賢治は日蓮主義者だったのか(2)

 先日は「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」という記事において、賢治はいったい田中智学や日蓮主義の思想のどこに惹かれて、他ならぬ国柱会に入ったのだろうかという疑問について考えようとしました。いちおう考えてはみたのですが、田中智学の独特の主張に賢治が共感していたことを示す証拠はどうしても見つけられず、それは依然として謎のままでしたし、むしろ賢治は、智学の思想内容に感銘を受けて入会したというような、「内的」な動機によったのではなく、たまたま彼が求めていた時にそれが目の前に強力な「乗り物」のように現れたので、是非もなくそれに跳び乗ったというような、「外的」な要因によったのではないか、などと考えてもみました。
 しかしその後、前回の考察にはちょっと見落としがあったのではないかという気が何となくしてきて、今回もう一度取り上げてみようと思います。見落としというのは、次のような事柄です。

 現代の私たちの頭の中には、法華経や日蓮の思想の根幹は、「積極的な行動の重視」にあり、また行動を通じての「現実変革への志向」にあるというような理解があります。それはたとえば、先日「四つの「行ッテ」と地涌の四菩薩」という記事にも書いたように、「法華経を実践すること・行動することへの賢治の強い思いが、「行ッテ」という言葉に込められている」という宮澤和樹さんの言葉や、「地涌の四菩薩の名前に入っている「行」の字は、「行ないこそが大事だ」という法華経の思想を表している」という植木雅俊さんの解釈にも表れています。
 しかしそのような理解は、田中智学が明治中期に日蓮宗の「宗門之維新」を掲げて宗教界に登場した時点では、まだ一般的ではなかったと思われます。

 大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか』によれば、明治時代の日連系の宗派においては、近世日蓮教学の大成者であり「明治日蓮教学の鼻祖」と呼ばれた、優陀那院日輝の教学が主流を成していました。この日輝の教えは、相手を教化するにあたって、「折伏」(対決的姿勢で相手を論破し説き伏せること)よりも「摂受」(受容的姿勢で優しく相手を説き諭すこと)を重視し、「折退摂進論」と呼ばれていました。
 歴史的に振り返ると、日蓮自身は「邪智謗法の者多き時は折伏を前とす」(「開目抄」)と述べて、末法の時代においては「折伏」を優先すべきだと考えていました。自らも、他宗派には対決的な姿勢で臨み、鎌倉の執権にも真っ向から意見を述べたことは、周知のとおりです。
 このような非妥協的・原理主義的な信仰態度は、日蓮没後の後継教団でも、ある時期まではかなり維持されていました。最も原則的な姿勢を掲げていた「日蓮宗不受不施派」という一派も、江戸時代の初頭まではそれなりの勢力を保っていたようですが、徳川幕府による苛酷な弾圧によって非合法化された結果、表の世界からは姿を消してしまいます。私は以前、賢治の足跡を訪ねて伊豆大島に行った際に、ふと通りかかったお寺の一角に、江戸初期に流罪にされこの地で亡くなった不受不施派の僧侶たちの墓碑がひっそりと立ち並んでいる様子を見て、強い印象を受けました。
 江戸時代には、こういった厳格な宗教政策によって全ての宗派は牙を抜かれてしまい、さらに明治維新に伴う廃仏毀釈の嵐によって、仏教界は萎縮してしまったわけですから、いくら恐れを知らぬ日連を継承する宗派とは言え、明治のある時期まで穏健路線を取っていたのは、無理からぬことと言えるでしょう。

 そこに、「祖師に還る」というスローガンを掲げて、田中智学が「立正安国会」を設立したのが、1884年(明治17年)でした。智学は、それまでの「摂受」重視の既成日蓮教団に真っ向から異を唱え、「折伏」重視を打ち出します。

 日輝は摂受を重視する「折退摂進」論を採ったのにたいして、智学は「超悉壇[大谷註:悉壇とはサンスクリットのsiddhantaの音訳で、教説の立てかたの意]の折伏」にもとづく「行門の折伏」(実行的折伏)を強調した。折伏が祖師・日蓮の根本的立場であると捉え、それへの復古的な回帰を唱えたのである。この折伏重視の立場性こそが、智学生涯の思想と運動を貫く通奏低音であり、政府にたいする「諌暁」(いわゆる国家諌暁)もこの折伏の精神にもとづく。(大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』より)

 「折伏主義」に象徴されるような、智学の能動的・主体的・積極的・行動的で明確な態度は、高山樗牛をはじめ当時の知識人たちの心を捉え、彼は一躍時代の寵児となっていきます。1914年(大正3年)には、静岡県三保に「最勝閣」と名づけた豪勢な本部を建築し、名称も「国柱会」と改め、1918年(大正7年)には、東京上野の鶯谷に500坪の敷地の「国柱会館」が落成します。

 賢治が国柱会に入会した1920年(大正9年)とは、このような時代だったわけです。浄土真宗の清沢満之が唱えた「精神主義」が、「自家の精神内に充足を求むるものなり」と標榜したのに対し、田中智学および日蓮主義の特徴は、能動的・主体的・積極的な「行動主義」とも言えると思いますが、教義の内容というよりもこのようにアクティブな形態こそが、父親や「イエ」の束縛からの脱出を求めていた賢治を、強く惹きつけたのではないでしょうか。

 戦後に生まれ育った私たちは、たとえば創価学会による「折伏大行進」と名づけられた大規模で精力的な布教・勧誘活動をよく知っていますので、こういうエネルギッシュな体質は、法華経や日蓮の教えにもともと内包されているものなのだろうと、何となく思っています。そして、それは確かにそうなのでしょうが、近代において法華経や日蓮のそのような性質に再び光が当てられ、人々が知ることになるためには、田中智学の登場を待たなければなりませんでした。近世から明治中期までの日連系教団の教えは、実はそうではなく穏便なものだったのだということを、ここにあらためて認識しておく必要はあるのかと思います。

 大正時代の賢治にとっては、当時の宗教界において田中智学ほどの力で人を鼓舞し、法華経や日蓮の行動的側面を宣揚してくれた人はなかったわけで、そのような積極性への感銘が、彼を国柱会員にしたのではないでしょうか。
 前回の「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」では、田中智学や日蓮主義のオリジナルな思想にばかり注目して検討していたので、今や当たり前と感じてしまうこの側面については意識していませんでしたが、当時の賢治にとっては、また違って見えていたのだろうと思います。