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五輪峠 詩群

1.対象作品

『春と修羅 第二集』

14 〔湧水(みづ)を呑まうとして〕 1924.3.24(定稿)

16 五輪峠 1924.3.24(下書稿(二)手入れ)

17 丘陵地を過ぎる 1924.3.24(定稿)

18 人首(ひとかべ)町 1924.3.25(下書稿(二)手入れ)

19 晴天恣意 1924.3.25(下書稿(二)手入れ)

2.賢治の状況

 詩に残された内容からすると、賢治は1924年3月24日から25日にかけて、一泊二日で五輪峠を越えて水沢の緯度観測所へ出かけたようです。(下図参照)
 上記の5篇が、この間の行程に対応しています。

 最初の「一四 〔湧水を呑まうとして〕」では、賢治一人が村人たちと対置されていますが、「一六 五輪峠」では、誰かとしきりに会話しています。
 それに続く「一七 丘陵地を過ぎる」も、「きみ」への語りかけが作品の中心になっていますが、「一八 人首町」「一九 晴天恣意」では、また単独行動になっているようです。
 一緒に峠や丘陵地を歩いた同伴者が誰だったのかはわかりませんが、親しげに「きみ」と呼びかけたり、「何だって?」という賢治の質問に、一々「…です」と答えている関係からすると、相手は農学校の教え子なのではないかという気がします。作品中の記述からさらに推測すると、彼の家は五輪峠から見渡せば水沢の方角にあたり、もう少ししたら賢治がその家の植木の指導に行く予定のようです。また彼は近いうちに結婚することになっており、賢治がその話題を出すと「ストウブのやうに赤く」なって照れます。この春に農学校を卒業して、地元に帰って家を継ぐのでしょうか。

 次の「一八 人首町」は、25日の早朝の情景ですから、24日の晩は人首町で泊まったのかと思われます。「賢治街道を歩く会」のサイトによれば、人首(現奥州市米里)の「菊慶旅館」に宿泊したと推定されています。
 ここを出発した賢治が向かったのは、「一九 晴天恣意(下書稿(二))」の副題にあるように、水沢にある緯度観測所でした。ここで賢治は何かのデータを見せてもらって、細かい数字を相手にしたようです。
 水沢の観測所(現在の国立天文台水沢観測センター)は、当時世界で6ヶ所設けられた「緯度観測所」の一つで、たいへん格式のある施設です。賢治もここをお気に入りで、「風野又三郎」では、又三郎が「その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。」と自慢したり、「土神ときつね」では、狐がいばって「僕、(環状星雲を)水沢の天文台で見ましたがね」と言ったりします。

 この時の賢治の紀行は、当時の科学の最先端を訪ねるという意気込みもあってか、「五輪峠」や「晴天恣意」では近代物理学的な世界観について自分なりに整理をしながら、一方で「五輪(地・水・火・風・空)」というのが古代中国の元素論であったことをきっかけに、両者を対比して自由な思索を楽しみます。
 また、『遠野物語』のふるさともここから遠くありませんが、「晴天恣意」にはそのような民俗世界を彷彿とさせるような、ちょっと怖い伝承も登場します。
 結局は、科学の言うところと昔の人が考えたことは同型であると賢治は考え、さらに仏教的に、「世界はたゞ因縁があるだけ」という所に行き着きます。