ちょうど1か月前の7月23日に、賢治が修学旅行で見学した「滋賀県立農事試験場」の場所を探る記事を掲載していましたが、その後コメントにてご指摘をいただき、旧東海道との位置関係について、再検討をしました。その結果、前回の推定場所はかなりずれていたらしいことがわかりましたので、調査しなおした結果を、ここにあらためて掲載いたします。
1916年(大正5年)3月下旬、盛岡高等農林学校2年を目前にした宮澤賢治は、関西地方の修学旅行に参加しました。
この旅行のスケジュールは、3月19日に盛岡を発ち、20日には東京西ヶ原の農商務省農事試験場を見学、21日に農事試験場渋谷分場と上野の海事水産博覧会を見て、22日に静岡県の興津園芸試験場、23日早朝に京都に着いて東西本願寺、京都府立農事試験場、府立農林学校、金閣寺、北野天満宮を巡り、24日に京都御所、二条離宮、桃山御陵、府立農事試験場桃山分場、奈良県農事試験場の見学、25日に奈良公園、大阪府柏原村の農商務省農事試験場畿内支場、26日に三井寺、石山寺、滋賀県立農事試験場、琵琶湖疏水とインクライン、南禅寺、27日に三十三間堂、清水寺、南禅寺付近の蔬菜栽培の見学をして解散、という非常に盛り沢山な内容でした。
この時に賢治が見学した関西地方の農事試験場のうちで、京都府立農事試験場、京都府立農事試験場桃山分場、奈良県農事試験場については、以前にそれぞれ「1916年修学旅行の京都(1)」、「1916年修学旅行の京都(2)」、「奈良県農事試験場の場所」という記事で場所を確認しましたので、今回は残る「滋賀県立農事試験場」があった場所を、調べてみようと思い立ちました。
この旅行の詳細は、1916年7月発行の盛岡高等農林学校「校友会報 第三十一号」に、同級生で分担執筆した「農学科第二学年修学旅行記」として掲載されていますので、まずはこれから見てみましょう。
滋賀県を巡った3月26日の行程について、農学科第一部の三木敏明は、次のように書いています(『新校本全集』第14巻校異篇p.21-22より)。
二十六日晴 無風〔大津行〕 三木敏明
〔石山三井二寺参詣〕
昨夜来N、K二君風邪の心地にて床に付く。元気の二君の欠けたるは、十人も人数の減りたる如し
例へば
戦の門出に法螺の欠けたると云はんか。
八時宿を出で京津電車にて大津に向ふ。山科の辺りを過ぐ。大石良雄に有名たり名所旧跡又多し追分け過ぎて大津に着く。
歩して数町三井寺に詣づ。長等山園城寺なり、
石段数十回上りて観音堂あり詣ずる人多し。寺境琵琶湖に臨み景勝の地たり。
〔中略〕
其れより汽船にて一時間半石山に至る。途中膳所粟津瀬田を過ぐ又景勝地たり。石山寺に詣づ
〔中略〕
再び和船にて湖に浮ぶ唐橋の下青嵐の辺りより船を棄てて農事試験場を訪ふ。
滋賀県立農事試験場参観
船の内から遙に赤い屋根の建物が見える此が滋賀県立農事試験場である、当場は二十八年の創立田二町畑四反余化学種芸園芸種畜の各部を有して居る。陳列場を見ながら暫らく休息する。稲麦の標本が多く殊に珍しい大粒種があつた。其れから場長の懇切なる講話があつて益する処が少なくなかつた
〔中略〕
帰りは二途に別れた。吾々は電車で大津に其れから和船で疏水を下つた。
疏水の三つのトンネル明治十五年頃の工事としては大事業であつたと思はれた。有名なるインクライン南禅寺を見て宿に帰つたのが六時他の途を通つた一行も最早帰つて居つた。〔後略〕
この時の彼らの京都の宿は、以前に「京都における賢治の宿(2)」でご紹介した「西富家」で、まずはここから「京津電車にて大津に向ふ」ということですから、「三条大橋駅」まで900mを歩き、京津電車に乗ったのでしょう。「京津電車」は、1912年(大正元年)に、京都の「三条大橋」から大津の「札の辻」までの10km区間で開業していました。現在の京阪電車京津線と、ほぼ同じ路線です。
大津側の終着駅「札の辻」は、現在は駅としてはなくなっていますが、大津市京町一丁目交差点付近だったということで、ここから三井寺までは1.5kmの道のりです。
三井寺から石山寺まで「汽船」に乗ったというのは、当時の「湖南汽船」と思われます。(賢治は、1921年の父との関西旅行の際にもこの汽船を利用しており、その停泊港については、以前の記事に地図とともに載せました。)
そして一行は石山寺参詣の後、今度は「和船」で下青嵐まで来て下船し、ここからいよいよ「滋賀県立農事試験場」に向かったということです。
滋賀県立農事試験場は、1895年(明治28年)に滋賀県滋賀郡膳所村大字別保(現在の大津市別保)に創設され、その後1928年(昭和3年)に栗太郡治田村(現在の草津市)に移転し、さらに1974年(昭和49年)に蒲生郡安土町(現在の近江八幡市)に移転して、現在は「滋賀県農業技術振興センター」となっています。
創設時住所の「膳所村」は、1901年に町制を施行し膳所町になりましたので、賢治が訪ねた頃の滋賀県立農事試験場は、当時の「膳所町大字別保」にあったわけです。
この場所について、国会図書館デジタルライブラリーで、1912年発行の「滋賀県立農事試験場一覧」という書物を見てみますと、次のように書かれています。
第一節 位置
滋賀郡膳所町大字別保通称粟津ヶ原ニアリテ東海道馬場駅ヨリ膳所町新道ヲ経テ東南約十八町石山駅ヨリ北約五町ニアリ
当時の東海道線「馬場駅」は現在の「膳所駅」になっており、1町≒109mで換算して地図を見れば、場所はもう少し具体的にわかってきます。
また、この書物の口絵には、試験場の構内図として、下のような図が載っており、これも参考になると思われます。(上を北にするために90度回転しています。)
上の構内図の右端には「東海道」が通っていて、農事試験場の田んぼと接しています。7月に掲載した当初記事では、現在の「大津市別保」の区画は、旧街道の東海道からは相当離れていることから、この「東海道」は鉄道の「東海道線」のことと解釈して、その西側に跡地を探していました。しかし、コメントのご指摘により、当時の農事試験場は、「旧東海道」のすぐ西側にあったことがわかりました。
下の地図は、「今昔マップ on the web」というサイトから、1892年~1910年の膳所町付近の地形図です。
地図の中央あたりに、「農事試験場」という記載があります。青いマーカーを立ててあるのは、農事試験場の中心的な建物らしき場所で、上の構内図では、中央部で「イ」の記号が付いている最も大きな建物(管理棟?)に相当すると思われます。
地形図では、この建物から琵琶湖に向かって、田んぼの記号の中を点線で表された道が伸びていますが、これがおそらく構内図では、管理棟の前から東に向かって、「ロ」の記号の田んぼの中を走る道でしょう。
そして地形図で、緑に色づけしてある道が「旧東海道」です。こうやって見ると、構内図と地形図における、建物と取り付け道路と東海道の位置関係を、整合的に理解することができます。
次に、下の地図はやはり「今昔マップ on the web」から、上記の場所をそのまま現在の国土地理院地図に置き換えたものです。
さてこの「今昔マップ on the web」の特徴は、昔の地図上に立てたマーカーの位置を、そのまま現在に地図の上で見られることにあり、1892年~1910年の地図で農事試験場の管理棟の上に立てたマーカーが、現在は上の地図の青いマーカーの場所になっているわけです。
ここは、現在の住所を調べると「大津市御殿浜6番地」となっており、大津市営粟津第一団地の第一号棟あたりに相当します。緑で色づけした道は、やはり旧東海道です。
上の地図と見比べると、現在は昔よりも湖岸の陸地が広がっているようですね。逆に、現在の「大津市別保」の範囲は、昔の「大字別保」よりもかなり西に後退して、湖岸までの間には「青嵐」や「御殿浜」などの地区ができています。
本日、私はあらためてこの場所を訪ねてみることにしました。途中、瀬田の滋賀県立図書館に寄って、1995年刊の『滋賀県立農業試験場百年史』という本を見てみたところ、農事試験場の創設時の場所については、
明治28年4月(1895)、滋賀県膳所村大字別保の粟津松原(現在の大津市粟津町、旧東海道沿い)に、用地1町5反歩と民家2棟を借入れて仮事務所を設け、種芸、土壌、肥料および病虫の業務を開始した。
と記されており、やはり「旧東海道沿い」にあったことは確かです。
そして同書の口絵には、当初の農事試験場の写真として、下記のものが掲載されていました。
この写真はおそらく、構内図で中央部「イ」の管理棟らしき建物を、東の方から見たところでしょう。左手に見えている道が、旧東海道の方に伸びているものと思われます。
※
さて、県立図書館からまたJRと京阪電車を乗り継いで、「粟津」駅で降りると、御殿浜は目と鼻の先です。
上の古い写真と同じようなアングルで、西を向いて滋賀県立農事試験場の管理棟があったと思われる方向を見ると、現在は下写真のような様子になっています。
大正5年に賢治たちは、このあたりにやって来て種々の見学を行ったのだと思われますが、残念ながら昔の農事試験場の跡地を示すような碑などはありませんでした。
この場所から、振り返って東の方を見ると、下写真のようになっています。
昔はおそらく、目の前には田んぼが広がり、その向こうに琵琶湖が見えただろうと思いますが、今はやはり団地が続いています。
ここから少し東に進むと、旧東海道に出ます。
下写真は、旧東海道で南を向いたところ。
そして下写真は、旧東海道で北を向いたところです。
ということで、前回の記事にお寄せいただいた匿名のコメントのおかげで、おそらく今度は正しい「滋賀県立農事試験場」の場所を、見てこられたように思います。コメント主さま、どうもありがとうございました。
今日も残暑の厳しい一日でしたが、琵琶湖岸に出ると、少し涼しい風も吹いていました。
匿名
やはり東海道は、旧東海道のようですよ。
ここで、現在の国土地理院地図と重ね合わせることができます。
https://sv53.wadax.ne.jp/~ktgis-net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.986093&lng=135.896351&zoom=15&dataset=keihansin&age=10&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=kjmap%5B0%5D&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
hamagaki
ご教示を、ありがとうございます。
確かに、ご紹介いただいた「今昔マップ」で「1892年~1910年」の地図を参照すると、「農事試験場」は、上の記事で推定したよりも東方の、湖岸に近い場所にありますね。現在は、「大津市営粟津第一団地」がある一帯でしょうか。
この位置であれば、上の構内図にある「東海道」は、鉄道ではなくまさに旧東海道に一致します。記事における私の推測は、誤っていたと思います。
このたびは、貴重なご指摘を賜りまして、心より感謝申し上げます。
私が間違ってしまった原因を省みてみると、当時の農事試験場の住所である「別保」という地域は、現在の住所では主にJR東海道線の西側にあるので、私は当初から線路の西側ばかりを探していたことにあったようです。おそらく当時の「大字別保」は、現在の「大津市別保」よりも、広い範囲にわたっていたのかと思われます。
ウェブ上で間違った情報を拡散しつづけてはいけませんので、上記の記事の間違いと思われる部分は、いったん削除いたしました。
またあらためて現地を訪ねるなどして確認がとれましたら、正しい情報を再掲載したいと思います。
これまで上記記事を閲覧していただいた皆様にも、ここにお詫び申し上げます。
ギトン
ご調査の場所からほど近い「大津市立粟津中学校」の塀(旧東海道沿い)に「農業試験研究発祥の地付近」と題する碑があります。それによると、旧東海道を隔てて「粟津中学校」と反対側「に広がっていた粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が開設」された、とあります。したがって、旧東海道沿い・西側であることは、まちがえありません。
ただ、ご調査の団地よりも約200m南方の晴嵐2丁目ではないかと思います。ご掲載の新旧地図の(縮尺の関係が分からないのですが)道形を比較すると、現在の粟津駅前に「管理棟」があり、「日本電気硝子」工場敷地内に試験田があったように思われます。
なお⇒:https://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=480
。
hamagaki
ギトン様、ご教示をありがとうございます。
私の調べた場所が、今度もまたずれていたようで、すぐ隣県に在住している者として、お恥ずかしいかぎりです。
貴ブログの調査記事のご紹介にも、感謝申し上げます。
実際に現地へ行って撮影された、「農業試験研究発祥の地付近」の写真に、感激しました。
私自身も、何か跡地を示す碑のようなものがないか、団地の近辺や「日本電気硝子」の周りはかなり歩きまわってみたのですが、中学校の方までは足が及びませんでした。
またコロナが収まってきましたら、現地を訪ねてみたいと思います。
このたびは、重ね重ねありがとうございました。
匿名
現地を確認された御殿浜の場所で合っていると思います。
まず、試験場構内図の一番北側の線ですが、東海道と交わる際に線で区切られていることから、道ではなく水であると思われますが、中程より西側で、北西に向きを変えています。
これは、現在でも同様のルートで流れる一級河川兵田川であると思われます。
構内図では、向きが変わる辺りに網掛けで橋が渡されているような表現がありますが、現在でも、同じ箇所に橋がかかっています。
1892年~1910年地形図でも、わかりづらいですが、青いマーカーを立てられた北北西あたりで向きが変わっている実線が確認できると思います。
次に、東海道から管理棟?への道が東海道と交わる地点についてですが、そこより北向きには、ほぼ真北に東海道が伸びているのに対して、南向きには、東海道の向きがやや南南東に変わっています。
この折れ点については、今の東海道でも確認することができ、おおよそ兵田川と、大津市道幹1052号線の中ほどであることがわかります。
つまり、兵田川の折れ点から真南に伸ばした線と、東海道の折れ点から真西に伸ばした点の交点が管理棟の辺りになるわけですので、マーカーの位置でおおむね合っていると判断できます。
なお、構内図や1892年~1910年地形図で、管理棟正面から南に伸び、西側に折れていく道は、その形状から、現在の大津市道南0249号線から、市道幹1052号線に折れる道だと考えられます。
よって、構内図のエリアは、おおむね東側を東海道、西側を京阪電車、南側を市道幹1052号線、北側を兵田川及び市道南0247号線に囲まれた範囲だと推測され、中でも管理棟があったのは、市道南0249号線より西側ということになります。
ギトンさんのおっしゃるように、粟津中学校の向かい、晴嵐二丁目の日本電気硝子工場内とすると、まず東海道の形状(伸びている方角)が合いません。
この辺りでは、東海道は、もっと東西方向に伸びているのです。
また、近江八景の1つである粟津の晴嵐の生き残りである松の古木が何本か残されていることから、この辺りの東海道沿いは松林であったことがわかりますが、構内図からはそれは伺えません。
1892年~1910年地形図でも、東海道沿いに松林があったことを伺えるのは、管理棟からの道の交点以南に限られます。
管理棟の位置についても、粟津駅前と推察されていますが、そうなると、北側も含めた東海道の形状と合わせると、全く位置が合いません。
この辺りの東海道のルートは、江戸時代から基本的に変わっていないはずです。
粟津中学校の碑文についても、大まかに粟津中学校から見て東海道の反対側(西側)に滋賀県立農事試験場が所在していたことを示すのみで、真向かいにあったことを担保しているものではありません。
結論です。
滋賀県立農事試験場が所在していたのは、現在の住居表示で大津市御殿浜6番ないし11番、うち管理棟所在エリアは同6番及び7番の一部(大津市道南0249号線以西)であると思われます。
匿名
補足です。
粟津中学校内に碑文があったのは、近辺で一番近い公共施設で設置が容易であったこと、中学校ということで、その敷地が中長期にわたって変わらないだろうことからだと思います。
また、碑文には「この旧東海道の向いに広がっていた粟津が原に」とありますが、1892年~1910年地形図を見ると、「粟津が原=粟津松原」と思しき平野は広い範囲に及んでいます。
その一角の農地及び民家を借り入れたと解するのが自然だと思います。
hamagaki
今回もまた、非常に詳細な考察とご教示を賜りまして、誠にありがとうございました。
現地を訪ねた当日には、兵田川(という名前だったんですね!)に沿った道を私もしばらく歩きましたし、旧東海道の曲折も目にしてはいたのですが、その特徴をここまで丁寧に現在の地形と照合することまでは、考えが及びませんでした。
考察の結論に、私も納得いたしました。
結局のところ、「今昔マップ on the web」は、かなり正確だったということですね。
いずれにせよ、粟津中学校の記念碑は、またぜひとも訪ねてみたいと思います。
その節には、「追記」として碑の写真を掲載したいと思っています。
このたびは、私の調査能力不足を、匿名さまとギトンさまの助け船によって補っていただいたおかげで、結果的に全体としては何とかまとまった記事になりました。
お二人には、重ね重ね感謝申し上げます。