木を伐った罰

 1923年9月16日の日付を持つ「風景とオルゴール」には、賢治が山で木を伐ったことによって、 罰が当たるのではないかと恐れるような描写があります。

わたくしはこんな過透明くわとうめいな景色のなかに
松倉山や五間森ごけんもり荒つぽい石英安山岩デサイトの岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
〔中略〕
   (しづまれしづまれ五間森
    木をきられてもしづまるのだ)

 この日曜日の賢治の行動について、栗原敦さんは次のようにまとめておられます。

作者賢治は、何らかの理由で五間森で「木をきつ」て下りて来て、「渡り」橋をこえて松倉山の下を過ぎ、「ダムを超える水の音」を聞いてのち電車に乗った。(栗原敦「「風景とオルゴール」の章二連作」:『宮沢賢治 透明な軌道の上から』p.92)

 賢治は、五間森で木を伐ったことの罰として、近くの松倉山の岩が「刺客」として落ちて来て、打ち殺されてしまうという不安にとらわれているようです。

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松倉山と渡り橋

 同じ日の次の作品「風の偏倚」にも、同様の恐怖が顔を覗かせます。

おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる

 そして、さらに次の作品「」では、賢治は帰りの電車に乗っています。

山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
〔中略〕
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる

 ここでもやはり、「山へ行つて木をきつたものは/どうしても帰るときは肩身がせまい」という罪悪感が続いています。山から離れたことで、岩に打たれるというイメージからは解放されているようですが、こんどは電車の壁が壊れて投げ出されて死ぬという恐怖を覚えているようです。

 この日、賢治が何のために木を伐ったのか、その目的は不明ですが、「山で木を伐ると罰を受ける」という意識を抱いていたのは明らかです。

 さらに、この半年ほど後の、1924年3月25日の日付のある「晴天恣意」にも、木を伐ると罰が当たるという話が出てきます。

秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でありますので
もしも誰かゞその樹を伐り
あるひは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸をし潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます

 木を伐った人間にこのような恐ろしい罰を与えるのは、いったいどんな怪異の力なのかと思いますが、この作品の下書稿(一)には、「古生山地の峯や尾根/盆地とあらゆる谷々には/由緒ある塚や巨きな樹があって/めいめいにみな鬼神が棲むと伝へられ……」とありますので、山に住む「鬼神」の祟りとして賢治は理解していたのでしょう。

 一方、この年の8月に賢治が農学校で上演した劇「種山ヶ原の夜」では、こんな恐ろしい鬼神ではありませんが、伊藤少年が樹霊との間で、「木を伐らない」という約束を結ばされそうになります。

柏樹霊「そだら一づおらと約束さなぃが。」

伊藤「なぢょなごとさ。」

柏樹霊「草ここのこらぃばがりむしれ。」(自分でむしる。)

伊藤「草むして何するのや。」(自分もむしる。)

柏樹霊「約束すづぎぁ草むすぶんだぢゃ。」

伊藤「そたなごとあたたが。」

樺樹霊「あるてさ。さあ、めいめいしてわれぁの好ぎな様に結ぶこだ。」(各々別々に結ぶ。)

伊藤(つりこまれて結びながら、)
「あ、忘れでらた、全体何の約束すのだた。」(樹霊、同時に笑ふ)

楢樹霊「その約束な、笹戸の長嶺下うなぁ小林区がら払ひ下げしたらな、一本も木らなぃてよ。」

伊藤「おれ笹戸の長嶺下払ひ下げしたら一本も木伐らなぃこど。一本も木伐らなぃばは山いづまでもこもんとしてでいゝな。水こもわくだ。」

樹霊(みな悦ぶ)「さうだ、さうだ。」

伊藤「すたはんてそれでいゝやうだな、それでも何だがどごだがひょんただな。一本も木伐らなぃば山こもんとしてる。それでいゝのだな。山こもんとしてれば立派でいゝな。立派でいいんともたゞ木炭焼すみやぎ山さ行ぐみちあぬがるくて悪いな。ありゃ、何でぁ、笹戸の長嶺払ひ下げしておら木炭焼ぐのだた、わあ、んたぢゃ、折角払ひ下げしてで木一本も伐らないてだらはじめがら払ひ下げさなぃはいべがぢゃ。馬鹿臭いぢゃ。こったなもの。」(草の環を投げ棄てる)

樹霊(同時に笑ふ)

柏樹霊「そだらそれでもいすさ。ほう何だが曇って来たな。」

 伊藤少年と樹霊たちの和気あいあいとしたやり取りがユーモラスで、最後に伊藤が約束を取りやめても、樹霊は「そだらそれでもいすさ」と言って笑って終わるところが、いかにも牧歌的です。

 「木を伐る」という問題に関する人間と樹霊との葛藤は、少しさかのぼって1921年8月25日の日付を持つ童話「かしはばやしの夜」でも、描かれていました。
 「画かき」に連れられて「柏の木大王」のもとに来た農民清作は、木を伐ったことを大王から咎められますが、少しもひるまずに言い返します。

 大王は大小とりまぜて十九じふく本の手と、一本の太い脚とをもつてりました。まはりにはしつかりしたけらいの柏どもが、まじめにたくさんがんばつてゐます。
 画かきは絵の具ばこをカタンとおろしました。すると大王はまがつた腰をのばして、低い声で画かきに云ひました。
「もうお帰りかの。待つてましたぢや。そちらは新らしい客人ぢやな。が、その人はよしなされ。前科者ぢやぞ。前科九十八犯くじふはつぱんぢやぞ。」
 清作が怒つてどなりました。
「うそをつけ、前科者だと。おら正直だぞ。」
 大王もごつごつの胸を張つて怒りました。
「なにを。証拠はちやんとあるぢや。また帳面にもつとるぢや。貴さまの悪いをののあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちやんと残つてゐるぢや。」
「あつはつは。をかしなはなしだ。九十八の足さきといふのは、九十八の切株だらう。それがどうしたといふんだ。おれはちやんと、山主の藤助とうすけに酒を二升買つてあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ酒を買はんか。」
「買ふいはれがない」
「いや、ある、沢山ある。買へ」
「買ふいはれがない」

 この後、柏の木たちと清作は、緊張を孕みながらも歌合戦に入り、歌と講評によって丁々発止のやり取りを繰り広げます。時に清作は、「あしたをのをもつてきて、片つぱしからつてしまふぞ」と樹霊を脅したりもしますが、それでも「風景とオルゴール」や「晴天恣意」のにように、人間が死んだり重病に罹ったりするような深刻な災厄にはならず、両者は不思議と楽しげな共存をしているのです。

 ところで、「木を伐ると罰が当たる」という民間伝承について調べるために、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で、「木を伐る」などの語句によって検索をしてみると、数多くの事例が見つかります。
 そのいくつかを、下記に挙げてみます。

紀伊国高野川の北に非常に険しい山があった。この山に人が登る事があると忽ち鳴動し、樵夫が木を伐ると祟りをなして病気になるという。ある至孝の農民が、病床の母に頼まれた山鳥を狩りに山に入り、鳥は得たが道を失った。杉の陰に燐火と思うものが燃え農民を呼ぶ声がした。見ると貴人がいて、自分が祟りをなしていた、地面の下を探って寺に移してほしいと言う。山を下りて後、法師と山を探ると骨があり、それは小野毛人のものであった。(『桑楊庵一夕話』より

荒神の神木は椎の木。神木を伐ると病気になる、死んでしまう、祟られる、という。ただし、公民館の費用など公のことに使うために伐るのはいいという。(「荒神の神木」より

11月23日に木を伐ると山の神様に咎められる。この「山の神様」とは、石のコクラに祀り、神主を雇って祀る山の神様である。(「五島年中行事(六)」より

東村平良の東北方にイチバンフクギと称される聖木がある。この木を伐り倒す時にはカミンチュの祈願儀礼が必要である。道路工事でこの聖木を無断で伐り倒そうとしたとき、ヌルの妹の夢枕に死亡した先代のヌルであるおばが立ち、「姉さん(ヌル)の体にトゲが入って血が止まらないから、早く起きて姉さんを助けなさい」と言った。妹は工事関係者に何度も訴えて、木を伐るのをやめさせた。姉のヌルは勤務先の病院で、体に傷もないのに体から鮮血が流れていて、変だと感じたが、やがて止まったという。(「民俗知識の動態的研究-沖縄の象徴的世界再考-」より

金鶏古墳はケチ山だと言われており、木を伐ると祟るという。(「大柳生の民俗誌―奈良県奈良市大柳生町―」より

七村の下水流門は内神の代わりにモイドンを祀る。門近くにモイヤマがあり、その中にモイドンの木宮がある。もとは旧11月に赤飯を炊き幣を立てて祀っていた。祭り以外の時は恐ろしい場所として近づかず、木を伐ると祟ると信じられていた。(「南九州の民俗神(九)モイドン(森殿)」より

七大龍王さんという石の宮のぐるりの山は龍王のものなので、そこの木を伐ると祟るという。(「紀北四郷の民俗」より

木を伐る名人の男がお上の命令で木を伐っていると白いヒゲのおじいさんが夜に現れて、鳥やけものが住めなくなるから少しでも木を伐らないでくれと言う。代官に話すと「永代山として残せ」と言われた。山火事でも稲荷様は焼けなかった。(「多摩の昔話(二)」より

爺が山で木を伐っていると「だんだー木を伐るのは」という声が聞え、爺が「ニシイサラサラトンピンパラリのプー」と屁をやるとお礼に軽いつづらをもらい、金や宝物が入っていた。隣のスクスクバンバが真似をして重いつづらをもらったが、あけるとビッキ、イモリ、蛇などばかりが出てきた。(「秋田県の昔話―仙北郡小友村―」より

隣国の殿様に殺された猟師と美しい娘2人の亡魂が祟りをなした。それから後は、島の木を伐るものは気狂いになるので、茂るままに任せてある。(「瀬戸内海の島々」より

小池という淵に大蛇がいるという。そこの木を伐ると祟るといわれている。木を伐った人がいたが、本当に病気になってしまったという。(「長野県史 民俗編」より

山の神の御神木は、根が地の上から二俣か三俣に分かれていて、この木を伐ると必ず天狗の祟りがあるという。(「道志俚譚抄」より

 全国各地でいろいろなパターンがあるようですが、祟る主体は「山の神」「天狗」「大蛇」「龍王」「死者の霊」などで、伐った人はほとんどが病気になっています。
 ただその中で、白いヒゲのおじいさんが現れて「鳥やけものが住めなくなるから少しでも木を伐らないでくれ」と頼むという「共存型」は、「種山ヶ原の夜」と少し似ていますし、木を伐った後で「ニシイサラサラトンピンパラリのプー」と屁をやるとお礼につづらを貰えたというユーモラスな「祝祭型」は、「かしはばやしの夜」を連想させます。

 そこであらためて、賢治の詩・童話・劇に表れた形を振り返ってみると、やはり木と人間が共存的なものから対立的なものまで幅が広く、賢治が様々なスタンスで自然に関わっていたことが感じられます。
 「かしはばやしの夜」については、岡村民夫さんが次のように述べているのが印象的です。

 賢治的ユートピアとは、対立の無視や無化を意味しない。反対に対立を隠蔽している習慣的現実を解体し、対立を共通の場において遊戯的に解放しながら、諸存在の相互触発や共存を探る試みを意味する。こうした重層性・多元性・対話性は、賢治短歌のうちにさえ萌芽的に認められるにせよ、心象スケッチの段階にいたって開花したものである。加えて、それは、『春と修羅』「序」(「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら」……)に理念的凝集度をもって表明されているにせよ、最晩年まで探究されることになったといえる。「かしはばやしの夜」で賢治は、異者間の交流の可能性を、歌の循環、媒介者としての画家、全体を包む月光によって暗示した。(學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』p.41)

 それと同時に、この「祝祭」的な交流は、単に遊戯的なレベルで繰り広げられるにとどまらず、場合によっては「死」に至る可能性も秘めたものでした。
 「なめとこ山の熊」において、熊たちと小十郎は、互いの命をかけながら心の深い層での交流を続け、多くの熊が死に、最後に小十郎も死にます。小十郎は、結末でやはり月光に包まれつつ、自らの死を受け容れて死んでいったように見えますが、これはたとえば「ビヂテリアン大祭」に、「もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていゝ、そのかはりもしその一人が自分になった場合でもあへて避けない」と書かれていることを彷彿とさせます。(「命の対等な贈与」参照)

 最初に挙げた「風景とオルゴール」においても、木を伐った罪を感じていた賢治は、「わたくしは……暗殺されてもいいのです」と述べ、まるで自分の死を「あへて避けない」態度であるところが、いかにも賢治らしく、一本気に感じられるところです。