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京都における賢治の宿(2)

 以前に「京都における賢治の宿(1)」という記事で、1921年(大正10年)に賢治が父の政次郎氏と宿泊した「布袋館」という旅館があった場所の現状について、ご報告しました。
『新校本全集』年譜篇p.107-108 今回は、1916年(大正5年)に賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で京都を訪れた時に宿泊したという、旅館「西富家」です。
 右の画像は、『新校本全集』年譜篇のp.107-108に記載されている1916年3月23日の修学旅行生一行の動向で、文章の最後に「三条の旅館西富家に宿泊」として出てきます。この記述の根拠は、大正5年7月発行の盛岡高等農林学校「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生の原勝成が「三月二十三日」の記録として書いた、次の文です。

それより電車に乗して旅館なる西富屋に向つた。時に午后四時半日漸く西山に傾かんとしてゐた。

 「京都における賢治の宿(1)」で取り上げた「布袋館」は、残念ながら現存していないのですが、この「西富家」さんは、嬉しいことに現在も「要庵 西富家」という立派な旅館として営業しておられるのです。
 そこで私としては、ぜひ一度この旅館に宿泊してみたいというのが長年の夢でした。このたび、その念願を果たせましたので、ここにご報告する次第です。

 最初に、旅館の場所を確認しておきます。上の年譜記事では「三条の旅館」とだけ書いてありますが、その詳しい場所を、当時の資料で見てみましょう。

 まず下の画像は、1913年(大正2年)に「交通社出版部」から発行された『帝国旅館全集』という全国の旅館一覧です。

『帝国旅館全集』より

 赤線部分に「西富屋」があり、住所は「同富小路下ル」、すなわち「六角富小路下ル」と記されています。
 次に下の画像は、1926年(大正15年)に「全国同盟旅館協会」が発行した『全国旅館案内』です。

『全国旅館名簿』より

 赤線部分に「西富屋」があり、住所は「同六角南」、すなわち「富小路六角南」となっています。
 京都における地名表示では、南北と東西の通りを座標のように用いて、「下ル」とはそれらの通りの交差点から「南に行く」ということですから、「六角富小路下ル」でも、「富小路六角南」でも、結局は同じ場所を指すことになります。
 ただ、ここでちょっと気になるのは、どちらの資料においても、『新校本全集』年譜篇に書かれている「西富」ではなく、「西富」と旅館名が記されていることです。この問題については、また後述します。

 次に、現在の地図で「六角富小路下ル」を見てみましょう。

 地図の上の方の東西の通りが「六角通」、中央の南北の通りが「富小路通」です。この2つの通りの交点から南へ行くと、赤いマーカーの場所に、現在も「旅館西富家要庵」があります。すなわち、大正時代と同じ「六角富小路下ル」の場所で、現在も変わらず営業しているわけですね。
 間口が狭く奥行きが長いために「鰻の寝床」と呼ばれる、京都の町家らしい敷地です。(上の地図で、右上の[地図+写真]のボタンをクリックして画像を切り替えていただいても、附近の建物の様子が見られて面白いですよ。)

 ところでここの町名は、上の地図にも書かれているように「骨屋之町」というちょっと怖いような名前ですが、これは昔からこのあたりに「扇の骨」を作る職人が多く住んでいたために、こう呼ばれるようになったのだということです。富小路六角から少し東に行ったところには、「宮脇賣扇庵」という有名な京扇子の老舗があります。
 「西富家」がリニューアルした際には、このような「扇の町」の「要」となることを願って、「要庵」という名前を冠したのだそうです。

◇               ◇

 前置きがえらく長くなってしまいましたが、それではいよいよ「要庵 西富家」に入っていきます。まず下の写真は、その門構えです。

要庵西富屋・門構え

要庵西富屋・蛍道 6月ということで、竹籠にあじさいが飾られていますね。

 格子戸から奥の玄関を覗いてみると、右のような感じです。
 細い路地に灯火をを並べたこういったエントランスは、京都では「鰻の寝床」形になった料理屋さんなんかでもよく見られるもので、「蛍道」とも呼ばれます。これはこれで風情のあるもので、歩いて中に入っていく際には、何となくワクワクしてきます。

 玄関を開けて旅館に入ると、まず「桐壺」という名前の部屋に通されて、冷たい「葛切り」に「はったい粉」をまぶしたものを出して下さいました。これをいただきながら、チェックインの手続きをします。

 ところでこの部屋には、下のような年期の入った看板が飾ってありました。

「西富家」看板

 ここは1873年(明治6年)創業ということですから、今年で136年になるという老舗で、これがいつ頃に作られた看板なのかはわかりませんが、これを見るとこの旅館の名称は、やはり昔から「西富」だったようです。『帝国旅館全集』や『全国旅館名簿』に記されていた「西富」の方は間違いで、盛岡高等農林学校「校友会報」や『新校本全集』年譜篇に記されていたのが正しかったようです。

 またこの部屋には、下のような額も掛けられていました。

「西富屋」定価表

 これは、大正10年3月の時点での「定価表」で、「一等」は5円、「二等」は4円、「三等」は3円と記されています。次の行に、「昼飯料は宿泊料の半額以内を申受候」と書いてあることからすると、これは「1泊2食付き」の料金なのでしょう。
 この値段が現在のどのくらいに相当するのか、換算は一律にはできるものではありませんが、例えば「田中貴金属工業」のサイトにある「年次金価格推移」を規準にしてみると、大正6年の金1gが1円36銭、平成20年の金1gが2937円ですから、上のそれぞれの料金に(2937÷1.36)をかけると、「一等」が10798円、「二等」が8638円、「三等」が6479円ということになります。これは、修学旅行生の宿泊代としては、まあ現在に置き換えてみても妥当な線かな、という感じです。
 ただ、現在の5代目主人になられてから、それまでは「修学旅行向け」だった旅館のコンセプトを大きく変えて、9室だけの風雅な懐石旅館にリニューアルされました。これが現在の「要庵 西富家」で、ですから宿泊料金も、上記の換算額よりは高くなっています。

 さて、これらの古い貴重な資料を見ながら「葛切り」をいただくと、私たちが宿泊する部屋に、案内してもらいました。

 「桐壺」の隣には立派なワインセラーがあって、下のようになっていました。ブルゴーニュを中心に揃えておられるとのこと。

ワインセラー

 で、宿泊するお部屋は、下のような感じでした。

西富屋「松風」(1)

西富屋「松風」(2)

 部屋で少しだけくつろいでから、お風呂に入りました。部屋にもすでにお湯の張られた浴室が付いているのですが、旅館の地階にある浴場の方に行きました。浴室内には、丹後地方の職人さんが作られたという可愛らしい人形が、たくさん飾られています。脱衣場には、氷水で冷やされた小さな缶のビールもサービスされていました。

 部屋に戻ってビールを飲みながら、夕食を待ちます。町の真ん中にあるのに、不思議なほどの静けさです。

 さて、お待ちかねの夕食は本格的な懐石料理で、まず先付けの「冬瓜饅頭」から始まりました。冬瓜を柔らかく煮て冷やした中に、海老やその他の小さな具が入っていて、葛で固めてあります。冷たい「だし」も美味しい。

冬瓜饅頭

 次は、「鮑と賀茂茄子の吸物」。賀茂茄子には軽く油が含ませてあって、鮑とともにこくのある味です。

鮑と賀茂茄子の吸物

 お造りは、よこわのたたきと剣先いか。「よこわ」というのは、マグロの幼齢魚の関西地方における呼び名です。この器などは、主人と女将が陶芸家に形や大きさを依頼して、作陶してもらったものだそうです。

よこわのたたきと剣先いかのお造り

 次は「八寸」。最初は、一辺が「八寸」どころかその二回りも大きい豪快な正方形の陶器の皿に、二人分が盛られて運ばれてきました。皿の上には、6月の「夏越しの祓」にちなんだ茅の輪が飾られています。そこから目の前で、今度は可愛らしく一人分ずつを下写真のように取り分けてくれました。
 内容は右から順に、青梅、鯖の棒寿司、瓜、甘藷、蛸の柔らか煮、小芋の衣かつぎ、鱧の肝、鱧の南蛮漬け、ほおづきに入った鶉の卵の黄身の塩漬け。
 どれも小さいけれど、本当に繊細な味なんですよね。

八寸

 次に「うちわかえで」の葉っぱをかぶせて運ばれてきたのは、「雲丹の飯蒸し」。おこわの上に雲丹を載せて蒸してあって、枝豆が取り合わせてあります。おこわに雲丹の香りや旨みが溶け込んで、雲丹もふんだんに盛られて、一緒に食べるとうっとりする味。

雲丹の飯蒸し

 次は、琵琶湖の鮎の塩焼き。まだ柔らかくて、頭から食べられます。蓼酢などつけなくても、鮎そのものの香りが豊潤です。

鮎の塩焼き

 そうそう、先述のようにこの旅館には見事なワインセラーがあって、とりわけブルゴーニュが充実しているのですが、私はどうしてもボルドーの方が好きなので、ポムロールの安いのを一本頼んで料理をいただきながら飲んでいました。すると女将さんがおっしゃるには、ソムリエの田崎真也さんもこの宿に泊まられた時に、「ポムロールを鮎に合わせてはりました」とのことで、なんか恐縮。私はそんなに深く考えてのことではありません。

 さて料理も終わりに近づき、きれいな銅鍋で出てきたのは、「鱧と蓴菜の鍋」。京都で鱧は、来月の祇園祭の季節とセットになった魚ですが、もうその時期も目の前です。蓴菜のとろみとだしが溶け合って、さっと炙って香ばしい鱧によく絡みます。

鱧と蓴菜の鍋

 最後に、ご飯とおつまみが運ばれてきました。ユニークな3×3の9つの区画に分かれた正方形の皿は、やはり特注のものだそうで、茄子や瓜の漬け物、鰻や岩海苔の佃煮、塩辛、たたき牛蒡、その他いろいろなご飯のおかずが、きれいに並んでいます。これぞ「迷い箸」です。また特筆すべきは、釜で炊いてそのまま部屋まで運ばれ、目の前で熱々をよそってもらう「ご飯」の美味しさでした。

ご飯とおつまみ

 デザートは、「水無月豆腐と巨峰のゼリー」。

水無月豆腐と巨峰のゼリー

 とういことで、素晴らしい懐石料理とともに夜が更けました。

◇               ◇

 翌日の朝食は、下のような感じ。

朝食

 飛竜頭の炊いたん、だし巻き、切り干し大根の炊いたん、ひじき、ちりめん山椒、鯛の子など、「京のおばんざい」が並ぶ献立です。前夜の懐石が「ハレ」の料理であるのに対して、朝食は「ケ」の料理という趣向なのだそうです。
 「ケ」などとは言いながら、「だし巻き」などやはり絶品でした。

 以上、なんか料理の紹介ばかりになったような気もしますが、賢治もその昔に宿泊した「西富家」に関する体験レポートでした。
 しかし、賢治たちが泊まった当時とは、全く雰囲気は変わってしまっているのでしょうね。


 今回私たちは、住所は近くのくせにわざわざ泊まりにきたものですから、女将さんに「今日は何かの記念日どすか?」などと尋ねられたりしました。これには、「大正時代に賢治さんが泊まった宿に、自分も一度泊まってみたかったんです」と、正直に告白しました。
 そして『新校本全集』年譜篇の、「三条の西富家」が出てくる箇所は、コピーして女将さんに差し上げてきました。


 なおこの旅館では、宿泊でなく料理だけをいただくこともできます。もちろん要予約ですが、お昼の懐石料理、または夜の懐石料理を、お座敷で楽しめるのです。京都に来られる賢治ファンの方の方にとっては、本格的な京都らしさとともに(気持ちだけ)賢治のゆかりを味わえる、一つの選択肢ではあるかと思います。

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