今年も宮澤賢治の命日、9月21日が近づいてきました。
この日、花巻では賢治詩碑前で毎年「賢治祭」が行われますが、関西では比叡山にある賢治歌碑の前で、延暦寺の高僧の方々による「賢治忌法要」が営まれます。
当日の法要およびその関連行事の予定は、下記のとおりです。
受付開始: 10:30 (比叡山延暦寺根本中堂 宮沢賢治歌碑前)
法要: 11:15ー12:00
記念講演会: 13:00ー14:30 (延暦寺会館)
演者: 浜垣 誠司
演題: 統合し制御する精神と解離し浸透する精神
― 宮沢賢治の心性の特徴について ―
賢治の命日に、このような大切な場所でお話をさせていただくことになるとは、私としてもまたとない光栄です。
実は、「関西宮澤賢治の会」の会長さんからは、5年ほど前に講演のお話をいただいていたのですが、9月21日が休日になる日でないと参加が難しい個人的事情があり、急いでカレンダーを調べた結果、2014年は日曜になっているということで、この年にお願いしていました。
まだまだ先のことと思っていたのですが、ついに今年になってしまいました。
当日は、概ね下記のようなお話をさせていただく予定にしております。
統合し制御する精神と解離し浸透する精神
― 宮沢賢治の心性の特徴について ―
1.震災の夜に思ったこと
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は
あり得ない」の本当の意味とは
その本質は、自己と世界との直接的な一体感
= ロマン・ロランの言う「大洋感情」
← フロイトは「自我境界の消滅」と解釈
2.賢治の心性の特徴 ― 稀薄・曖昧な自我境界
詩的霊感の源泉として
倫理的・宗教的基盤として
自己の消滅
外的現実と内的心象の同一視
3.解離という視点
解離とは:
自我境界の稀薄化・曖昧化も、解離の一形態である
賢治の作品・書簡に見る種々の解離症状
「青森挽歌」に見る解離性幻聴と複数の主体
4.賢治の解離傾性の高さ
「静座法」エピソードに見る「催眠感受性」の高さ
それはおそらく天性の素質
5.二方向の精神
統合的 ⇔ 解離的
動物的 ⇔ 植物的
能動的 ⇔ 受動的
支配的 ⇔ 適応的
対象変革的 ⇔ 自己変容的
自力的 ⇔ 他力的
指示的 ⇔ 受容的
教化的 ⇔ 共感的
一元的 ⇔ 多元的
求心的 ⇔ 遠心的
凝集的 ⇔ 浸透的
中央集権的 ⇔ 地方分権的
自己保存的 ⇔ 自己裂開的
即自的 ⇔ 脱自的
風間三郎
上掲の概説から推測させていただくと、今回のご講演と八月の宮沢賢治研究会でのご発表は、内容的に通底したものになるのでしょうか?(残念ながら、八月のご発表の内容を知ることができずにいるもので)
こんなことを申しますのは、当方もかつて「求心的」と「遠心的」という対立概念を使って賢治を論じようとしたことがあったからです("ESSAYS FROM IHATOV"2010/10~11)。浜垣様のご考察と一賢治ファンにすぎない素人の考察が、どういった関係に立ちうるものなのか、興味を惹かれたからです。当方の認識不足を補い、賢治をより立体的に捉える意味でも、お教えいただけるならば幸いです。
hamagaki
風間三郎さま、コメントをありがとうございます。
はい、ご指摘のとおり、こんど比叡山でお話する内容は、8月に東京の宮沢賢治研究会で発表させていただいたことを、下敷きにしています。
東京では、「求心的・凝縮的な精神と遠心的・浸透的な精神」というタイトルにしていましたが、発表しながらも我ながらこれではあまりにも「意味不明すぎる」と感じましたので、今回は上記のように変更した次第です。
(と言っても、これでもまだまだ「意味不明」ですが・・・w。)
私がここで「求心的/遠心的」と表現したのは、もとは人間(や生物一般)の情報処理の様態を表そうとしたもので、「求心的」とは、すべての入力情報を中枢に集めて、一元的処理した結果を統合的に出力するという方式のこと、「遠心的」とは、様々な入力をそれぞれの末梢において同時並列的に処理し、各々として出力するという方式のことでした。
生物においては、この両面の神経的活動が相補的に働いていますし、「人間の精神活動」に注目してみても、両方の要素が存在すると言えるのではないかと思います。
私としては、このように分けてみた場合に、賢治という人の精神においては、特に後者「遠心的」の側面がかなり優位に働いていたと言えるのではないかと考えました。そのことを、彼の作品や生涯のエピソードから跡づけつつ、賢治のあの人並み外れた独特の「感性」を私どもが理解する上での、一助とできないかと思った次第です。
ちょっと大風呂敷を広げると、20世紀の世界は、上記の意味で「求心的」な精神によって発展を遂げてきた感がありますが、今や、それとはまた別のあり方である「遠心的」な精神が、あらためて意味を持ってくるのではないかと考えました。
たとえば、平常時に行政などの組織は「求心的」な情報処理を行っていますが、大震災直後などの混乱期においては、そのような対処が不可能となるために、各現場における「遠心的」な処理を基本とせざるをえません。震災後に、様々な形で賢治の言説が注目された理由の一つとして、このようなこともあるのではないか・・・と思ったりもしました。
・・・などというようなことを、私としては考えていたのですが、このたび風間様の"ESSAYS FROM IHATOV"の該当箇所を拝読させていただくと、何とすでに4年も前に、風間様は「求心的/遠心的」という軸を賢治に関して呈示しておられたんですね。
これは存じ上げずに、失礼をいたしました。
風間様が定義しておられる「求心的/遠心的」も、私が上記で用いた意味と、少しだけ重なり合う部分もあり、とても興味深く読ませていただきました。
私が8月および今回お話させていただく内容は、いずれまた何らかの形で文章にしてみたいと思っております。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
風間三郎
「求心的」、「遠心的」という概念でも、hamagakiさんの知見は、認識や情報の処理のされ方、という観点からのものであるわけですね。(当方の場合はいわば、「実存的志向」とでもいうべき観点からのものだったと思います)hamagakiさんの知見は、簡単に理解したつもりになるにはだいぶ奥深い、意味深いものを含んでいると思いますが、少なくとも当方にとって賢治に関する新たな視野を開いてくれたことは確かだと思います。貴重なご教示をありがとうございました。(当方、かつて「雨三郎」名で貴サイトに時々お邪魔していた者であることを申し添えます)
hamagaki
ああ、雨三郎様でいらっしゃいましたか。(^_^)
これまでも拙ブログを見守っていただき、幾度も意義深いご指摘を下さいまして、ありがとうございます。
今回の話は、以前に雨三郎様もコメントを下さった、「宮澤賢治の世界感覚について」という記事で書いたことに関連したものです。
私のイメージとしても、自己の内部を深く掘り下げていく「求心的」な方向性に対して、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という風に、外に向かって「拡散」し「浸透」し、「世界と一体化」しようとする方向性を「遠心的」と呼んでいる面もありまして、これは風間様がおっしゃる「実存的」という軸と、重なり合う部分があるかもしれません。
ただ、まだまだきちんと論理的にまとめきれてはおらず、3日後に向けて今も頭を悩ませているところです。(^_^;)