線路脇の豆畑

 『春と修羅』所収の「電車」は、まるでミュージカルか何かのように、「豆ばたけ」の中を疾走します。列車に揺られるうちに思わず舞い上がって、ほとんど歌い出すかのようなその調子には、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」や、「岩手軽便鉄道の一月」にも通じるようなノリがあります。

    電車

トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです
車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
こんな豆ばたけの風のなかで

 なあに、山火事でござんせう
 なあに、山火事でござんせう
 あんまり大きござんすから
 はてな、向ふの光るあれは雲ですな
 木きつてゐますな
 いゝえ、やつぱり山火事でござんせう

おい、きさま
日本の萓の野原をゆくビクトルカランザの配下
帽子が風にとられるぞ
こんどは青い稗(ひえ)を行く貧弱カランザの末輩
きさまの馬はもう汗でぬれてゐる

 3行目に「こんな豆ばたけの風のなかで」として周囲の景色が出てきますが、最後から2行目には、「今度は青い稗を行く…」との言葉があり、電車は豆の次には稗の畑に差しかかったようです。

 また、同じく『春と修羅』所収の「」でも、8行目に「山を下る電車の奔り」とあるように、作者賢治は電車に乗っています。

    昴

沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く、松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝(スガタ)から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 中ほどに出てくる「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ」との言葉は、半月前の関東大震災を指していて、こちらの作品にはどことなく死の予感が漂っています。
 周囲の情景に注目すると、17行目には「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ」とあるように「そば畑」を通った後、27行目には「(豆ばたけのその喪神のあざやかさ)」という一節があり、ここで電車は再び「豆ばたけ」を走っているのです。

 「電車」のスケッチ日付は1922年8月17日、「」は1923年9月16日ですから、この時期に花巻で「電車」と言えば、1915年に西公園―松原間で開業し、1918年には志度平温泉まで延伸した、花巻電鉄「軌道線」のことです。町から花巻温泉の方へ行く「鉄道線」の開業は1925年のことですから、この時はまだできていません。
 「」には、「貨物電車」という言葉も出てきて、いったいどんなものだったんだろうと興味が湧きますが、「花巻電鉄の貨車」(地方私鉄 1960年代の回想)というページを見ると、花巻電鉄で走っていた様々な貨車の写真を目にすることができます。JRの大きな貨車のイメージからすると、おもちゃのように小さくて可愛い「箱」で、これが電車の後ろに繋がれて走っていく様には、何か「けなげ」さも感じてしまいます。
 そもそも、この電車(と馬車軌道)が結ぶ鉛温泉の奥には、硫黄を産出する鶯沢鉱山などがあったので、当時は貨物輸送もかなりの需要があったのだということです。

 『定本 宮澤賢治語彙辞典』によれば、賢治の作品中で「豆と出てきたら大豆のことと考えてよい」(p.683)ということですので、この「豆ばたけ」は、大豆の畑のことなのでしょう。「電車」が書かれた8月中旬は大豆の開花時期、「」が書かれた9月中旬は、枝豆としての収穫時期に当たります。
 どちらの作品も、大豆の葉や莢の青々と繁る色彩を感じさせ、とりわけ「」では、夜の闇の中で電燈に照らされる鮮やかさが印象的です。

 さて、賢治が電車に乗りつつ、その車窓から眺めた「豆ばたけ」というのは、はたしてどのあたりにあったのだろうとぼんやりと考えていましたら、91年前の今日、1923年8月31日に書かれた「雲とはんのき」という作品にも、「豆畑」が出てくることに気づきました。

    雲とはんのき

雲は羊毛とちぢれ
黒緑赤楊(はん)のモザイツク
またなかぞらには氷片の雲がうかび
すすきはきらつと光つて過ぎる
  《北ぞらのちぢれ羊から
   おれの崇敬は照り返され
   天の海と窓の日おほひ
   おれの崇敬は照り返され》
沼はきれいに鉋をかけられ
朧ろな秋の水ゾルと
つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され
ゆふべ一晩の雨でできた
陶庵だか東庵だかの蒔絵の
精製された水銀の川です
アマルガムにさへならなかつたら
銀の水車でもまはしていい
無細工な銀の水車でもまはしていい
   (赤紙をはられた火薬車だ
    あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)
無細工の銀の水車でもまはすがいい
カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
  (ひのきのひらめく六月に
   おまへが刻んだその線は
   やがてどんな重荷になつて
   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに
わづかにその山稜と雲との間には
あやしい光の微塵にみちた
幻惑の天がのぞき
またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が
こころも遠くならんでゐる
これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を
わたくしはたつたひとり
つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません

 これは、「オホーツク挽歌」の旅から帰ってきてまだ間もない頃の作品で、最後の方の「これら葬送行進曲の層雲の底/鳥もわたらない清澄な空間を…」というあたりは、まさに挽歌の残照を感じさせます。作品全体に、透明な孤独感が漂っていますね。そしてこの作品の最後から13行目に、「豆畑だつてほんたうにかなしいのに…」という言葉が出てくるのです。
 それでもう少し気をつけてテキストを追ってみると、その「豆畑」の8行上に、「貨物車輪」という言葉があるのに気がつきます。これは、どこの鉄道の貨物車輪なのでしょうか。
 そしてまた「貨物車」があるとなると、さらにその5行上にある「赤紙をはられた火薬車だ」という言葉の意味が、明確になります。きっとこの貨物車は火薬を積んでいるので、危険物を載せていることを表示するために、当時の「火薬類鉄道運送規程(『銃砲火薬類取締法令通義』p.246)」に従って、「赤紙」が貼られているのです。

○火藥類鐵道運送規程(1915年改正)
第十六條 火藥類積載ノ貨車ノ兩側面ニハ見易キ位置ニ白地ニ火藥ト朱記シタル標札ヲ附スヘシ

 この「白地ニ火藥ト朱記シタル標札」のことを、賢治は「赤紙」と呼んでいるのでしょう。
 となると、この貨車は先に見たような、花巻電鉄軌道線のものだった可能性が、がぜん高まります。既に述べたように、この軌道線の奥には鶯沢鉱山があり、採鉱のためには大量の火薬を必要としたはずだからです。

 つまり、この「雲とはんのき」において作者は花巻電鉄の車両には乗っておらず、外から貨車の通過を眺めているようですが、そこはやはり「豆畑」のある場所だというところが、「電車」「」と共通しているのです。
 となると、この作品舞台がどこだったのか、ますます何としても知りたくなってしまいます。

 そこで今度は、上の作品中に出てくる「沼」に着目してみましょう。「沼はきれいに鉋をかけられ/朧ろな秋の水ゾルと/つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され…」という箇所です。
 この沼は、水面が「鉋をかけられ」たように滑らかで、蓴菜もあるようですから水は澄んでいるのでしょう。

 ここで、「水銀」「沼」という言葉からふと連想したのが、「春と修羅 第二集」の「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」という作品です。

一〇六
                    一九二四、五、一八、
日はトパースのかけらをそゝぎ
雲は酸敗してつめたくこごえ
ひばりの群はそらいちめんに浮沈する
    (おまへはなぜ立ってゐるか
     立ってゐてはいけない
     沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)
一本の緑天蚕絨の杉の古木が
南の風にこごった枝をゆすぶれば
ほのかに白い昼の蛾は
そのたよリない気岸の線を
さびしくぐらぐら漂流する
    (水は水銀で
     風はかむばしいかほりを持ってくると
     さういふ型の考へ方も
     やっぱり鬼神の範疇である)
アイヌはいつか向ふへうつり
蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる

 この作品でも、12行目で「沼」の水が「水銀」に喩えられているところが、「雲とはんのき」と共通しているのです。「下書稿(二)」では、水面は「鏡の面」と表現されており、やはりとても滑らかだったのでしょう。

 さて、こちらの作品の舞台に関しては、木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』の中で、次のように推定しておられます。

作品の舞台は花巻の西の郊外、才ノ神・熊堂付近が想定される。下書稿(一)にも「花巻一方里のあひだに云々」とあり、手入形に「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鏃も石斧もとれる」とある。熊堂付近のアイヌ塚の存在は早くから知られており、出土品の一部は今も魔王塚に近い熊野神社の展示室に飾られている。下書稿(一)にある赤い石の塚についても、才ノ神部落の平賀静男氏宅裏の祠に赤煉瓦色の石塚がまつられているものが確認される。したがって作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて、豊沢川に沿って多数あったという沼の水面に、アイヌの幻を捉えたわけである。(p.180-181)

 上記の、「作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて…」という箇所の意味は、この「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」がスケッチされた1924年5月18日の午後10時に、賢治は花巻農学校の生徒を引率して北海道修学旅行に出発したことを指しています。
 木村氏の言う「豊沢川に沿って多数あったという沼」のいずれかが、作品の舞台だったというわけですね。

 実は私は、2009年にこの熊堂古墳群のある熊野神社を訪ね、そこに今は一つだけある「沼」を見てきました。
 下の写真が、私が訪ねた時の「沼」の様子です。

熊堂古墳の沼

 作品から何となく想像していたのよりは小さな沼でしたが、水はきれいに透きとおっていました。右下には鯉もいます。
 ここのあたりで、江戸時代後半、明治30年代、さらに大正年間に、たくさんの副葬品が発見されて、「蝦夷塚」「アイヌ塚」と呼ばれるようになりました。1986年から行われた発掘調査では、熊野神社境内に7基、神社西側に9基の古墳が確認され、現在は下のような形で保存されています。

熊堂古墳群

 境内には上のような墳丘があちこちにあり、各々直径10m、高さ1m程度の土饅頭になっていて、一部には写真のように小さな川原石で築かれた石室もあります。それにしても、こんなに身近に、直接触れることさえできる形で「古墳」を体験できるとは、関西ではちょっとないことで、この「熊堂古墳群」というのは、観光的にもお勧めのスポットではないかと思います。
 木村東吉氏が指摘するように、賢治ももちろんこの遺跡については知っていたはずですし、それが「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」の中に、幻の「アイヌ」の姿を登場させることにもつながっているのでしょう。

 そこで、この古墳群のある熊野神社の場所を、あらためて考え直してみると、実はここはまさに、花巻電鉄軌道線の「熊野」の停車場があったところなのです。
 下の写真は、熊野神社を東から見たところですが、右端奥へと続く広い道路が県道12号線で、その昔にはこの道に敷設された軌道を、電車が走っていたのです。

熊野神社と県道12号線

 つまり、「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に登場する沼と、「雲とはんのき」に登場する沼とは、どちらも「花巻電鉄沿線の水銀のような沼」ということで、実は同一の場所だったのではないでしょうか。

 こう考えてみることによって、何となく腑に落ちる点が二つあります。

 一つは、「雲とはんのき」の中に出てくる、「手宮文字です 手宮文字です」という一節の背景です。
 「手宮文字」というのは、1866年に小樽の手宮洞窟で発見された彫刻で、明治から大正時代にかけては古代の文字と考えられ、「アイヌ文字」とも呼ばれていました。その後、これは「陰刻画」であって、「文字」として意味を伝えるものではなかったというのが定説となりましたが、賢治が「雲とはんのき」において「アイヌ塚」に来ていたとすれば、当時はアイヌの文字とも考えられていた「手宮文字」がそこに登場するのも、ごく自然なことになります。

 もう一つは、賢治が1924年の北海道修学旅行直前にこの場所に来て「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」を書いたことと、1923年の「オホーツク挽歌」の北海道旅行の後にもこの場所に来て「雲とはんのき」を書いていたこととの対応です。
 1923年8月11日、賢治は「噴火湾(ノクターン)」の中ほどで、妹トシへの'Funeral march'(=葬送行進曲)を耳にしましたが、その20日後の「雲とはんのき」においても、やはり「葬送行進曲」を感じています。北海道から帰った賢治が、この時「アイヌ塚」を訪れたのは意図的ではなかったのかもしれませんが、ここで彼は、自らの北海道における体験を、不思議にも甦らせてくれるものを感じたのではないでしょうか。
 そして翌1924年5月18日、北海道へ旅立つ当日の昼間に、おそらく慌ただしい合間を縫って、賢治は再びこの場所を訪れるのです。各所でしばしば「地霊」の声を聴くことのあった彼ですから、北海道へ行く直前にわざわざ「アイヌ塚」に来たことに関しては、意図的な何かを感じざるをえません。
 たとえば、はるか昔にはこの地にも居住していたアイヌの神に、北海道における生徒たちの無事を祈ったのではないか・・・、などということも想像します。


 というわけで、はっきりとした証拠がある話ではありませんが、『春と修羅』から「春と修羅 第二集」にかけて、電車、豆畑、沼、という舞台装置を持つ4つの作品を辿っていくと、何かが浮かび上がってくるような気がしたのでした。

熊堂古墳の沼