と書いていますが、きっと当時はもっと寒かったのでしょうね。

 そのまま眠らなかったのは、昨日の夜に普代村の合唱団の方々とお話した「敗れし少年の歌へる」の曲のことが、やはり何となく心に残っていたのです。暗い部屋の中でふとんに入ったまま、詩の言葉を思い出してみては、あれこれメロディーに乗せて口ずさんでみました。
 6時頃になると、部屋も薄明るくなって、暖まってきました。もともと五線譜など持ってきているはずもありませんから、旅行の参考にと持ってきていた奥田弘さんや木村東吉さんの本のコピーの裏に、適当にいびつな五線を引いて、とりあえず浮かんだ曲の案を3つほど書きとめました。

 そうこうするうちに時刻も7時になったので、旅館の人に挨拶してからあたりの散歩に出てみました。 高架下に位置する旅館から坂道を登ると、はるか北に長く延びている三崎のあたりには朝日が当たって朱色に染まってきていますが、下安家の周辺はまだ日陰です。
 安家川の河口に架かっている安家大橋を北に向かって渡っている時に、途中で南側の岬の向こうから、日が顔をのぞかせました(右写真)。 まさに、「百の岬がいま明ける・ ・・」 という瞬間ですね。

このあと、安家川の北岸を少しさかのぼって、昨夜に賢治の宿の「金子説」としてお聞きした島川家(左写真)の方へも、もう一度行ってみました。 金子さんとしては、「文語詩篇ノート」に、「安家寒キ宿ノ娘、豚ト、帳簿ニテ/ 濁ミ声ニテ罵レル」と出てくる箇所に関して、 小野旅館の前身にあたる小さな宿では、 豚など飼っていなかっただろうということからの推測のようです。ただ、この箇所が意味するのは、「豚に向かって罵った」のか、 「(誰か人間に向かって)豚!と罵った」のか、いったいどっちなのか、 私にはよくわかりません。
 ただ、当時このあたりで「大家(おおや)」と呼ばれ、「地方有力者ニシテ村会議員」(大正5年『岩手県紳士録』)であったという島川家については、奥田弘さんも『宮沢賢治研究資料探索』の中で触れておられます。小野旅館を創業した小野芳夫氏も、もとはこの島川家に奉公に来ていたということで、島川家の番頭格として会計面を任されていたのだそうです。
 賢治が下安家に入ってきたのは、写真において島川家の後ろに見えている日の当たっている山を越える旧道でした。

 それから、いったん川を渡ってからもう一度川下に歩き、その河口のあたり、むかし小野旅館が建っていた場所(賢治が泊まったのならその当時の位置)というのも見てみました(右写真)。昔このあたりに、建坪80坪、木造二階建てで、網倉、作業所を付設した建物があったのだそうです。
 ここで小野芳夫氏は、漁業とともに、酒類、塩、雑貨等も商っていました。「陸の孤島」と言われるほど交通不便な場所ですが、それでも海産物を求める商人や、行商人、薬売り、旅僧などはこの辺を往来していて、小野氏は旅館としての屋号を掲げていたわけではなかったものの、旅人たちに乞われるまま、広い建物の一室を客の宿泊用にあてていたということです。ここが正式に「小野旅館」と名乗るのは、昭和もかなり過ぎてからということで、賢治の時代には屋号もなかったわけです。
 繋留されている漁船の間をぶらぶらと歩いてから、現代の小野旅館に帰りましたが、時刻は8時近くになっていました。もうとっくに朝食の準備もできていたようで、急いでいただきました。

 8時半ごろに宿を発つと、徒歩で野田村と普代村の境の小さな峠道を越えました。右の写真は、峠を越える前に、下安家の集落を振り返って見たものです。高いところを通っている高架が三陸北リアス鉄道、下の方で右奥まで続いているのが、国道45号線です。
 それから少し歩くと、左下にもう堀内の港が見えてきて、坂道を下って「まついそ公園」を目ざしました。漁港の東の隅にあるこの公園も、今日は雪に埋もれていましたが、ここで「敗れし少年の歌へる」詩碑を、今度は明るい中で見ることができました。
 よく見ると詩碑の後ろには、「賢治 濱善丸で南へ」と刻まれていますが、これは金子功さんの調査で、当時この港から運航していた船の名前です。
 また碑の表には、賢治がうつむいて立つ有名な姿のシルエットと、これもおなじみの「みみずく」の絵があります。ところが、この2つの図案は実は「林風舎」が商標として登録済みだったために、詩碑にこれを刻んだことで完成後にちょっとした問題が持ち上がったのだそうです。この時も、阿部弥之さんの奔走によって、何とか解決を見たとお聴きしました。大切な碑を様々な角度から写真に収めると、もう一度港から坂道を登りました(「敗れし少年の歌へる」詩碑参照)。
 駅へ向かう途中では、小学生に 「おはようございます!」と声をかけられたりして、堀内駅ではしばらくホームから掘内の港や家々の様子を眺め、そのうちに北の方からやってきた三陸リアス鉄道に乗りました(下写真)。

  しかし今日は、昨日とうってかわっていい天気です。澄み切った「三崎」の長い姿を後ろに、列車は南へ向かいました。3つの「発動機船」詩碑がある田野畑、島越を過ぎ、美しい船越海岸も過ぎて、昼すぎには釜石に着きました。ここから釜石線に乗り換えて、花巻に向かうというルートそのものは、 80年前の賢治と同じです。

 太平洋側では、上写真のようにきれいな青空で、山々に残る雪も少なかったのですが、 仙人峠を越え、 だんだん遠野盆地に入っていくと、列車の窓も曇り、またあたり一面の銀世界になってしまいました(右写真)。

 花巻には3時前に着き、急いでタクシーでイーハトーブ館に行きました。賢治学会の「企画委員会」に出ておられた阿部さんにお会いして、 昨日の三陸の報告とともにあらためて今回のお礼をすると、花巻空港に向かいました。

 今日は昼食をとるひまがなかったので、空港で「岩手・蔵ビール」や「早池峰ワイン」で食事のかわりとしましたが、ふりかえると実質2日間だけだったのに、ほんとうに充実した楽しい旅でした。お世話になった皆様、ありがとうございました。

 


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