去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。
本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。
これこそが、「他力」を心から信じ、全てをその「他力」に委ねるという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。
◇ ◇
3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。
「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は弟の楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、兄の一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先をしっかりと見届けた上で、帰ってくるのです。
これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。
「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。
この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。
この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。
……あゝ いとしくおもふものが
そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといふいゝことだらう……
つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末まで見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違がある理由は、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。
◇ ◇
學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。
「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。
トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その死の年の前半だったということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一諸について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。
そしてついに11月27日が来て、トシの臨終に立ち会った賢治は、その決死の覚悟にもかかわらず、妹とともに「死ぬことの向ふ側まで一諸について行って」やることはできませんでした。
一人残された賢治は、深い悲しみに引き裂かれる一方で、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けるのです。
翌年の1923年(大正12年)夏に、賢治が北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする意図がありました。
この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。
まず「青森挽歌」では、次のように。
(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)
また「オホーツク挽歌」では、次のように。
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。
駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
(そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ
このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。
この一連の賢治の葛藤が、より昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことでした。
この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」で賢治は、次のように書きました。
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
……それはもうさうでなくても
誰でもおなじことなのだから
またあたらしく考へ直すこともない……
で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。
……あゝ いとしくおもふものが
そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといふいゝことだらう……
そして、まさにこの年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、
《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。
と、書いておられます。
つまりこの「銀河鉄道の夜」という物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。
◇ ◇
さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。
本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。
ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。
あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。
第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
(角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)
すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が互いに父母や兄弟となるのだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それは普通の人間にはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった暁には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、ただただ自らの往生を願う」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に進もうとするところが、違っています。
しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしないというところは、親鸞の考え方と同じなのです。
一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり異なっています。
すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれにおいても亡き親のために追善供養をすることは大切なのだと、強調しています。
おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送りました(書簡75)。
此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)
「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。
そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。
ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。
法然院・阿弥陀如来座像
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