異空間・異時間の認識

 「銀河鉄道の夜」のプリオシン海岸で、牛の祖先の化石を発掘している大学士とジョバンニは、次のような会話をします。

「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。……」

 ここで大学士は、化石を発掘する目的を、「標本にする」ためではなくて、「証明するに要る」のだと言っています。
 では、何を証明するためなのでしょうか。

 普通に考えると、古生物学者が太古の化石によって証明しようとするのは、昔の生物の体の形態とか、生態とか、現在の類似種との系統関係とか、あるいは当時のその場所の気候や環境などかと思います。しかし、大学士の答えはそうではなくて、「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ」と言うのです。
 何かちょっとわかりにくい理屈ですが、これはいったいどういうことなのでしょうか。

 「風か水やがらんとした空かに見えやしないか」という大学士の言葉は、銀河鉄道に乗る前にジョバンニが天気輪の丘に寝ころんで夜空を眺めた際の、「ところがいくら見てゐても、そのそらはひる先生の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした」に対応するものでしょう。ジョバンニにとっては「それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかった」のです。
 しかしジョバンニの学校の先生は、ぼんやり白く見える天の川が「ほんたうは何か」と生徒たちに問いかけた上で、その川底の砂は一つ一つが星だと言い、川の水にあたるのは、「真空といふ光をある速さで伝へるもの」だと説明しました。
 それは、科学的にはそうなのかもしれませんが、しかし一人で夜空を見上げるジョバンニには、そこは「真空=がらんとした冷たいとこ」とは思えなかったのです。

 ところで、ある人には何もない空間にしか見えない場所が、またある人には「立派な地層」に見えたり「林や牧場やらある野原」に見えたりするということがあるとすれば、それはいったいどういう現象でしょうか。
 上のジョバンニの感覚は、子供にはよくある「空想」にすぎないかもしれませんが、化石を発掘する大学士の方は、自分の見ているものに対して確信的です。そして、科学的手法によって自らの見解を立証することに、余念がありません。
 実は賢治という人も、他の人には見えない物が見えるという体験をしばしばしていたようで、いろいろなところに記されています。「小岩井農場」では、農場の路上で瓔珞をかけた天の童子たちの行進を見たり、また同僚教師の回想録によれば、田んぼの中で餓鬼たちの声を聞いたりもしていました。

 このように、「他の人には感じられない物が見えたり聞こえたりする」現象は、客観的には「幻覚」ということになりますが、賢治はそのような自分の体験は、気の迷いや錯覚などではなくて、仏教的な異界=天界や餓鬼界の出来事が、私たちの世界との間を隔てる境界を越えて、漏れ伝わってきたものだと解釈していました。それらの対象は、我々がいるこの空間には存在しないかもしれないが、また別の空間=異空間には確かに実在し、世に言う「幻覚」とはそのような事物の認識だと、考えていたのです。

思索メモ1

 そして賢治は、そういう仏教的な「異空間」が実在するということを、科学的に「証明」できるのではないかと考え、心理学的な研究に期待していたふしもあります(森佐一あて書簡200など)。右の画像は、「思索メモ1」と呼ばれる覚え書きですが、「一、異空間の実在 天と餓鬼、/幻想及夢と実在、」「二、菩薩佛並に諸他八界依正の実在/内省及実行による証明」などと記されており、そのような構想の一端を示すものと考えられます。
 一方、プリオシン海岸の大学士は、地質学的な手法によって、やはり「ぼくらとちがったやつ」には見えない物が実在していることを、証明しようとしているらしいのです。たとえがらんとした空虚にしか見えなくても、その場所から化石が取り出されたら、そこに何かが存在する証拠になるということでしょうか。

 ただここまで考えてきて、あらためて不思議な感じがするのは、先にも書いたように、普通は地質学や化石によって証明されるのは、「異空間」の出来事ではなくて、時間的にはるか昔の出来事であり、「今ではない別の時間の事」という意味では、「異時間」の出来事です。思えば「地層」というものは、遠い過去から長い時間をかけて積み重なった物質が、今の我々の目に見える形にきれいに配列されたもので、それは「異時間の標本」とも言える存在です。
 すなわち、この大学士がしようとしていることは、通常は過去の出来事という時間的な問題の究明に用いられる方法によって、物がある場所に存在するのか否かという空間的な問題を証明しようとしているわけで、「時間」と「空間」が入れ替わっているように思われるのです。

 「異時間」とはおかしな造語ですが、天界や餓鬼界など賢治の言う「異空間」とは、たとえば天ならばこの世の上方数万由旬(1由旬=7km?)という超高層にあり、餓鬼のいる閻魔界ならば地下500由旬というはるか下方にあって(『往生要集』などによる)、空間的にはこの世界とつながっているにせよ、我々には到達できない遠方であり、事実上は隔絶された「異質な空間」と言えます。
 同様に、化石になるような地質学的な過去は、今から百万年前~数億年前という遠い昔で、時間的には現在とつながっているにせよ、我々の生活時間のスケールを越えた彼方にあり、実質的に今この時とは「異質な時間」と言うことができるでしょう。

 「銀河鉄道の夜」のこの部分が、なぜこういう作りになっているのかは不思議ですが、賢治はここで時間と空間をアナロジー的に扱い、地質学的・時間的な領域の事柄を、幻覚的・空間的な事柄に、つなげようとしているのかもしれません。
 彼は『春と修羅』の「」でも、次のように言っています。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここでも賢治は、「風景や人物」を感じるという空間的な認識と、「記録や歴史、あるひは地史」に収められている時間的な認識とを、アナロジーとして扱っています。
 「」の最後で彼は、

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

と述べますが、空間と時間を四次元の連続体として一括し扱う相対性理論の世界観を、「銀河鉄道の夜」のこの箇所にも、盛り込もうとしたのかもしれません。

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入沢康夫『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』