1921年12月に農学校教諭となった賢治は、保阪嘉内あての手紙にも「芝居やをどりを主張して居りまする」と書いていますが、翌1922年9月に生徒たちによる劇「飢餓陣営」を、1923年5月の花巻農学校開校式には「植物医師」「飢餓陣営」を自らの演出で上演し、さらに1924年には、8月10日~11日の2日間にわたって、「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」の4本立て公演を行いました(右写真は賢治自作の招待券)。
当日は8月10日だけでも約300名の観客を集め、11日には賢治自身の家族や友人も招待して、大好評のうちに幕を閉じました。公演終了後に賢治と生徒たちは、用いた舞台道具をすべて校庭に持ち出して火を付け、炎のまわりで一緒に狂喜乱舞した、ということです。
ところが、その後まもない9月3日に、当時の岡田良平文部大臣は、学校での演劇上演は「質実剛健の気風に反する」として、事実上の「学校劇禁止訓令」を出したのです。
このことが賢治に与えたショックは、はかりしれないものでした。「秋と負債」(9月16日)という作品には「ポランの広場の夏の祭の負債」をかかえて茫然と立ちつくす作者の姿が描かれ、「〔南のはてが〕」(10月2日)、「昏い秋」(10月4日)など、これ以後の作品には悲観的で憂鬱な気分が持続します。学校で劇を上演できなくなったことが、1年半後に農学校を退職する要因の一つとして関係があるのではないかとも言われるほどです。
「産業組合青年会」「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」という作品がスケッチされた1924年10月5日というのは、前後関係からしてこのような時期だったのです。そして、先日触れたように、ここで後者の下書稿(一)の推敲過程において、「山地の〔神〕〔?〕を/舞台の上に/うつしたために」という字句が現れたのです。
この「山地の〔神〕〔?〕を舞台の上にうつした」というのは、約2ヵ月前に上演された劇「種山ヶ原の夜」において、「楢樹霊」「樺樹霊」「柏樹霊」「雷神」という神々を舞台の上で生徒たちが滑稽に演じたことを指しているのではないかと、私は思うのです。劇の中では、樹霊が「天の岩戸の夜は明げで 日天そらにいでませば 天津神 国津神 穂を出す草は出し急ぎ 花咲ぐ草は咲ぎ急ぐ」などという変わった「神楽」を歌ったりもします。
この10月5日、何らかの会合に呼ばれて講演を行った賢治は、終了後の懇談の中で、8月に生徒が演じた劇で「神」を戯画化してユーモラスに登場させたことを、不謹慎だとして出席者から批判されたのではないでしょうか。
「祀られざるも神には神の身土がある」とは、「樹霊や雷神などというのは神社に祭祀されているわけではないが、それでも「神」としての身分と本来おわすべき場所があるのだから、それを学校の舞台に上げて笑いの対象にするなど、許しがたい冒涜だ」、という趣旨の発言だったのではないでしょうか。また、「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とは、このように賢治が神々の名を学校劇の台本に書いて演じてしまったために、それを周囲から批判されて苦しんでいる、ということなのではないでしょうか。
会合は、花巻から少し離れた日詰あたりで行われたようですから、この時の参加者に農学校の劇公演を見ていた人があったとすると、それは生徒の父兄だったのではないかと思われます。また、そのようなコネがあったことで、この日の会合に賢治が招かれたという経緯なのかもしれません。
いずれにしても、前月の「学校劇禁止令」によって落ち込んでいた賢治にとって、この日またこのように批判されたとすると、それはまさに「弱り目にたたり目」だったでしょうし、劇の内容には自信を持っていたであろう賢治にとっては、その自負をも傷つけるものだったでしょう。
じつは私はこれまで、「祀られざるも神には神の身土がある」とか「神々の名を録したことから はげしく寒くふるえてゐる」という言葉には、もっと深遠で複雑な意味があるのではないかと思っていました。それをこのように解釈してしまうと、何か即物的であっけないような感じもしてしまいます。
しかし、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の中に「業の花びら」という言葉が現れ、一時はそれを題名ともしていたことは、賢治自身おのれがこのように「神々の名」さえ「録して」しまうことを、芸術的創作にたずさわる者の「業」として自覚し慨嘆する思いがあったのかもしれません。
avarokitei
上記ブログでこの詩を読もうとしています。分からないことだらけです。あなたの鋭い分析、解釈にびっくりしました。凄い興味ある読み方だと思います。賢治は芸術を、宗教的な行為とみなしていたようですし、羅須地人協会後も、自分でも苦悩しながら、チェロ等の修得に励んでいます。父宛の手紙でその理由を述べています。「春と修羅」「農民芸術概論」とこの手紙には、首尾一貫性を見て取れます。賢治は、目指す理想と実践時の現実とのギャップを正面から受け止めていたようですが、会合で耳にした一つの批判で、「業」と感じるほどの衝撃を受けたかどうかが、今一つ納得し難い気がします。「宗教と芸術」は賢治の存在理由そのもののような気がしますので。芸術の行為に「業」を見ることはありうるか、検討に値する問題ですね。
hamagaki
avarokitei 様、コメントをありがとうございます。
1921年の家出上京時に、賢治自身が国柱会の高知尾智耀氏に奨められて「法華文学」の創作を始めようとしたというエピソードがありますし、やはり同年の関徳弥あて書簡[195]には、「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。」と書いています。したがって、賢治が宗教と芸術を一体化させようという意志を持って創作活動を行っていたのは、確かにそのとおりだと私も思います。
しかし一方、賢治本人の意識がどうであったにせよ、実際には賢治の芸術的資質・美的衝動のすべてが、宗教的営為の中に回収されるものであったわけでもないように、私には思えます。『注文の多い料理店』の「序」に、「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」とありますが、この「わたくしにもまた、わけがわからない」部分というのは、宗教的な意義などを離れて、他の天才的な芸術家にも時折見られるように、「理屈を超えて、湧き出てきてしまう」ものだと、私には思えるのです。
浮世絵の美しさに魅入られて熱心に収集したり、ベートーヴェンの音楽に陶酔したり、月夜の麦畑に出て「ホホウー」などと叫びながら泳ぐ格好をしたりしている賢治は、何かの「美」に強く感応していたのでしょうが、これらをすべて「仏教的に」意味づけられるものではないと思います。
つまり、自分から思わず湧き出てしまい、何らかの芸術的意味はあると賢治自身も感じるけれど、あまり宗教的意義は見出せないような表現活動・・・そのような創作を自分はしてしまうことを自覚し、これを芸術家の「業」のようなものと賢治自身が感じていたのではないか、というのがこの記事を書いた当時の私の思うところでした。
この記事で問題にしている「学校劇」の中では、「ポランの広場」にある程度作者の宗教的意図も感じられるものの、あとの「飢餓陣営」「植物医師」「種山ヶ原の夜」は、劇としては大変ユーモアもあって面白いですが、「宗教的意義」というものはあまり感じられない作品です。このような点からも、自分の芸術的感性の赴くままに、劇中で「神々」をユーモラスな姿で登場させてしまったことに関して、芸術家の宿命的な「業」という表現をしたのかと考えました。
ただ、上の解釈は、「業」という言葉を、「人がそれぞれに宿命的に背負っているもの」というような、この言葉が日常一般に使われる意味にとっていますが、本来の仏教用語で言う「業」とは、輪廻転生をあらしめる力としての、人間の行為一般(身・口・意)のことを指すということですから、後者の意味にとれば、また別の解釈も成り立ちうると思います。
紀野一義氏は、「宮沢賢治と法華経」の中で「業の花びら」に関して、「賢治は、法華経に「曼荼羅華を雨(ふ)らして仏および大衆に散ず」と説かれたあのマンダーラヴァの花びらを、過去・現在・未来にわたってこの世に充満しているさまざまな命というふうに受けとったのではなかろうか。」と書かれています。これも、この部分に関しては、美しい解釈と思います。
それでは、今後ともよろしくお願い申し上げます。