かなしみはちからに…

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書簡165
保阪嘉内あて書簡165
(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)

かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは
智慧にみちびかるべし。

 この言葉は、1920年(大正9年)6月~7月頃の投函と推定されている保阪嘉内あて書簡165の上欄外に、90度方向を変えて書かれているものです。
 この時、嘉内は志願兵として東京で入営中、賢治は5月に盛岡高等農林学校の研究生を修了して、なすすべもなく花巻の実家で質屋の店番をする毎日でした。

 書簡そのものの内容としては、下記のように最近の自分は「毎日ブリブリ憤ってばかり」いるということを書き連ねていて、この「いかり」をどう扱ったらよいのかということから、欄外の言葉へと関連してくるのでしょう。本文の進行とパラレルに、上部にもう一つの想念が配置されてポリフォニーを奏でているところは、後の「習作」という作品の構造も連想させます。

(前略)突然ですが、私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひ出しながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。(後略)

 このような精神状態に対して、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という命題が提示されるわけですが、それにしてもこれは、非常に意味深く感じられ、また端正な響きのある言葉ですね。
 以前からある程度は注目されていた言葉なのでしょうが、2011年の大震災の直後に、齋藤孝さんがその一部をタイトルにして、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』という本を出されてから、また一段と多くの人々に知られるようになったと思います。
 このあたりの拡散力は、『声に出して読みたい日本語』シリーズ以来際立っている齋藤孝さんの「ことば」に対するセンスや、その人気にも支えられている部分が大きいのでしょう。

かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば
齋藤 孝
朝日新聞出版 2011-06-17
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 しかしこの「かなしみはちからに…」の広まり具合を少し詳しく見てみると、宮澤賢治の童話や詩が好きで読んできたという従来の一般的読者にとっては、書簡の片隅にあるこの言葉は、作品テキストほどには親しまれておらず、むしろ賢治にかぎらず「名言集」というものを好んでおられるような層の間で、これはよりポピュラーになっているのかとも思います。
 ネット検索から垣間見た、この言葉の流通状況から受ける印象として、そんな感じを持ちました。

 ところで、この言葉に関して一つ気になるのは、これははたして賢治のオリジナルなのか、それとも経典か何かにその元となる語句があるのかどうか、ということです。
 当時満23歳だった賢治は、仏典やその他古今東西の書籍には広く親しんでいたとは言え、まだ社会で仕事をした経験はありませんでした。賢治の才能をもってしても、こういう成熟した人間性の表現を独力でなしえたとすれば、それは驚嘆すべきことに思えます。これは一見して思慮深そうな言葉ですが、後に述べるように、その深さはとても一筋縄でとらえられるものではありません。
 「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」という問題選択や、その「導き方」という設定は、どこかに出典があるのでしょうか。

 すぐに連想するのは、仏教で「三毒」と呼ばれている、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という根本的な「三つの煩悩」です。これを問題の言葉と対応させてみると、「欲(ほ)り」が「貪」に、「いかり」が「瞋」に、とこの二つはきちんと当てはまるのですが、「かなしみ」と「癡」とは明らかに別のものですので、単純にこれが由来とは言えません。
 しかし、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストと「三毒」との関連を見てみると、「慾ハナク」が「貪」の否定、「決シテ瞋ラズ」が「瞋」の否定、「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」が「癡」の否定、とこれは登場する順序も含めて、正確にぴたりと対応しますから、「〔雨ニモマケズ〕」を書く際に賢治が「三毒」を意識していたことは明らかです。
 「かなしみ」「欲り」「いかり」という三つの主題を取り上げるにあたり、三つのうち二つを含む「三毒」という概念は、多少ともその発想に影響をあたえていた可能性はあるのでしょうが、それ以上のことは私にはわかりません。
 この言葉の出典について、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示をいただければ幸いです。

 さて、ここで主題となっている「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」は、いずれも人間にとって「陰性」の感情です。普通は「抱えていると苦しい」これらの情動を、人間はいかに取り扱うべきかということが、この言葉の眼目なのでしょう。
 ここで私としてとても興味深く思うのは、これら陰性の感情にそれぞれ対置されているものが、各々の「対義語」ではない、ということです。

 一般的には、何かが「行き過ぎた」状態にある時に、それをその逆の性質のものによって「中和する」ということは、一つの対処法として有効です。風呂のお湯が熱すぎるので冷たい水を入れて温度を下げるとか、岩手の土壌は酸性に傾いているのでアルカリ性の石灰岩抹を播いて中和する、とかいう方法ですね。
 しかし、「かなしみはちからに・・・」という言葉で示されているのは、このような対処法ではありません。すなわち、「かなしみ」と「ちから」は対義語ではないし、「欲り」と「いつくしみ」も、「いかり」と「智慧」も、それぞれ対立する概念ではありません。

 この言葉によって示されているのは、何か苦しいもの、厄介なものがある場合に、それを「和らげる」とか「鎮める」とかいう形で解決しようとするのではなくて、その苦難自体を、本当の意味で「乗り越える」、あるいは「そこを通り抜けて、新たなより高次の段階へ至ろうとする」という方向性です。
 「悲しみ」の対義語は「喜び」ですが、何か「悲しいこと」がある時に、自分を喜ばせてくれるような「楽しいこと」によって心をまぎらせて、とりあえず苦痛を緩和するというのは、人間が誰しもすることです。多くの場合、苦しみを軽くする方法としてそれが一番手っ取り早いので、好んで採用されますが、しかしその一時的な「喜び」が過ぎ去ると、元の「悲しみ」は、何の変わりもなくそこに存在し続けています。これは、真の意味での解決にはなっていないのです。
 一方、賢治が「かなしみはちからに・・・」という言葉によって示した道筋、すなわち「かなしみ」に対して「ちから」を処方するという方向性は、そうではありません。「かなしみ」から、本当の意味で抜け出そうとするものです。

 私が、この言葉が単に美しく響くだけでなく、一筋縄ではとらえきれない「奥深さ」を持っていると思うのは、まさにこの点によります。それはきれい事ではなくて、人間という存在への十分な理解に基づいた、実践的な叡智です。このように含蓄のある言葉を、学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の「家業見習い」の若者が、ふと友達への手紙に書いたのだとすれば、まさにこいつは「ただ者ではない」と思うのです。
 その「含蓄」の中身にはどのようなものがあるのか、現時点で私が想像する事柄について、以下に順に記してみます。

1.「かなしみ」と「ちから」

 上にも書いたように、「かなしみ」を抱えている人に、その反対物である「よろこび」を与えるという方法は、問題の根本的な解決にはなりません。しかしそれでも、悲しみに沈んでいる人に喜ばせるような贈り物をするとか、被災地の避難所にお笑い芸人が慰問に行って公演をするとかいうことは、それなりに行われますし、無意味とは感じられません。そのことによって、「かなしみ」の原因が取り除かれるということはありませんが、受けとった側も、大抵はそうしてもらってよかったと思うでしょう。
 このような場合、受けとった贈り物や娯楽それ自体によって「かなしみ」が減殺されているのではなくて、「今の自分に対して、こんな優しさや善意を示してくれる人が存在する」というそのことが、かなしみを抱えた人を「力づけて」くれるのではないでしょうか。
 だからこの場合、「かなしみ」に拮抗したのは「よろこび」ではなくて、一緒に与えられた「ちから」だったのではないかと思うのです。

 別の角度から考えてみましょう。
 一般に、人間が「悲しみ」を抱く典型的な場面とは、「身近な人を亡くした」とか、「失恋した」とか、「大切にしていた物が壊れた」とか、何であれ重要な対象の「喪失」という状況です。
 失った対象を、もはや取り戻すことはできません。しかしそれはわかっていても、対象をなおも求め続けようとする欲求を断念し、新たな状況を受け入れて歩み始めるというのは、これもまた容易なことではありません。人はそこで悩み、苦しみますが、このように人間が喪失に直面し、それに対処していくプロセスのことを、フロイトは「悲哀の仕事(Trauerarbeit)」と名づけました(『悲哀とメランコリー』)。
 この「悲哀の仕事」の過程においては、当初は失った対象への断ちがたい思いが渦巻き、恨みや自責の念も錯綜します。しかし人間は、このような感情もあらためて一つ一つ体験し、受けとめ、理解していくことによって、対象と自らの関係について捉え直し、対象が存在しない世界と自分との間に、新たな関わりを築いていくことができるのです。
 「かなしみ」という状態を、避けたりまぎらせたりするべきものとしてでなく、積極的な意味を持った「心の仕事」として遂行するよう位置づけたのが、フロイトの功績の一つでした。そして人間は、たとえどんなに深刻な喪失でも、その「悲哀の仕事」を行うための「ちから」さえ持っていたならば、それをやり遂げることができるのです。

 ですから、「かなしみ」を抱えた人に対して、人がしてあげることができるのは、「ちからづける」ということです。この営みのことを、心理や福祉の領域では、'empowerment'と言います。
 そして、この'empowerment'において実際に起こっている現象は、外から「ちから」を与えるということよりも、そのような人との関わりによって、むしろその人が「自分の中ににあった『ちから』を、あらためて再発見する」ということなのです。

 賢治の、「かなしみはちからにみちびかるべし」という言葉の底には、このような人間の理解があるのだろうと、私は思います。


2.「欲(ほ)り」と「いつくしみ」

 「貪欲」の対義語は、「無欲」です。先ほどの、「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、欲が深すぎる人に対しては、そのような煩悩を離れて「無欲」になることを説いたり、「禁欲」や「我慢」を勧めるということになるかと思います。
 しかしこれは、やらないよりは少しましかもしれませんが、やはり誰しも予想ができるように、さほど画期的な効果は期待できないでしょう。
 それではどうしたらよいのでしょうか。

 欲望の対象には様々なものがありえますが、そのあまりにも過剰な状態=ひりひりと灼けつくような渇望に常に苛まれている状態において問題なのは、個々の欲望の対象ではなくて、その人の中でどうしても埋めようのない、深刻な空虚感・欠落感なのだとも言えます。
 この空虚・欠落を、人は何とかして物質的に満たそうと、その代わりとなる物を飽くことなく求め続けますが、結局は代替物で埋めることはできません。目の前の欲望を達成した瞬間に、また渇きは始まります。
 しかし本当に重要なのは、その人の奥底にある空虚感・欠落感なのです。

 たとえば、食べることへの欲求が抑えられず非常に大量のものを食べずにはいられないような状態として、「過食症」という病気があります。過食症の原因には、ケースバイケースで様々な要因が関与しているので、一概に単純化して議論することはできないのですが、一つの説として、その人の中の「愛情飢餓」という問題が関与しているという考えがあります(例えば、黒川昭登・上田三枝子著『摂食障害の心理治療―愛情飢餓の克服』)。
 このような場合には、自分が尊重されていると感じられる対人関係、心から信頼できると思える人とのつながりを体験することが、過食からの回復のために、大きな作用を果たすと言われています。
 ここにおいて力となっているのが、人と人との間で受けとる「いつくしみ」の体験なのではないかと思うのです。

 また、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症など種々の依存症も、対象への欲求を断ち切れないことに苦悩の根源がありますが、これらの内奥にも、深い空虚感があることがしばしばです。そして、これら依存症の回復においても本質的な力となるのが、断酒会、AA、ダルク、マック、NA、GAなどの「自助グループ」との関わりです。やはりここでも、同じ苦しみを抱えた仲間との間で、真に肯定的な人間関係を経験することが、目に見えない働きをしてくれるのだと思われます。
 ここにおいても、その人間関係の本質を言葉に表せば、「いつくしみ」ということになるのではないかと思います。

 すなわち私としては、賢治が「欲(ほ)りはいつくしみにみちびかるべし」と言っていることの本当の意味は、ここにあるのではないかと思うのです。


3.「いかり」と「智慧」

 「怒り」の対義語は何でしょうか。辞書やネット検索で調べてみても、わかりません。
 ただ、生物学には、'Fight or Flight response'という言葉があり、動物は危険な相手に遭遇した時、極度の緊張下で、「闘うか、逃げるか」という両極端の判断を迫られます。「闘う」に対応する情動が「怒り」で、「逃げる」に対応した情動が「恐れ」ですから、「怒り」の対義語は「恐れ」であると言うこともできるでしょう。
 しかし、「怒り」も「恐れ」も、どちらも陰性の感情ですから、「対義語」とするにはもう一つしっくりきません。
 適切な対義語であるためには、それは陽性の感情で、緊張の反対に弛緩した状態であるべきでしょうから、「怒り」の対義語は「安らぎ」であると考えるのがよいのかもしれません。

 ということで、例によって「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、「いかり」を抱えている人に対しては、何とかして「やすらぎ」を提供して、頭に上った血を沈めてもらうというのが、一つの対処法だということになるでしょう。
 そして、これは確かに一般的に行われていることではあります。カッカしている人に、「まあ、まあ、まあ・・・」と穏やかに声をかけて、なるべく静かに話を聞く。そして、あまり感情的になるのも「大人げない」ということで、何とか矛先を収めさせようとする・・・。

 しかし、このような対応が時にどこか胡散臭さを含んでいるのは、「いかり」は大抵は真っ当な理由に基づいたものであり、それをただ単に鎮静化して、「なかったこと」にしてしまったのでは、何ら建設的な対策にはならないからです。社会においては、「怒りを抑える」ことこそが善いことのように言われがちですが、それでは本人には鬱憤が溜まりますし、全体としても進歩がありません。

 ちなみに、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「怒り」について次のように述べています。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は、賞賛される。(岩波文庫版上巻p.155)

 つまり、「適切に怒る」ことが、倫理的に賞賛されるべきことだというのです。アリストテレスによれば、いつも怒りを抑えてばかりいるのは「意気地なし」で、上に述べたような「適切な怒り」こそが、彼が推奨した「中庸」にあたるというのです。
 となると、ここで最も重要になるのが、「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ」という、怒りの表現の「適切さ」の判断です。
 そしてここで、その大切な「判断」の役割を担うのが、「智慧」だということになるでしょう。

 すなわち、「いかりは智慧にみちびかるべし」という賢治の言葉の真意は、ここにあるのだと私は思います。

 ということで、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という、宮澤賢治のものと思われる言葉の中には、少なくとも上記のような含意があるのではないかと、私には思えるのです。
 これは、響きとしても美しいので、「名言集」などに収めるにはぴったりですが、いわゆる「美辞麗句」にはとても収まるものではなく、すぐれて「実践的」な言葉だと感じます。
 机上の思弁のみからひねり出せるものではないと思いますので、ですから「学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の家業見習いの若者」のペン先からふと生まれたとすれば、やはりその若者はただ者ではなかったのだな、と思う次第です。