あのくしゃくしゃの数字

 1924年(大正13年)3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首(ひとかべ)という集落で一泊して、翌25日は水沢にある緯度観測所を訪ねたようです。この間の様子は、「 〔湧水を呑まうとして〕 」、「五輪峠」、「丘陵地を過ぎる」、「人首町」、「晴天恣意」という連作に描かれています(「五輪峠詩群」参照)。
 「五輪峠」には、「何べんも何べんも降った雪を……」という一節が出てきますが、国会図書館近代デジタルライブラリーから、「中央氣象臺月報 全國氣象表」(下図)というのを調べてみると、この年の3月に入ってから24日までの期間のうち、水沢で雪が降らなかったのは7日間だけで、あとは「何べんも何べんも」雪が降りつづく日々だったことがわかります。(下図はクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 それにしても、賢治はこの日、何のためにわざわざ雪の峠越えをして水沢までやって来たのでしょうか。その目的は明示されてはいませんが、「水沢緯度観測所にて」と副題のある「晴天恣意」の下書稿には、最初の方に「数字につかれたわたくしの眼は……」と書かれていますし、最後は次のように終わります。

そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとするのです

 つまり、彼はこの観測所にある何らかの「くしゃくしゃの数字」=数値データを調べるために、ここを訪れたのではないかと思われます。

 水沢緯度観測所というとまず何よりも、当時世界で6ヵ所だけ設置されていたという国際的な緯度観測の最先端施設です。またここは、「土神ときつね」に「水沢の天文台」として登場するように、高性能の天体望遠鏡を有する天文観測所でもありました。
 緯度観測所の機能としてはこの二つが有名ですから、賢治がここに何かを調査しに来たとすれば、まず思い浮かぶのは、こういった領域のデータを見に来たのではないかということです。
 しかし、この頃の賢治は農学校に勤めており、もとより地球物理学にも天文学にも関心は高かったでしょうが、それらを調査するとすれば自分の専門外の「趣味」に属することになります。もちろん趣味も多彩な賢治でしたが、私が想像するのは、この時彼は農作物とりわけ米の作況を予想するために、気象や海水温のデータを調べようとやって来たのではないか、ということです。

◇          ◇

 賢治の恩師である盛岡高等農林学校の関豊太郎教授は、1907年(明治40年)に「東北の凶冷と沿岸潮流との関係に就きて」(『官報』明治40年4月15日-16日)という論文を発表しています。この研究の意義については、1966年に小沢行雄氏が、「低海水温の内陸気温に及ぼす影響について」(防災科学技術総合研究報告 第6号 1966年3月)という論文の冒頭で、次のように高く評価しています。

 東北地方・北海道地方など北日本の冷害凶作が夏期の著しい低温によってもたらされることは明らかである。ところでこの夏期低温を誘致する原因については、古く明治40年代から調査研究が進められ、三陸北海道沖の海水温の低さが注目されてきた。すなわち関は岩手県の広田湾及び宮古湾の沿岸水温から明治38年の凶冷の原因を考察し、寒潮面上を吹送してくる北東風又は東風は冷涼で陸地の温度を低下させること、一方太平洋上の温暖な海面からくる風は海岸付近の寒流上の冷気にふれて細霧を生じ雨をもたらすと説き、冷害年における海水温の異常を詳述した。この論文は冷害と海水温とを結びつけた考察の端緒であり、ここに指摘されている冷害年には沿岸海水温が異常に低くなるという事実は今日においても変更の余地はない。

 1915年から1920年まで関教授のもとで学んだ賢治は、この関教授の業績について当然勉強し、その後も冷害について考える際には、「三陸北海道沖の海水温」を意識していたはずです。また実際、この水沢緯度観測所訪問の前年である1923年に書いた「宗谷挽歌」には、

(根室の海温と金華山沖の海温
 大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

という一節が出てきます。場所は根室と金華山沖、すなわちまさしく「三陸北海道沖」に該当しており、少なくとも賢治はこの水沢訪問の前年には、「三陸北海道沖の海水温」をしっかりと頭に入れていたわけです。
 やはり国会図書館近代デジタルライブラリーで、「農商務統計表」から岩手県の米の収量を調べると、平年は702,480石に対して、大正2年(1913年)は461,405石で、平年を100とした作況指数は66と、極端な凶作でした。賢治が「大正二年の曲線と大へんよく似てゐます」と気にしているのは、この年も凶作にならないかと心配なのでしょう。

 この頃まで、彼はこういった気象データを水沢緯度観測所で調査していたのだろうと私は思うのですが、ちょうどこの年の7月末以降は、彼は「盛岡測候所」で調べるとともに、所長の福井規矩三氏に教えを請うようになったようです。
 後に福井規矩三氏からの口述筆記で作成された「測候所と宮澤君」という文章には、この頃の状況は次のように書かれています(日本図書センター『宮沢賢治研究資料集成 第2巻』より)。

 大正十三年は岩手県はひどい旱害であつたが、その年の七月末頃、あの君に始めてお目にかかつた。土用の入りの日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りののことなどは頭になかつた方と思ふ。そのときも帰つてからていねいな手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付が出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があつたが、大正十三年のは、とてもとてもきつかつた。雨が不足で一般に植付が困難であつたが、ことに胆沢郡永岡附近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつてきをつた。

 この年の旱害は、賢治が4月の時点で予想して、「測候所」という作品に「……凶作がたうたう来たな……」と書いているものでしょう。今回取り上げている3月25日の水沢緯度観測所訪問から10日あまりで、再び「測候所」に赴いているとは、よほど凶作が気になっていたのだろうと思われます。
 盛岡測候所が開所したのは前年の1923年(大正12年)9月のことで、これを受けて翌大正13年7月以降の賢治は、気象データをここで入手するようになったことは福井氏の話によってわかりました。ではそれまではどこで調査をしていたのかとなると、やはり前述のように水沢緯度観測所だと思われます。
 盛岡測候所ができるまでは、岩手県内にはあとは三陸海岸沿いに宮古測候所があっただけですが、花巻から北上山地を越えて宮古まで行くというのは、非常に大変なことです。測候所機能も備えていた水沢緯度観測所に行っていたと考えるのが、自然でしょう。

 ちなみに、金華山沖の海水温については、水沢観測所のお隣の測候所である宮城県石巻測候所が、1916年(大正5年)以降「金華山漁場ノ海水温」として発表しています(下図)。私としては、賢治が上の「宗谷挽歌」で触れたデータの由来は、この冊子のシリーズだろうと思うのです。(下図は国会図書館近代デジタルライブラリーより、「金華山漁場ノ海水温 第1号」(宮城県石巻測候所,1919)のp.19。クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『金華山漁場沖ノ海水温』より

 当時、水沢緯度観測所がこの冊子を所蔵していたという証拠はつかめていません。しかし、設立2年後の1888年(明治21年)以降、測候所として毎日6回の気象観測を継続し、全国に設置された測候所の一つとしての役割も果たしていた水沢緯度観測所としては、「お隣の測候所」の刊行物も、当然保有していただろうと考えます。

 すなわち、賢治が1924年3月25日に水沢緯度観測所において「かゞみ込」んでいた「くしゃくしゃの数字」とは、上記のように延々と何枚も続く、このような表のデータだったのだろうと思います。
 「宗谷挽歌」では、「(海温の)曲線」と記されていますが、この冊子にはグラフは掲載されておらず、数字が上のような表になっているだけです。賢治は、自分でこの表からデータをピックアップして、グラフにする作業もしていたのではないかと、私は思うのです。

奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)
奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)