西ヶ原など

富士山 今日は昨日とはうってかわってよい天気で、ホテルの窓からは富士山も見えました。ふだんあまり東京に来ない私にとっては、都内から見る富士山など初めての経験で、ちょっと感激です。

 都内は、どこも桜が満開、というかもうかなり散り始めていました。永田町で地下鉄を降りると、このあたりの地面にも桜の花びらがいっぱいです。

 今回、国会図書館でコピーしたのは、あの『漢和対照 妙法蓮華経』(「赤い経巻」)の島地大等による解説部分、エルンスト・ヘッケル『生命之不可思議』の一部分、『北上市史』の飯豊森に関する部分などです。
 あと、昭和9年に「旅館新聞社」というところから国会図書館前の桜出版された『全国旅館名簿』というものも閲覧を申し込んだのですが、現在製本準備中とのことでコピーはさせてもらえず、別室で係員の監視の下でおそるおそる見せてもらいました。

 賢治が宿泊した旅館については、東京に関してはほとんど調べつくされた感がありますが、他の地域の宿に関しても、もう少し知りたかったのです。結局、大したことはわかりませんでしたが、そのなかで1921年に父親と京都へ来た際に泊まったのは、『【新】校本全集』の年譜では「三条小橋の旅館布袋屋」と記されていますが、この『全国旅館名簿』では「三條小橋東詰」に「布袋館」が載っており、はたしてどちらが正式の名称だったのだろうかと思いました。
 賢治の京都における宿については、盛岡高等農林時代の修学旅行で泊まったとされる「西富家」ともども、またいずれレポートをしたいと思っています。

 午後2時ごろに図書館を出ると、地下鉄に乗って北区の西ヶ原に向かうことにしました。ここは、賢治の時代には国立の農事試験場があったところで、彼は盛岡高等農林学校時代の修学旅行の際にこの試験場を見学し、1921年の家出出京中にも、恩師関豊太郎博士に会いにここを訪れたようです。後に関豊太郎氏は、下記のように書き残しています。

 大正九年の秋、私は盛岡を辞して東京に帰つて、農林省農事試験場で引続き仕事をし、傍ら東京農業大学で教鞭を執つてゐる。大正十一年のことだと思ふが、宮沢氏は木綿袴をつけ朴木歯の下駄をはき、突然と試験場へ来訪されたので、四方山話で退庁時間となつたから、自宅へ伴ひ話の続きを進行させた。(関豊太郎「宮沢賢治氏に対する追憶」より)

 上記で、賢治が訪ねてきたのを「大正十一年のことだと思ふ」と関博士が記しているのは、上にも書いたように現在は大正十年の家出中のことと解釈されています。

農事試験場記念碑 西ヶ原にあった農事試験場は、現在は移転してしまって跡地は「滝野川公園」などになっていますが、公園の一角には、「農業技術研究発祥の地」と刻まれた右のような立派な石碑が建てられていました。ここは、賢治自身が科学者として専攻した分野の、当時の全国一のメッカだったわけですね。
 この左横にある副碑には、「明治26年にこの地に農事試験場が創設されて日本における農業研究が始まってから、昭和55年の筑波研究学園都市への移転まで87年間、「西ヶ原」は常に近代農学を先導し 我が国における農業関係試験研究機関の母体として 多くの輝かしい業績により農業の発展に寄与してきた」と刻まれていました。

北区立飛鳥中学校 賢治が関博士を職場に訪ねた後に、お邪魔したという博士の自宅は、奥田弘さんの調査によって、現在は区立飛鳥中学校のある場所にあったということがわかっています。試験場跡から歩いて10分ほどのところにさしかかると、ふいに住宅地の只中から吹奏楽の練習の音が聞こえてきて、この中学校が現れました。

 さて、桜の季節とあって、この後はこの近くで隅田川の川べりに出てみようと思いました。
 賢治に「隅田川」という文語詩がありますが、これは、1921年の上記のような師弟の出会いの折に、どこかで「花見」をした際の情景だろうと推測されています。この辺のことは、当サイトの「滝廉太郎「隅田川」」というページにも書きましたが、私としては、関博士と賢治が隅田川に行くとすれば、この西ヶ原のすぐ近くの川べりだったのではないかと、なんとなく思っていたのです(最下段の地図参照)。

 ところが、実際に行ってみると、このあたりはお花見をするような雰囲気ではなく、また「泥洲」というものがある様子でもなかったのです。
 下写真は、西ヶ原の対岸の方から(下の地図では「隅田川」の「隅」の字の上あたりから)、東の方を見たところです。白い大きな建物は、日本製紙や読売新聞の工場ですね。

隅田川1

 また、下の写真は、同じ場所から西南の方を見たところです。

隅田川2

 宮沢俊司氏は、『宮沢賢治文語詩の森 第二集』に収められた評釈の中で、作品「隅田川」の舞台を、この近くの「荒川放水路」(当時)の方ではないかと推測しておられますが、そもそもこの問題の難しさは、同じ川の流れのうちで「隅田川」と呼ばれる範囲が当時と今とでは大幅に違ってしまっていること、「泥洲」や「芦生へ」がどこにあったかということについても、おそらく状況は全く変わっていること、などを考慮に入れなければならないところにあります。
 私のような他所者には、とても手に負えそうにありませんが、最後に花の季節にちなんで、替え歌「隅田川」をどうぞ。

西ヶ原と隅田川