賢治たち盛岡高等農林学校生の修学旅行の京都における2日目は、御所拝観から始まりました。下記は、校友会報」第三十一号「農学科第二学年修学旅行記」の、菅原俊男による記録です。
三月二十四日晴天 〔京都、奈良〕 菅 原 俊 男
午前九時宿舎を出発し、電車の便を借り御所に向ひ、同三十分一同服装を整へ、紫宸殿より順次拝観を終る。此の間数十分実に感慨無量恐懼措く処を知らなかつた。十時四十分二条離宮を拝観した。・・・
「富小路六角下ル」にある旅館西富家から、「電車の便を借り」て御所に向かうとなると、まず700mほど歩いて、「烏丸三条」の停車場から市電烏丸線に乗り、「烏丸中立売」で降りるということになると思います。降りたところが「中立売御門」で、ここから京都御苑に入ると、紫宸殿などのある御所も目の前です。
現在、紫宸殿や清涼殿などがある御所の内部は、あらかじめ申し込んだ場合か、春と秋の「一般公開」以外では、見ることはできません。下写真は南側の「建礼門」ですが、ふだんはこのように閉ざされています。ちなみに、門の背後に見える大きな屋根が、「紫宸殿」です。
ここの時の体験をもとに賢治が詠んだと推測される短歌が、下記です。紫宸殿というと、「右近の橘、左近の桜」ですね。
256 日はめぐり
幡はかゞやき
紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる
さて、御所を後にすると、一行は「二条離宮」拝観に向かいます。現在は、たいてい「二条城」と呼ばれていますが、戦前はこのように「二条離宮」と言うのが一般的だったようですね。徳川幕府による呼称が「二条城」で、明治維新後は天皇のものになったから、「離宮」ということなのでしょう。考えてみれば、昔の「江戸城」のことを今は「皇居」と呼んでいるのも、同じことです。下写真は、今日の二条城です。
二条城拝観を終えた修学旅行の一団の行程について、菅原俊男君はさらに次のように記録しています。
次で十一時を過ぐる頃七条橋を発し、桃山御陵に参拝、畏敬の念転た禁ずるを得なかつた。後京都府教育会紀伊郡部会学生団体休憩所に小憩し、昼食を済し、府立農事試験場桃山分場を参観した。本場は傾斜地にあつて、全面積は約五町歩、主に園芸に関することを試験して居つた。・・・
「十時四十分二条離宮を拝観し」、「十一時を過ぐる頃七条橋を発し」たというのですから、超過密スケジュールで、これだけの時間で移動するためには、徒歩でなく電車を使わざるをえません。推測される路線は、京都電鉄堀川線の「二条城前」から乗って、「七条西洞院」で七条線に乗り換え、「七条大橋」で下車、というものです。
さらに、「七条橋を発し」というのは、京阪電鉄の「七条」駅(現在は、右写真のように地下駅になっています)から乗車し、「伏見桃山」で下車したのだろうと思われます。
ちなみに、京阪電鉄では、宇治線もすでに営業していましたから、「七条」から「中書島」まで行き、ここで宇治線に乗り換えて「桃山南口」で下車するというルートもありえます。そしてこちらの方が、下車してから桃山御陵まで歩く距離が短いというメリットはあります。(「伏見桃山」から桃山御陵まで1.6kmに対して、「桃山南口」から桃山御陵までは0.6km。)
しかし、京阪宇治線というのは運行本数が少なく、現在でもこちらの方がかえって時間がかかってしまいがちで、京阪本線の「伏見桃山」で降りた可能性の方が高いのではないかと思います。
「伏見桃山」で京阪電車を降りて、ひたすら東の方に歩いていくと、自然に桃山御陵の参道になります。今日は午後から雨でしたので、ほとんど人のいない左写真のような道を、少しずつ上りながら、傘をさして歩くことになりました。
さすがに私などでも、歩くうちに、「だんだんと厳かな場所に近づいて行っている」という雰囲気を、肌に感じてきました。
上のような参道を1km弱ほど行くと、目の前が少し開けたところに出て、そこが明治天皇の陵である「伏見桃山陵」になっていました(下写真)。
墳墓は、「上円下方墳」だということで、奥に見える黒っぽい鏡餅のような形をしたところがそれかと思います。Google map や Google Earth の衛星写真で拡大してみると、「上円下方」である様子がよくわかって興味深いので、よろしければお試し下さい。
桃山御陵に参拝した一行は、次に「京都府教育会紀伊郡部会学生団体休憩所」という、非常に長い名前の休憩所で休み、昼食もとったということですが、これについて『京都府教育会五十年史』(1930)という本を図書館で見てみると、下のような写真が載っていました。
そして本文の「紀伊郡部会」の項には、この休憩所について、次のような説明が書かれていました。
明治大帝の御陵の伏見桃山に御治定せられ大正元年九月十五日御歛葬の事あり庶民の参拝を許さるゝや日々集ひ來る者万を以て数ふ。然るに一二有志者の休息所設置あるのみにて団体並に児童生徒を収容するの設備無なりしかば本部会は御陵下の教育団体として之を坐視するに忍びず、応急策として天幕張の休憩所を便宜の地に設けんとせしに事聞するや破格の恩典を以て御大葬儀奉拝所跡の使用を聴許せらる。こゝに於て役員一同感奮事に従ひ参拝許可の第三日たる九月十九日を以て休憩所を開設したるに参拝せる各学校に於ては頗る之を便とし一日の入場学校数五十余職員生徒一万以上に上りしことあり。参拝期間四十余日に収容せし所実に三千八百校人員三十万人に達せり。
・・・という謂われのある「休憩所」だったということです。
この建物は、もちろん現存はしていないでしょうが、具体的にどこにあったのか、上の写真を持って行って御陵の事務所の方に尋ねてみましたが、今日は休日ということもあって人も少なく、詳細はわかりませんでした。
帰途、「これが跡地では?」と思わせる場所もありましたが、確認はまた後日に譲りたいと思います。
それにしても修学旅行生のこの日は、朝から御所参拝、二条離宮参拝、桃山御陵参拝、という過密日程で、京都にある「美しい日本」を拝ませられる行事が、立て続けという感じです。「大正デモクラシー」と言われた当時でも、また高等教育機関においてさえも、やはり「皇国教育」は浸透していたのですね。
さて、休憩と昼食を済ませた一行は、今度は高等農林学校の修学旅行らしく、「府立農事試験場桃山分場」を見学します。
この施設は、現在の京都教育大学附属桃山中学校と同附属桃山小学校の敷地にあったもので、今も中学校の門の脇には、右のような説明板が設置されています。「明治37年には、府立農業試験場桃山分場が設置され、果樹・蔬菜や草花も試作された」という箇所に、由緒が記されています。
さらにその下に、「後に府立女子師範学校が洛北紫野よりここに移転されたのに伴い試験場は廃止された」とありますが、これは賢治たち一行が見学に来た翌年の、1917年(大正6年)のことでした。1年の違いで、賢治たちは何とか見学ができたわけです。
在りし日の「桃山分場」の様子については、また「京都北山アーカイブズ」の下記のページが、記録写真を載せてくれています。
・京都府立農事試験場桃山分場1
・京都府立農事試験場桃山分場2
・京都府立農事試験場桃山分場3
・京都府立農事試験場桃山分場南圃梨開花ノ状
・京都府立農事試験場桃山分場孟宗筍掘取ノ状
ここを見学し終わると、一行は0.9kmほど歩いて、「桃山」駅から国鉄奈良線に乗り、次の目的地である奈良に向かいました。(下写真は、現在のJR桃山駅)
雲
賢治が京都の御所へ、来られてたなんて、初めて知りました。
感動されたでしょうか。
この近くに、小さな護王神社という神社が、ございます。
祖母が、子どもの頃、御所と護王神社で遊んだことを、話しておりました。
こまいぬさんのように、猪が向かい合っております。
賢治と同い年だから、不思議な気がして。