千の風になって

 トシの死による悲しみと苦悩を、賢治はどのようにして受容し、昇華したのか・・・。
 このテーマについて考えていくと、深い孤独や迷いに満たされた「オホーツク挽歌」の詩群や、まだ危うい綱渡りをしているような「〔手紙 四〕」を経て、結局は「〔この森を通りぬければ〕」および「薤露青」に至って、ある一つの安定した境地に到達したように、思われます。
 これまでも何度か引用したように、「〔この森を通りぬければ〕」においては、

わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ……それはもうさうでなくても
     誰でもおなじことなのだから
     またあたらしく考へ直すこともない……

という形で、「妹の声」は静かな諦念とともに受けとめられ、「薤露青」においては、

   ……あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう……

として、妹の「不在」は肯定的に評価されます。これがなぜ「いゝこと」として肯定されるのかという理由は、この部分の推敲前の第一形態が下記のようになっていたことを知れば、一応理解することができます。

   ……あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
     ほんたうのさいはひはひとびとにくる……

 すなわち、特定の一人への愛に固執し続けることが不可能であるからこそ、人はそこを越えてすべての衆生への愛へと向かい、「ほんたうのさいはひ」を目ざすことができるのだという、あの「銀河鉄道の夜」のテーマです。

 ここまでのところは、これまでもしつこいほどに、何度も考えたとおりです。
 今回考えてみたいのは、上のようにして妹の死に思想的に整理をつけることは、確かに《倫理的には》正しいことかもしれないけれど、賢治自身はこのように考えることによって、《心情的には》本当に楽になったのだろうか、はたして賢治の気持ちは現実にこれで癒されたのだろうか?という問題です。
 もしもこれが、賢治が無理をして理屈で考えたことにすぎず、トシへの肉親としての愛を、ただ一方的に断念しただけだったのならば、それは賢治にとって、あまりにも苛酷で寂しいことに思えてしまいます。

 この問題に対する私の考えは、実は上のような「整理」というのは、賢治が単に理屈の上だけで考えたことではなく、これによって彼は《心情的にも》、かなり気持ちの平安を得られるようになっていったのではないか・・・というものです。

 私がそう考える根拠の一つは、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」における賢治は、まるで何気ない様子で、「妹の声」を聴くことができるようになっていることです。
 その様子は、「〔この森を通りぬければ〕」では次のように記されます。

蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声
林のはてのはてからきく

 そして「薤露青」では、次のように。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声
たしかに二つも入ってゐる
   ……あの力いっぱいに
     細い弱いのどからうたふ女の声だ……

 思えば賢治は、トシの死後ずっと、この世にいなくなった妹が今いったいどこにいるのか、その手がかりをひたすら探し求め、そして妹からの「通信」を待ち焦がれていました。翌夏には、そのためにはるばるサハリンにまで行ってしまったほどでした。
 しかし結局、賢治が得ることができた「通信」は、「青森挽歌」によれば、ただ1回だけでした(「私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」)。これはおそらく、「風林」において、「……此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで……/ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」と記されているエピソードに対応しているのでしょう。賢治はいつか、汽車に乗っていて眠りに落ちたその夢の中で、このようなトシの言葉を聴いたのでしょう。

 ところが上記のように、1924年(大正13年)7月になって、賢治がもはやトシの行方や通信を追い求めないという心境に達したところ、7月5日(「〔この森を通りぬければ〕」)、7月17日(「薤露青」)と、短い間に2度も、トシの声を耳にすることになったのです。
 あるいはまた、この二つの作品の間の7月15日に書かれた「〔北上川は熒気をながしィ〕」という作品は、そのほぼ全篇が、賢治とトシ(と一部では弟)を思わせる会話で構成されているのです。そこには、利発で愛嬌のあるトシの魅力が、満ちあふれるようです。
 すなわち、この7月における賢治は、妹トシが亡くなってからの2年弱の歳月の中で、おそらく最も身近にトシを感じとっているのです。

 それでは賢治にとって、この時期におけるトシの「接近」は、果たして偶然のことだったのでしょうか。

 私は、これは偶然ではなくて、賢治がトシのことを「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」という形で、安んじて受容できたことと、表裏一体の関係にある現象なのだと思います。
 それはたとえば、「青い鳥」を必死に探し求めている時は見つからなかったけれど、探すことを諦めたら、「青い鳥」は身近にいたことに気づく、ということにも似ています。
 トシが「何処にいるのか?」、「何を伝えようとしているのか?」という形で、焦点を絞って対象を特定しようとすると、どうしてもそれを捉えることはできませんでした。しかし、賢治がそのような追求をやめてしまい、すべてをありのままに受け容れようというスタンスに変わった時、トシは実はそこかしこに、「あまねく」存在していたのです。さまざまな形でトシの声は賢治を訪れ、トシとの会話もあふれ出しました。

 もちろん賢治は、死んだトシが「リアルにそこに存在している」、とまで作品に書いているわけではありません。
 しかし、1924年(大正13年)7月の「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川は熒気をながしィ〕」、「薤露青」というトシの面影がポジティブに漂う三作品、さらには同年8月の日付を持ち、女学生のような「むすめたち」が輝く「」などの作品を見ると、この頃の賢治が、トシをとても近いところに感じながら、日々を送るようになっていたのは確かだろうと、私には思われるのです。

 ここに至って、トシの死によって深い傷みを負った賢治の心は、やっと一定の回復を見せたと言ってよいのではないかと、私は思います。「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」が「いゝこと」であるのは、単に《倫理的に》よいばかりでなく、《心情的に》も、賢治にとって安寧をもたらしてくれるものだったのです。

 ところでこのように、「死者がつねに生者の近くにいてくれている」と想定する「死生観」は、本来は輪廻転生を基本とする仏教的なそれとは、相容れないものです。むしろこれは、「ご先祖様が草葉の陰から見守ってくれている」という考えや、柳田国男の祖霊論に似ており、日本の伝統的な死生観と共通するものがあるように思われます。そしてさらに、賢治がトシの声をひそかに聴いている様子は、それらよりももっと個人的で、親密なな色彩を帯びているような感じもします。
 このような、「身近な・親密な死者」というイメージから私が連想するのは、アメリカ発祥とされる詩を新井満氏が訳し、2006年に秋川雅史氏が歌って広く知られるようになった、「千の風になって」の歌詞です。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 ここで歌われているのも、死者はお墓にはいないし、「特定のどこかにいる」というものではない、ということです。言わば、「どこへ行ってしまったかわからない」のです。
 しかし、特定のどこかにはいないからこそ、風となって空をわたり、光となってそそぎ、そしてまた(賢治に対するトシのように)、鳥になって声を聴かせることもできる、というのです。

 この歌が、2005年には阪神大震災10周年を機に広まり、2006年にはNHK紅白歌合戦でも歌われるほど愛唱されるようになったのは、その喚起するイメージが、何か現代の日本人の感性に響くところがあったのでしょう。
 ただ、この歌詞の内容自体は、すでに触れたように、一般的な仏教の死生観とは異なったもので、「散骨」などという新たな死のあり方にも関連するような、どこか現代的なイメージを伴っています。松尾剛次氏はこの歌のことを、「われわれの葬礼習俗への挑戦ともいえるものだ」(平凡社新書『葬式仏教の誕生』p.12)とも評しておられます。

 ということで、仏教を篤く信仰していた賢治が、個人的な苦悩の末に、図らずもこの「千の風になって」にも似た、現代的な死生観に接近していたとすれば、これはなかなか興味深いことだと思う次第です。

 最後にもう一つ、やはり同様の死生観を表したものとして、哲学者の森岡正博氏が、2011年3月に朝日新聞に寄せた、「私たちと生き続けていくいのち」という素晴らしい文章を、引用させていただきます。

   私たちと生き続けていくいのち

 2011年3月11日の震災で、多くの方々のいのちが奪われた。
 ある生存者は語る。津波が襲ってきたとき、妻の手を握りしめていたが、強い波の力によって彼女を流されてしまった、と。目の前で愛する者が消えてゆき、自分だけが生き残ってしまったという慟哭は、それを聴く者の心にも突き刺さる。自分は愛する者を守りきることができなかった、最後の瞬間に何もしてあげることができなかったという自責の念は、どんな言葉をかけられたとしても、おそらく消えることはないだろう。
 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。
 たとえばふとした街角の光景が、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ。彼らは言葉を発しないけれども、この世から消え去ったわけではない。
 人生は一度限りであるから、どんな形で終わったにせよ、すべての人生は死によって全うされている。すべての亡くなった方の人生は聖なる者として閉じた。そして彼らのいのちはこれからずっとこの世で私たちと共にいる。私たちは彼らに見守られて生きていくのである。      (森岡正博『生者と死者を繋ぐ』春秋社より)

 トシの死を前に、「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」とひそかに考えていた賢治にとって、なすすべなく妹を「ひとりで」逝かせてしまったことは、上の津波生存者の方と同じように、理不尽な「自責の念」を背負いこんでしまうきっかけになっただろうと、私は思います。
 そして、最終的にその深い心の傷は、亡くなったトシの「いのち」を身のまわりに感じ、上で森岡氏が記すように「共にいる」という感覚を持つことによって、やっと癒えはじめたのではなかと、私は思うのです。

 賢治自身は、「みんなのさいはひ」を目ざすという原則的な立場から、もはやこのような個人的な親密な感情を、直接に作品に書きこむことはしなくなりました。ですから、その後の賢治が上のようにトシの存在を感じるようになっていたとしても、私たちはその痕跡を作品の行間から、ふと垣間見るしかありません。
 ちなみに、私がそのような意味で、トシの面影を何となく感じる作品としては、上述の「〔北上川は熒気をながしィ〕」や「」に加えて、後者が晩年になって「変奏」された「春 変奏曲、」のにぎやかでまぶしい少女たち、「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」の「曠原淑女」、「発動機船 一」における「頬のあかるいむすめたち」などがあります。

 これらはいずれも、私たち後世の読者にとっては、ふと街の雑踏ですれ違った姿に故人の面影を重ねるに似た、儚い試みなのかもしれません。しかし私は個人的に、そこに生き続けているトシの「いのち」を見るような気がするのです。
 きっと賢治も、その時何かを感じとっていたのではないかと、私には思えてなりません。