大内義隆(1507-1551,右画像は Wikimedia Commons より)は、室町時代に周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前の守護を務めていた、全国的にも屈指の有力大名でした。
1528年に、父義興の死により家督を相続した義隆は、九州に出兵して北九州地方を平定し、さらに朝廷に働きかけて「大宰大弐」に叙せられました。これによって大内氏は、大陸との貿易の利権を一手に掌握し、明や朝鮮に対しては「日本国王之印」という通信符を使用していたということです。大陸との交易や、石見銀山の銀採掘で得た莫大な富を背景として、山口には「大内文化」と呼ばれる高度な文化が栄え、一時は戦乱で荒廃した京都を凌ぐとも言われました。
しかし義隆は、その後半生においては、隣国の尼子氏との合戦で養嗣子の晴持を失ったことを契機に、政治的・領土的野心を喪失し、以後は学問や仏教を重んじ、和歌や連歌、芸能等の公家文化に親しむなど、専ら「文治政治」に傾いていきました。このため、家臣団のうちでも武断派と呼ばれる一派との関係が、徐々に険悪化していきます。ついに1551年、重臣の陶隆房が謀反の兵を挙げ、山口の大内館を襲われた義隆は、長門深川の大寧寺に追い詰められて、そこで一族とともに自刃して果てたのです(大寧寺の変)。
この時に、大内義隆が詠んだ辞世の歌というのが、後世にまで語り継がれています。
討 つ人も討 るゝ人も諸共 に
如露亦如電 応作如是観
下の句の漢文は、『金剛般若経』の一節で、「露のごとく、またいなづまのごとし。まさにかくのごとき観をなすべし。」などと読み下すそうです。
歌全体の意味としては、討つ人(陶隆房)も討たれる人(自分)も、ともにその命は、露のようにまた電光のようにはかないものである、しっかりそう心得ておかねばならない、というような感じでしょうか。ちなみに、ここで勝者となって中国地方西部~北九州の実権を掌握した陶隆房は、そのわずか4年後に、この地域の次の覇者となる毛利元就と戦って敗れ、自害に追い込まれました。まさに「討つ人」の運命も、あっけなかったのです。
ところで、私はこの辞世の歌を読んだ時、思わず賢治の「原体剣舞連」の、次の一節を連想しました。
打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
何となく似ていますよね。
いずれにおいても、戦いに勝つ者も負ける者も、その命はどちらも非常にはかないものだと歌い、そのはかなさを義隆は『金剛般若経』を引用して「露」と「電光(稲妻)」に比しているのに対し、賢治は「火花」あるいは「太刀の軋り」に喩えています。
さらに、「原体剣舞連」のこの少し後には、
太刀は稲妻萓穂のさやぎ
という言葉もあり、ここでは先の「太刀の軋り」の「火花」は、「稲妻」に擬されていますから、まさに大内義隆の歌とつながります。
ということで、私が想像したのは、賢治の「原体剣舞連」の発想の奥には、この大内義隆の辞世の歌のイメージが、何らかの形で関わっていたのではないか……ということです。
賢治の時代において、この大内義隆の辞世の歌が掲載されている本としては、国会図書館デジタルライブラリーでインターネット公開されている範囲で調べると、次のようなものがありました。
- 嗚呼古英雄: 池元半之助 著. 文禄堂, 明治32(1899)
- 古英雄と宗教: 浜口恵璋 著. 文明堂, 明治34(1901)
- 逸話文庫 通俗教育 武士の巻: 通俗教育研究会 編. 大倉書店, 明治44(1911)
- 日本史蹟文庫 群雄の争乱: 妹尾薇谷 著. 岡田文祥堂, 大正2(1913)
- 禅と英雄: 秋山悟庵 著. 中央書院, 大正3年(1914)
- 遺言: 大谷霊泉 編. 洛陽堂, 大正8(1919)
すなわち、明治の終わりから大正にかけて、大内義隆の辞世の歌はかなり広く取り上げられていたように思われますので、もしも賢治がこのような本を読んだり、その内容を耳にしたりしていたら、記憶に残っていた何かが、後に「原体剣舞連」に反映した可能性もあるのではないかと、思った次第です。
ガハク
よく調べましたね。というか大内氏の辞世まで読んだりするのか〜う〜ん…そしてそこに賢治との結びつきを見る…まるで始めから分かってたみたいですねw
hamagaki
ガハク様、こんにちは。
今年もよろしくお願い申し上げます。
今回の話は、本当にたまたまの遭遇なのですが、賢治とは直接関係のない本を読んでいたら、そこに大内義隆の辞世が引用されていて、これが何となく賢治の「原体剣舞連」の一節を連想させたので、調べてみたという次第です。
もちろん、はじめからわかっていたわけではありません。
ただ、昨日いろいろ調べてみると、この歌は本当に大内義隆が死の前に詠んだわけではなくて、後世の作り話という可能性が高そうな感じです。
義隆の死後早い時期に作られた『大内義隆記』という書物にはこの歌は載っておらず、江戸時代初期になって書かれた『後太平記』という、やや信頼度の低い軍記物語には、登場してきています。
しかし、明治から大正時代には、これは結構有名になっていたようで、上に挙げたようにいろんな本に引用されていますので、賢治が知っていた可能性もあるかもしれないと思いました。
luna
勉強になりました。日本の歴史も文学も美しいね。
hamagaki
luna さま、お読みいただいてありがとうございます。
そうですね、何か凄絶な美しさも感じられますね。