現象としての真空

 私たちの常識的な感覚では、あるいは古典力学的には、「真空」というのは「何ものも存在しない空間」であり、それが何らかの「もの=実体」であるなどというのは一種の論理矛盾ですが、20世紀以降の物理学では、「真空」も一つの物理的対象として、すなわち「実体」として扱われるようになっています。
 宮澤賢治の作品では、「銀河鉄道の夜」の「一、午后の授業」で、先生が、「そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでゐるのです」と説明していますが、ここで「真空といふ光をある速さで伝へるもの」と言っているところに、まさにこの近代物理学的な真空観が表れています。「真空=もの」だと言うのです。

 この、「真空」が「光をある速さで伝へるもの」だという先生の言葉は、アインシュタインが特殊相対性理論(1905)の出発点とした命題で、ここに端的に、当時の賢治がアインシュタインの理論を、少なくとも表面的には知っていたことが表れています。
 ところで、これに関して『定本 宮澤賢治語彙辞典』の「真空」の項の解説には、次のように書かれています。

これまで童[銀河鉄道の夜]での「真空」の記述が、アインシュタインの特殊相対性原理の受容を意味すると解釈されてきたが、検討を要するかもしれない。賢治の「真空」理解は、光が横波で電磁気と一体の現象であることを予言したマクスウェルに近いところがある。マクスウェルはエーテルの存在を前提としており、この点も賢治の「真空」の認識に近い。

 この説明を読むと、まるで賢治の考えがアインシュタインの理論よりもマクスウェルのそれに近いという風に受けとれますが、もちろんアインシュタインも、「光が横波で電磁気と一体の現象である」ことを前提としていることに違いはありませんから、この比較はちょっと意味不明です。もし賢治がアインシュタインよりもマクスウェルを信じていたのなら、ジョバンニの先生は午后の授業において、天の川の水のことを「エーテルといふ光をある速さで伝へるもの」と言わなければならなかったわけですが、これを「真空」と言っているところにこそ、賢治のアインシュタイン理解が表れているわけです。

 つまり、「真空とは光の媒質である」ということであり、ここにおいて真空は「何もないだけの空間」ではなく、物理学的実体と見なされているわけです。あるいは、いつも仏教的立場から「非・実体論」を採っていた賢治のことを思えば、「真空は実体である」と言うよりも、「真空とは、ひとつの現象である」と言っておいた方が、より似つかわしいかもしれません。

 この「真空は媒質である」という命題を、少し変えて「真空は溶媒である」に置き換えたところに生まれたのが、あの「真空溶媒」という作品です。
 液体の中に、さまざまな物質が溶け込んでしまうと形が見えなくなるように、「真空」そのものが溶媒として、いろんな物を溶かして消してしまうというお話ですね。

……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気ゆげになり
零下二千度の真空溶媒しんくうようばいのなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない

思索メモ2  以上、このあたりまでは、「真空」の特殊相対性理論的解釈およびその派生物としていちおう理解できるように思いますが、では右図に記されたような「真空」概念になると、どうでしょうか。
 これは『新校本全集』では「思索メモ2」と呼ばれているもので、書簡484aの下書きを消して書かれています。この書簡484aというのは、羅須地人協会設立時の会員であった伊藤与蔵に宛てたもので、書簡そのものは1933年8月30日付けですから、このメモも賢治の最晩年、おそらく亡くなる1か月前頃に書かれたものではないかと推測されます。
 「科学より信仰への小なる橋梁」と題され、物質の成り立ちに関する階層的な図式が書かれていて、これは「思索メモ1」とも、ほぼ同内容のものです。

 これを横にしてみると、下記のようになります。

思索メモ2

 この図は、賢治が想定していた「異世界」(=「異空間」)の成り立ちを示そうとしたもののようです。「異単元」というのは、異世界を構成する最小単位、すなわちこの世界では「電子」に相当するもので、それがさらにその世界の物質や生物を構成して、全体として「異世界」に至る、ということでしょう。この図式において私が面白いと思うのは、「この世界」と「異世界」が、「真空」を共通の基盤としている、というところです。
 ここでもしも、「真空」が古典力学におけるように「何もない空間」であれば、それは両者の「共通基盤」には成りようがなく、「この世界」と「異世界」は、ただ真空の中に併存しているだけで、真空は単なる「容れ物」にすぎません。しかし賢治のモデルではそうではなくて、「真空というもの」が両者を「媒介している」ところが、とても興味深いと思うのです。
 ちなみに、「真空」がそのように異空間を媒介しているという考えは、「阿耨達池幻想曲」にも記されています。

虚空に小さな裂罅ができるにさういない
  ……その虚空こそ
    ちがった極微の所感体
    異の空間への媒介者……

 ここでは「真空」ではなく、仏教的に「虚空」と記されていますが、それが「異の空間への媒介者」だと言うのです。
 この賢治のモデルを仏教の方から見れば、我々がこの世界で「実体」と思っているものも、実は我々がそう感じているだけの「現象」で、それは突きつめていくと「空(虚空)」であり、それが「空」であるからこそ、「異世界」にも変じることができる、というような感じになるのかもしれません。

 しかしそれでは、賢治が「科学より信仰への小なる橋梁」と書いているように、仏教だけでなく科学の側においても、このように「真空」が、この世界の構成単位と別の世界の構成単位を媒介するなどという理屈があるのだろうかと考えてみると、何か似たのがあるように思います。

粒子対の生成

 上の図は、陽子(p)にガンマ線(γ)を照射すると、何もないところ(=真空)から電子(e-)と陽電子(e+)の「対」が生成するという現象を表していて、1932年にアメリカの物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソンが発見しました。この「電子」に対する「陽電子」のように、通常存在する素粒子と質量・スピンが同じで電荷が逆の粒子のことを「反粒子」と呼び、たとえば陽子に対しては反陽子が、対応する反粒子です。
 「反粒子」が存在するからには、反粒子ばかりで構成された「反物質」や、反物質ばかりでできた「反世界」というものが、宇宙のどこかに存在するのではないかというのが、私の子供の頃のSF小説の定番ネタの一つでしたが、これこそまさに、賢治が図にしている「異単元―異構成物―異世界」という階層構造そのものです。
 現実には、粒子と反粒子が出会うと、上図と逆の反応が起こり、莫大なエネルギーを放出して両方とも消滅してしまうので、残念ながらこの宇宙に「反世界」が安定して存在することは不可能なのですが、少なくとも概念的には、そのような「異世界」を、科学的に考えてみることが可能なのです。

 そしてまた面白いことに、そのような粒子と反粒子の生成や消滅を媒介しているのが、「真空」そのもの物理的性質であるというところがまた、賢治のモデルとぴったり符合しています。
 イギリスの物理学者ポール・ディラックは、陽電子が発見されるよりも前の1930年に、量子力学を相対性理論に対応させた自らの「ディラック方程式」を成立させるために、「真空とは、負のエネルギーの電子によって満たされた状態である」という、通称「ディラックの海」の理論を提唱していましたが、このように真空が奇妙奇天烈な性質を持っていると考えることによって、1932年に発見された電子・陽電子対の生成という現象も、理論的に説明がついたのです。
 その後、「場の量子論」が構築されていくに伴い、「ディラックの海」などというものは考えなくてもよくなりましたが、ここに至って、昔は物理現象が起こる「舞台」あるいは「容れ物」にすぎなかった「真空」が、「場」と名前を変えて、物理学の主役に踊り出たわけです。現代の物理学では、もはや「素粒子」を実体として扱うのではなく、すべての現象は「場」の相互作用として記述されるようになっています。
 そしてまたこれは、「五輪峠(下書稿(二)初期形」で賢治が思い描いている世界観に、通ずるところがあります。

五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空というのは総括だとさ
まあ真空でいゝだらう
火はエネルギー これはアレニウスの解釈
地と[削除]
[削除]
風は物質だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
今でもそれはさうだらう
   そこで雲ならどうだと来れば
   気相は風で
   液相は水
   地大は核の塵となる
   光や熱や電気や位置のエネルギー
   それは火大と考へる
   そして畢竟どれも真空自身と云ふ。

 すなわち、「地水火風空」という昔の五元素を、「地水風」という物質と、「火」というエネルギーに分け、最終的には物質もエネルギーも、それらを総括する「空」に、すなわち「畢竟どれも真空自身」に帰せられる、というのです。
 この「真空」を「場」と読みかえれば、素粒子もエネルギーも、「場」の一つの様態として記述されるという、「場の量子論」そのものになります。

 ただし、賢治がアインシュタインの理論に触れていたのは確かだとしても、陽電子が発見された1932年は賢治の死の前年で、これが「異単元」と呼びうるものだとは、当時まだ専門家でも誰も考えてもみなかったでしょうし、「場の量子論」が形をとり始めるのも、1950年代以降のことです。賢治が知らなかったはずのこういう知見を、後から当てはめて「賢治の先見性」などと持て囃すのは、後世の勝手な解釈の押し付けだとは思いますが、しかしそれでもこの類似性は不思議です。
 なかでも「真空」が、無内容な「空虚」ではなくて、物質を孕みエネルギーを帯びた「ひとつの現象」だと賢治が考えていたと思われるところが、何より面白いと私は思うのですが、彼はいったいどうやって、こんなことを思いついたのでしょうか。
 私が想像するところでは、一つには前述のように、「空」に関する仏教の教理を、物理的な「真空」のアナロジーとして適用してみたのではないかということと、そしてもう一つには、賢治自身が「何もないところ」に物が見えたり声が聴こえたりするという、幻覚体験をする人だったので、このように豊穣な「真空」イメージを抱くに至ったのではないのだろうかと、思ったりします。
 しかしもちろん、これは賢治自身に聞いてみなければわかりません。