未完成霊の舞い

 日本人が古くから死者や霊魂についてどのように考え、受けとめてきたかということに関して、「民俗学」という学問は明治以来こつこつと探究を続けていたわけですが、しかし時まさにすべての日本人が、第二次世界大戦という未曾有の惨禍と厖大な死者に直面するに際して、民俗学者もそのような時代的な使命を帯びた思索を、自ずと展開することになりました。
 柳田國男においては、それは連日の空襲警報下で書き継がれ1946年に刊行された『先祖の話』でしたし、折口信夫の場合は、死の前年にあたる1952年に発表した「民族史観における他界観念」という論文が、それに相当するでしょう。折口の「遺言」とも言われるこの論稿は、日本人の他界観一般を扱ってはいますが、とりわけここで彼は、若くしてあるいは思いを残したままに亡くなった者たちの、「未完成の霊魂」という存在に対して、執拗に思いを巡らせます。林浩平著『折口信夫 霊性の思索者』の表現を借りれば、「先の戦争で生まれた何百万もの死者たちが、無数の「未完成の霊魂」として人界を彷徨うのが折口にはたまらく辛いこと」だったのです。

 折口信夫によれば、人間が充実した生を送り、円満な死を迎えられた場合には、その魂は「完成した霊魂」として、「他界=常世」に至ることができますが、そうではなかった場合、死後には「未完成の霊魂」が残されます。折口は、日本のアニミズムの根源に、そのような未完成霊の存在があると考えました。

日本におけるあにみずむは、単純な庶物信仰ではなかつた。庶物の精霊の信仰に到達する前に、完成しない側の霊魂に考へられた次期の姿であつたものと思はれる。植物なり岩石なりが、他界の姿なのである。だが他界身と言ふことの出来ぬほど、人界近くに固著し、残留してゐるのは、完全に他界に居ることの出来ぬ未完成の霊魂なるが故である。つまり、霊化しても、移動することの出来ぬ地物、或は其に近いものになつてゐる為に、将来他界身を完成することを約せられた人間を憎み妨げるのである。此が、人間に禍ひするでもんすぴりっとに関する諸種信仰の出発点だと思はれる。未完成の霊は、後来の考へ方で言ふ成仏せぬ霊と同じやうに、祟りするものと言つた性質を持つてゐる。

 「未完成霊」なるものが、このように人間を憎み妨げ祟りをするとなると、それは我々にとっては厄介なものですが、実はこの事態は、生きている人間の責任でもあるのです。折口はさらに続けて、未完成霊を大量に一挙に生み出してしまう、戦争という事態に言及します。

御霊の類裔の激増する時機が到来した。戦争である。戦場で一時に、多数の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言ふべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるやうになつた。さうして、御霊信仰は、内容も様式も変つて来た。戦死人の妄執を表現するのが、主として念仏踊りであつて、亡霊自ら動作をするものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。戦場跡で行ふものは、字義通りの念仏踊りらしく感じるが、近代地方辺鄙のものは、大抵盂蘭盆会に、列を組んで村に現れる。

 すなわち折口は、未完成霊を扱う宗教的・芸能的行事として、「念仏踊り」というものに注目するのです。さらに続けて折口は述べます。

念仏踊りは、大体二通りあつて、中には盆踊り化する途に立つてゐるものがある。だが其何れが古いか新しいかではなく、念仏踊りの中に、色々な姿で、祖霊・未成霊・無縁霊の信仰が現れてゐることを知る。墓山から練り出して来るのは、祖先聖霊が、子孫の村に出現する形で、他界神の来訪の印象を、やはりはつきりと留めてゐる。行道の賑かな列を組んで来るのは、他界神に多くの伴神== 小他界神== が従つてゐる形として遣つた祖先聖霊の眷属であり、同時に又未成霊の姿をも示してゐる。而も全体を通じて見ると、野山に充ちて無縁亡霊が、群来する様にも思へるのは、其姿の中に、古い信仰の印象が、復元しようとして来る訣なのである。一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものゝ意義から言へば、無縁亡霊を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行はれる修練行だと言へぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊り)の中心となるものに二つあつて、才芸(音頭)又は新発意シンポチと言ふ名で表してゐる。新発意は先達センダチの指導を受ける後達ゴタチの代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。こゝで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰が、かう言ふ形で示されてゐるのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛へあげられることに当る。其故にこれは、宗教行事であると共に、芸能演技である。拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである。

 以上、折口信夫の「民族史観における他界観念」から長々と引用させていただきましたが、私が「念仏踊り」に関するこの折口の考察から、どうしても連想せざるをえないのは、賢治の詩「原体剣舞連」なのです。

 岩手県各地に伝わる「剣舞」は、様々な「念仏踊り」の中の一つの形態ですが、特にこの原体地区に伝わる剣舞は、12歳までの少年や少女たちによって舞われる「稚児剣舞」であることが、この舞いの主体が「未成霊」であることを、明瞭に示してくれていると思います。
 さらに、中路正恒氏の「「ひとつのいのち」考」によれば、この原体剣舞あるいはその伝承元である増沢剣舞の由来は、「奥州平泉初代の藤原清衡が、豊田館(江刺市岩谷堂下苗代沢字餅田)に在ったとき、藤原家衡の襲撃を受け、一族郎党皆殺しの目にあい、清衡のみが逃れ」たという事件を契機に、後に清衡がその時に殺された者たちの供養として行い、「特に亡き妻と子の怨霊供養を厚くするために」稚児と女子に演じさせたということです。つまりこれは、まさに戦争による亡霊を弔うために戦場跡で行われるところの、折口の言う「字義通りの念仏踊り」に相当するわけです。

 折口信夫が念仏踊りの中に、成熟した「先達センダチ」が若い「後達ゴタチ」を指導鍛錬し、未完成の若者が労働訓練によって完成されていくという力動を見るように、賢治も「原体剣舞連」において、一方には厳しい「アルペン農」に打ち込む若者=気圏の戦士たちと、他方には「敬虔に年を重ねた師父たち」の両者を見据えているところも、興味深いです。

ときいろのはるの樹液じゆえき
アルペン農の辛酸しんさんに投げ
せいしののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮まだかはと縄とをまとふ
気圏の戦士わがともたちよ
青らみわたる顥気かうきをふかみ
楢とぶなとのうれひをあつめ
蛇紋山地じやもんさんちかがりをかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚きふを腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸にあら
月月つきづきに日光と風とを焦慮し
敬虔に年をかさねた師父しふたちよ

 折口が、若者の霊的な鍛錬と芸能的なそれとを重ね合わせていたように、賢治は農業労働と剣舞という芸能をオーバーラップさせており、これは後の「農民芸術概論」にも通じるように思います。

 このように、折口信夫は日本古来の他界観にこの「未完成霊」という考え方を導入することによって、木や石にも霊が宿るという日本的アニミズムを理解したわけです。未完成→完成という霊魂の階梯は、仏教における「成仏」という考え方とも似ていますから、両者の習合も容易に起こりえたというわけでしょう。

近代では、念仏信仰が合理解釈を与へて、「無縁亡霊」なるものを成立させた。これは、昔からあつた未完成霊を、さやうに解し、さやうに処置したのであつた。考へてみると、此翻訳は、必しも妥当であつたとは言はれない。無縁と言ひながら、全く縁者を失うたものばかりではなく、祀られぬ霊を言ふ部分もあつた。こゝに祖先霊魂の一部なることを示してゐるものと見てよい。其と、木霊・石霊とは、自ら大いなる区別があつたのである。祖先霊魂と生活体なる我々との間に、無縁亡霊を置いて、中間の存在のあることを示してゐた。

 ここで折口は、未完成霊の一つのタイプとして、「木霊」「石霊」などを挙げているわけですが、これを読むと私としては、賢治の劇「種山ヶ原の夜」に、柏の木や楢の木の霊や雷神が出てきたことを思い起こさずにはいられません。
 私は以前に、「祀られざる神・名を録した神(2)」という記事において、「産業組合青年会」という詩に出てくる「祀られざるも神には神の神土がある」という謎のような一節の「祀られざる神」とは、賢治が「種山ヶ原の夜」の劇の中に登場させた、これらの霊や神のことを指しているのではないかと考えました。これらの樹木霊は、折口信夫の分類によれば、確かに「未完成霊=祀られぬ霊」に相当します。
 そして、折口がこれらの未完成霊は人間に禍をもたらすと言った言葉のとおり、「種山ヶ原の夜」を上演した翌日に、雷神を演じた生徒は足を怪我してしまったのです。これについは「産業組合のトラウマ?」という記事に書きましたが、賢治はこの生徒の怪我を偶然の出来事とは考えず、劇で舞台に上げた鬼神が「仇を返した」のだと解釈し、「あまりよい神様ではなく、相当下等」となどと表現していました。

 このような存在のことを、折口信夫も「祀られぬ霊」と言っていたわけで、この霊魂観は「産業組合青年会」という詩に対する私の解釈にも支持を与えてくれているように思うのですが、さらに劇「種山ヶ原の夜」の内容を見ると、もう一つ面白い符号があります。
 劇の中では、樹木霊たちが農夫の伊藤に対して、「剣舞踊れ」と要求するのです。下の場面では、伊藤が木の霊たちに、笹戸の長嶺のあたりが払い下げになるかどうか教えてくれと頼むのに対し、樹木霊たちは剣舞を交換条件に持ち出します。

柏木霊「そだら教へらはて、一つ剣舞踊れ。」
伊藤「わがなぃぢゃ、剣もなぃし。」
「そだらうだれ。」
「どごや。」
「夜風のどごよ。」
伊藤歌ふ、(途中でやめる)
「教へろ」
「わがなぃぢゃ、お経までもやらなぃでで。」

 「剣舞踊れ」という樹木霊たちの要求に対し、伊藤は「剣もないし」といったん断りますが、樹木霊は「それなら歌ってくれ」と重ねて求め、どこを歌うのかと聞いた伊藤に、「夜風のどごよ」と答えています。「夜風のどご」とは、詩「原体剣舞連」の下記の部分ですね。

夜風よかぜとどろきひのきはみだれ
月はそそぐ銀の矢並
打つもてるも火花のいのち
太刀のきしりの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻いなづま萓穂かやぼのさやぎ
獅子の星座せいざに散る火の雨の
消えてあとないあまのがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 賢治が曲も付けて、「剣舞の歌」として歌っていたという部分で、劇中でもこの旋律で歌われたのでしょう。「銀河鉄道の夜」の中に「星めぐりの歌」が出てくるように、賢治の作品の内容について彼の別の作品の登場人物が言及するいう設定が面白いです。

 ということで、伊藤はおそらくこの「剣舞の歌」を歌い始めるのですが、途中でやめてしまってまた払い下げの件を「教えろ」と言うので、樹木霊は「だめだ、お経までもやらないでいて」と拒みます。
 この一連のやり取りは興味深いことに、「念仏踊り」を通して「未完成霊」が「完成霊」になっていくという折口信夫の指摘をまさに証拠立てるように、樹木霊たちは剣舞の踊りを見たり歌を聞くことを願っており、とりわけその「お経」の部分を求めている様子なのです。ここで樹木霊たちは、剣舞の御利益によって、「他界に往生できるような完成霊になること」を求めているようにさえ思えます。

 すなわち、この部分における「祀られぬ霊」と剣舞(念仏踊り)の描写も、まるで折口信夫の理論を先取りしているように私には感じられて、興味深かったのです。

 さて、詩「原体剣舞連」の根底に流れる基調が、「命のはかなさと美しさ」であるということは多くの人の認めるところでしょう。鉦や太鼓のリズムとともに踊りが昂揚していき、最後に上記引用部の「剣舞の歌」に至って、それは頂点に達します。
 私が以前に、「大内義隆の辞世」という記事で書いたのも、「打つも果てるも火花のいのち」という一節などに特に表れた、この「命のはかなさ」という主題に関することでしたし、また森荘已池『宮沢賢治の肖像』によれば、賢治の父政次郎も、賢治がこの詩を朗読するのを聞いて、「これは、物のいのちのハカナサを書いたものだナ」と言って、とても褒めたということです(同書p.228)。

 賢治がこの詩を書く契機となったのは、1917年に地質調査の際に剣舞を見た体験にあり、それは「歌稿〔A〕」の「上伊手剣舞連」と題された4首、 「原体剣舞連」と題された2首、そして同年10月17日発行の『アザリア第三号』に掲載された「原体剣舞連」と題された3首に記録されています。
 しかしここで注意しておくべきは、当時のこれらの短歌には、「命のはかなさ」というモチーフは詠み込まれていなかったということです。

 つまり、賢治が1922年8月に5年前の原体村における体験を、口語詩「原体剣舞連」として作品化した際に、この「命のはかなさ」という主題は新たに付け加えられたものだということになりますが、私は「大内義隆の辞世」という記事を書きながら、いったい何故この時点でこういう‘modify’が行われたのかと、ちょっと不思議に感じていました。
 原体村に伝わる剣舞が「命のはかなさ」を象徴しているとすれば、その一つの要因は、剣舞が実はその昔に若くして殺された少年たちの鎮魂をテーマとしていたということにあるでしょう。賢治自身は、この詩では「悪路王=アテルイ」の征伐を象徴する踊りとして描いていますから、これと藤原清衡の一族の悲劇との関連は知らなかったでしょうが、たとえ討たれる者が悪路王だったとしても、彼はやはりそこに失われる命の刹那性を感じ、折口の言葉を借りれば「拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである」という境地で、恍惚として剣舞に見とれていたことでしょう。

 しかし私としては、ここにあともう一つ、賢治がこの「原体剣舞連」を書いた1922年8月に、とりわけ「命のはかなさ」を感じていただろう事情として考えておきたいことがあります。それは、この頃にはトシの死は3か月先に迫っており、賢治にとってもう妹の命のはかなさは、逃れられない現実として目の前に立ち塞がっていたということです。同じ8月に彼は「イギリス海岸」という作品に、「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐた」という言葉を書きつけていたことも、思い起こされます(「死ぬことの向ふ側まで」参照)。
 すなわち、トシがこのまま結婚できずに夭逝したならば、折口の説に従えばやはり「未完成霊」となって野山を彷徨うことになるという、そういう状況に賢治は置かれていたわけです。

 まさにそういう時期において、賢治は5年前に見た稚児剣舞に込められた「命のはかなさ」を、思わずにいられなかったのではないかと考えたりしています。