3月11日を境に、世の中が変わってしまいました。被災地から離れた西日本にいても、それまで感じていたことや、未来に向けて抱いていたことが、すべて一瞬にして土埃のように消し飛んでしまったかのようです。
まだ茫然とした感覚がどこかで続いていますが、いつまでも手をこまねいているわけにもいきませんので、最近は何か身近なところからできることはないかと、ようやく考えるようになってきました。
そんな中から形をとってきたのですが、来たる4月17日(日)に、京都の「アートステージ567」というイベントスペースにおいて、震災救援のための賢治にちなんだチャリティイベントを、ささやかながら開催できることになりそうです。
具体的なことは、また確定し次第ここに書き込みますので、どうかよろしくお願いいたします。
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さて、今日の記事は「3月24日」という日付けにちなんで・・・。
今から95年前、1916年(大正5年)の3月24日、賢治は盛岡高等農林学校の修学旅行で奈良を訪れ、「奈良県農事試験場」を見学しました(右画像は、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.108より)。
この記述の出典は、盛岡高等農林学校「校友会報」第三十一号(大正5年7月15日発行)に掲載されている「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生菅原俊男が書いている内容によります。菅原による元の記載は、下のとおり。
やがて奈良に着き直に同県立農事試験場を参観した。麦の採種用一粒播麦の豊凶考査試験畿内支場にて交配せる品種試験、大麦品種試験(太政官六角シユバリー等)等は主なる試作であつた而して本県に適せる麦の主なる品種は、チクマ、相州、豊年等である。一般に農家の麦に対する希望は、二毛作及用途の関係上丈短く揃ひ、しかも収穫期の早きものであると。又蔬菜としては、甘藍、みぶな、鹿児島菜等で殊に後の二者は、此の地方に特有なものであると。やがて当場を辞し、夕方で随分寒かつたので、一同急いで対山館に着いた。時に午后六時過ぎ。
ここで「県立農事試験場」と書いてあるのは、当時の正式な名称では「奈良縣農事試験場」ということだったようですが、その住所は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収められている「奈良縣農事試験場要覧」という1903年(明治36年)に刊行された冊子に、「奈良市大字油坂小字宮ノ前」にあったと書かれています。しかし、住所表記法が現在とは異なっているため、正確にどこにあったのかは、これまで少なくとも私にはわかりませんでした。
そうしたところ、先日たまたま「奈良県立図書情報館」のサイトで奈良の古い地図を眺めていたら、「實地踏測 奈良市街全図」という1917年(大正6年)に刊行された地図に、「農事試験場」が記載されているのを見つけました。下図がその一部です。
「農事試験場」は地図の左端、「奈良(三條)停車場」の北西にある四角い敷地です。ちょっと字が小さくなって見にくいですが……。
この「奈良県立農事試験場」があった場所を、「今昔マップ on the web」で現在の地図と対照すると、下のリンクのようになります。
これを現在の地図上にポイントすると、下の赤いマーカーのあたりになります。
ちょうど来月の初めに奈良に行く予定があるので、もし可能ならば現地を見てみたいと思っています。
奈良縣農事試験場全景(『奈良縣農事試験場要覧』より)
奈良縣農事試験場全図(『奈良縣農事試験場要覧』より)
【関連記事】
・奈良における賢治の宿
・「対山楼」のあった場所
NakashoNobuo
ここの所、同時性と言うものに驚かされてばかりです。つい数時間前にこのサイト内の「この日の賢治は?」で3月24日を引いて、ああ先日話題になっていた奈良の農事試験場に来たのは今日だったんだ・・・、っと感慨を持って知ったのでしたが・・・。
mishimahiroshi
1916年(大正5年)は三陸の津波地震からちょうど二十年ですね。
あの時代に、岩手の学生が、はるばる奈良まで修学旅行ができたということ、これこそ復興の証です。
実に素晴らしい企画です。
hamagaki
> NakashoNobuo 様
ご覧いただきまして有り難うございます。
そうですね。私もやはりこの頃とみに、この「同時性・共時性(synchronicity)」ということを感じることがあります。
不思議な一致は、しばし心を躍らせてくれるのですが、最近はツイッターのようにたくさんの人の考えや行動に関する大量の情報が流入してくるようになっているので、それだけ偶然に一致する事象も、高確率で発生するのかと思ったりしていました。(やや無粋な解釈ですが・・・。)
しかし、今回の震災を日本各地の人が共に体験し、心を共有している状態は、人間という生きものの本質に備わる特性ですよね・・・。
> mishimahiroshi 様
あぁ、まさにご指摘のとおりですね。そういう風には見ていませんでした。
この修学旅行は、賢治が20歳になる年。つまり明治三陸大津波の二十周年だったわけですね。
2万2千人の犠牲者を出したという明治の大津波から、岩手は力強く復活していたのですね。