晩年文語詩と「離見の見」

 賢治が最晩年、死の1ヵ月前にも推敲と清書を重ねていた「文語詩稿」・・・。そこでは言葉が最少限にまで削ぎ落とされ、濃縮されたエッセンスのような状態になっているため、普通に読んだだけでは意味がわからないものもたくさんあります。後年、童話や『春と修羅』に収められたような口語詩が高く評価されるようになっても、文語詩に関しては「病床における手すさび(中村稔氏)」として、他の創作からは一段後退したものと見なされる傾向もありました。
 それでも賢治自身は、自らの文語詩稿を指して、「なっても駄目でも、これがあるもや」と語っていたという妹クニの証言があります。作者としては、確固とした自負を持った作品群だったわけです。

 そのような賢治の文語詩の特徴を、例えば入沢康夫氏は次のようにまとめておられます(「賢治の文語詩」:『宮沢賢治 文語詩の森』所収)。

 賢治の文語詩に見られる非常に大きな特色は、すでに何人もの研究家たちによって指摘されているとおり、発想の元にあった「私性」「個別性」「具体性」が、推敲が進み、稿が改められるごとに薄れて行って、「三人称性」「客観性」「普遍性」がそれにとって代わる点にある。そのために、作品の背景にあるものが何かを知るのに、初期形態を参照しなければならないようなケースが往々生じている。それほどまでの「個別性からの脱却」を賢治はなぜ必要としたのか。

 今回は、なぜ賢治はそれほどまでに「個別性からの脱却」を必要としたのか(あるいは結果的にしてしまったのか)について、最近感じたことの一つを書いてみます。

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 「個別性からの脱却」の例は、枚挙に暇がありませんが、例えば「〔水と濃きなだれの風や〕」(「文語詩稿 五十篇」)。

水と濃きなだれの風や、  むら鳥のあやなすすだき、
アスティルベきらめく露と、 ひるがへる温石の門。

海浸す日より棲みゐて、  たゝかひにやぶれし神の、
二かしら猛きすがたを、   青々と行衛しられず。

 これだけを読むと、ほんとうに何のことかよくよくわかりませんね。しかし、この「定稿」の左下の、「←前の草稿形態へ」というリンクをクリックしていただいて、推敲される前の段階へと順々にさかのぼっていただくと、少しずつ「具体性」が明らかになってくるところがおわかりいただけると思います。
 すなわち、この作品は早池峰山を舞台としていて、上に掲げた最初の2行は、山の中腹の雄大な自然を描いたものだったのです。
 そしてさらに前の草稿形態へとさかのぼると、「〔水よりも濃いなだれの風や〕」という口語詩の段階に到達し、さらに一段階前に行くと、これは元は「春と修羅 第二集」の「山の晨明に関する童話風の構想」という作品だったことがわかります。この作品は、1925年8月11日に賢治が一人で早池峰山に登った時の情景、そこで遭遇した美しい自然を、色とりどりのお菓子に喩えつつ、「イーハトーボのこどもたち」に向かって、「この底なしの蒼い空気の淵に立つ/巨きな菓子の塔を攀ぢやう」と呼びかけるものでした。 そのテキストからは、この登山中に賢治が想像したであろう子どもたちの歓声や笑顔が浮かび上がってくるようであり、またそこには、まだ彼が「イーハトーボ」に素朴な夢を託していた時代の雰囲気も、明らかに漂っています。

 このテキストから反転して、今度は時間順にもう一度推敲・改作の跡をたどり直すと、次の「〔水よりも濃いなだれの風や〕」においては作品番号やスケッチ日付などの「私性」を帯びた標識が消去されるとともに、テキスト中から「わたくし」「ぼく」という一人称の表現が削られます。同時に、「この青ぞらの淵に立つ/巨きな菓子の塔こそは/白堊紀からの贈物」として、早池峰山の地質学的歴史性への連想が現れます。
 その後、文語詩化されてからも「菓子」への比喩は続きますが、「下書稿(二)手入れ1」までの段階では「さながらの菓子」「菓子をもて盛られしに似て」というような直喩表現もあったのに対して、「下書稿(二)手入れ2」以降は隠喩表現のみとなり、比喩を行う「主観」の存在は、後景に退きます。
 そして、「下書稿(三)」に至って、お菓子の比喩は姿を消して、「海浸す日より棲みゐて/たゝかひにやぶれし神」が登場し、作品の射程ははるか遠い過去にも至るものとなります。
 ここで、やや唐突に登場した「たゝかひにやぶれし神」の正体はまだ不明ですが(私の思いつきの一つは以前に「たゝかひにやぶれし神(1)」に書きましたが)、これによって作品は最終的に、作者の個人的な経験やその時代を超越した、深遠な風景画のような趣を獲得します。その画面からは、山をわたる風の濃密感、にぎやかな鳥のさえずり、そして青く重なる山並みの向こうに消えた神々の伝承までもが、立ちのぼってきます。

北上山地

 「個別性からの脱却」とは、例えば上のような経過をたどって行われるわけです。この作品では、一人称的表現は完全に消し去られましたが、中には「われ」の存在が残っている作品もあります。
 例えば、「〔温かく妊みて黒雲の〕」(「文語詩稿 五十篇」)。

温く妊みて黒雲の、      野ばらの薮をわたるあり、
あるひはさらにまじらひを、  求むと土を這へるあり。

からす麦かもわが播けば、  ひばりはそらにくるほしく、
ひかりのそこにもそもそと、 上着は肩をやぶるらし。

 「からす麦かもわが播けば・・・」として、作者自身も現れていますが、この作品の原型は、「←前の草稿形態へ」のリンクをたどって行っていただけばわかるとおり、「〔燕麦の種子をこぼせば〕」(「春と修羅 第三集」)でした。そこでは、作品の主題は、黒雲でもからす麦でもなく、その時に作者が目撃した「酒買船」と、船に乗っている人々の「憎悪の眼」でした。そして、そのような人々への賢治自身の嫌悪感と、「あんなのをいくら集めたところで/あらたな文化ができはしない」という彼の思いが表明されます。
 ところが、それが文語詩になると、このような個人的感情を伴う部分はきれいに削除され、最終的には上のような形になっているのです。ここにも形としては「われ」は登場していますが、それは風景画の中に描かれている一人の匿名の農夫のように、胸の内にどんな感情を抱いているかもうかがい知れません。先駆形においては作者の不機嫌の一つの原因になっていたと思しき上着の破れも、「上着は肩をやぶるらし」と表現されるだけで、これは客観的というか、まるで他人事のような描写です。

 つまり、賢治の場合の文語詩化とその推敲は、「元となる昔の体験」(しばしば短歌や口語詩としていったん作品化されている)から、自身の個人的感情を排除して、作者自身は姿を消すかあるいは一個の点景になり、一幅の風景画のように仕上げていく作業のように見えます。作品の内容は、最初は作者自身の「眼」から見られていた現象(心象)であったのが、その視点は作者を離れて後ろに退き、いつしか作者自身も含めて、全体像を見渡す位置からとらえられた情景になるのです。

 ここで私は、世阿弥がその能楽論の中に書き残した、「離見の見」とか「目前心後」という言葉を連想します。

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 「離見の見」「目前心後」とは、能を舞う時の奥義的な心構えとして、世阿弥が名づけた境地です。世阿弥中期の『花鏡』には、以下のようにあります。

 また、舞に、目前心後と云ふことあり。「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。これは、以前申しつる舞智風体の用心なり。見所より見る所の風姿は、わが離見なり。しかれば、わが眼の見る所は我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまへず。
 さるほどに、離見の見にて、見所同見となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。

 すなわち、目は前にありながらも、心を後ろに置くことによって、「自分の後ろ姿まで」を見ているという境地が、「目前心後」だということです。また、自分の目で見ている(=「我見」の)状態を超越して、心が自分の身体を離れて(一種の「体外離脱」をして)、自分も含めた全体像を見ている状態が、「離見の見」だというのです。

 これは、一つの道の奥義を極めた人の到達する段階であって、凡人にはそのまま体験できることではないでしょうが、それでも例えば大勢の人前で講演をする時などに、ただ一方的にしゃべるだけでなく、自分の声の調子、表情、動作などに対してなるべく客観的に注意を向けながら話すことができれば、それはよりよいパフォーマンスにつながるでしょう。世阿弥の境地は、それをさらに長年の厳しい修練によって推し進めたものかとも思います。

 さて、賢治の文語詩の世界を眺めると、上に整理してみたように、自分自身を含めた全ての情景を、その時の個人的感情を除いて客観的に描こうとする態度が見てとれ、それは世阿弥の云う「離見の見」の境地と似ているように思われます。個別性を離れることによって、「たゝかひにやぶれし神」のように肉眼では見えない存在までを透視してしまっている場合もあります。
 しかし実際には、賢治は世阿弥のような「目前心後」を実行していたわけではなさそうで、それどころか、「心象スケッチ」と称して口語詩を量産していた頃は、いわゆる「外界」と「内界=自身の内的体験」の分離さえもせずに、それらの未分化な状態を「心象」として記述するという作業をしていました。「離見の見」とは、正反対のスタンスだったとも言えます。

 それでは、いかにして賢治はあたかも「離見の見」と同じような操作を自らの体験に施し、文語詩として定着できたのでしょうか。
 それは一つには、世阿弥の「離見の見」が、「空間的に離れて見る」という(体外離脱的)方法だったのに対して、賢治の場合は、過去の体験を対象化することによって、「時間的に離れて見る」という方法をとったことによるのでしょう。誰しも、十分な時間の経った過去の出来事に関しては、自分の言動も含めてそれなりに客観的に振り返ることができます。
 もう一つ、賢治にとって特に重要だったと思うのは、「時間的に離れる」ために経過した年月の間に、二度にわたって殆ど死の間際までいくような大病を経験したことです。そのことが、晩年の文語詩創作にあたる賢治の感性に、非常に重要な意味を持っていたのだろうと私は考えるのですが、これについてはまた後で触れることにして、ここではいったん世阿弥の能の特性について、古東哲明氏の論を参照させていただきます。

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 古東哲明氏は『他界からのまなざし』(講談社選書メチエ)において、世阿弥がおもに用いた「複式夢幻能」という形式の特徴を、次のように整理します。

 主人公(シテ)はまずは、人間の姿でこの世にあらわれる(序から中入りまで)。だがのちに(破から終幕まで)、他界からのマレビト(死霊)としてのその正体をあらわす。おもてむきは「妄執」ゆえというのが、他界からこの世にもどってきた理由だが、しかし一曲全体の趣向からしても、そのセリフ内容の含蓄からしても、そんなうらみ・つらみのニュアンスは希薄だ。むしろ世阿弥の意図はあげて、ヴェンダース監督同様に、観客のまなざしを幻容させることを通じて、

≪人間の運命やこの世のありさまを、日常や社会的レヴェルを越える場所との関連から、感じ考えみなおすこと≫

にあるように思われる。死後世界という、この世を極端にまで乖離した異空間を設定し、そこから此岸なるこの世界を透視すること。つまり『ベルリン・天使の歌』の天使たちと同様、世界や生を死後の世界との関係性の中におきなおし、それを濾過して凝視(みつ)めなおすこと。つまりシテ(死者)の眼を見所(生者)に移植すること。これが、夢幻能形式のドラマトゥルギーだと考えられるのである。

 つまり、能を見る観客(見所)は、実は死者である「シテ」とともに、いったん「あの世」の方から「この世」を見るという立場に連れて行かれ、そして死者が供養され鎮魂されることによって、最終的には「この世」に戻るという構成になっているわけです。そして、能という劇がこのように構成されている目的は、観客に「他界からこの世この生を覗きみる視座」を装填すること、そしてその視座から、「この世この生に在ることの幸せ」(=存在の神秘)をあじわうこと」だというのが、古東哲明氏の指摘です。
 さらに、そのように死者と生者のあわいで此岸と彼岸を往還する劇を演ずる能楽師の技法として、世阿弥は「内心」「無心」「無感」などの心構えを、そしてそのための態度として「離見の見」「目前心後」ということを説いたのです。

 私は、宮澤賢治が晩年の文語詩において表現しようとしたのも、これと同じような、「この世の生への畏敬」「生そのものの神秘」ということだったのではないかと思います。そしてその方法論としては、若い頃に自己の知覚現象を直接記述しようとした「心象スケッチ」とは対極的な、「個別性からの脱却」を採用しました。
 賢治がそのように変化した理由は、前述のように二度にわたって死線を彷徨った経験があったためだろうと、私は思います。これによって、「生への愛惜」はさらに切実なものとなったでしょうし、またその時の「魂魄なかばからだをはなれた」ような体験は、若い頃のように生のまっただ中で歌うのではなく、少し距離を置いた場所から「この世」を描くというスタンスを、彼に与えたのではないでしょうか。

◇          ◇

 賢治が闘病中に書いた作品は、全集において「疾中」として分類されています。その中でも有名な、上にも一部を引用した「眼にて云ふ」は、次のような作品です。

   眼にて云ふ

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

 ここには、死を間近に感じながらも、そのような自分を冷静に眺めているような作者がいます。もちろん、「きれいな青ぞらと/すきとほった風」を見ているのは作者の「目」ですが、本人も「魂魄なかばからだをはなれたのですかな」と半分面白そうに言っているように、自分や周囲の人や景色を感じている「心」は、自分から少し離れたところにいるかのようです。
 まさにここにおいて、世阿弥が「目前心後」と言った態度が、偶然にも実現しているではありませんか。そしてこのようにして自分や世界を見るその見方こそが、世阿弥の言う「離見の見」なのではないでしょうか。

 賢治は、1928年12月と1931年9月の二度、死を覚悟するほどの重態に陥りました。そして、その二度目の病臥は長引いて回復する兆しも見られず、賢治自身も死期の遠くないことを、またあらためて覚悟していたでしょう。今度こそ、「三度目の正直」と感じていたのではないでしょうか。
 その病床で、文語詩の推敲・清書は行われていきました。推敲が重ねられるたびに、作者の「私性」「個別性」「具体性」は削られていき、かわりに詩は不思議な普遍性を身につけていきます。主観性をできるだけ排除したところに、静謐な絵のような描写が生まれました。
 そしてそこに描かれるのは、「この世」の側からと言うよりもまるで「あの世=草葉の陰」から、この世界を眺めているような景色でした。そこには悲しみも喜びもユーモアもありますが、どれも「生きている世界」そのものに対する慈しみにあふれ、その尊さを謳歌しているのです。


 さて、私が述べたかったのは、だいたい以上のようなことです。晩年の文語詩において賢治が対象を描写するスタンス、すなわち「個別性からの脱却」を果たしている状況は、偶然にも世阿弥の「離見の見」と似たものになっていると私は思います。しかしそれは何も、賢治が特定の表現効果を狙って意識的に採用したものではないでしょう。
 図らずも賢治が、死を潜り抜けてまたかろうじて「生」の側に出てこられたことは、世阿弥の能が人をいったん「あの世」へ連れて行き、また「この世」へと返す構成になっていることとたまたま一致しています。そして「銀河鉄道の夜」のようなこの体験は、能の観客となることとは比べものにならないほどの強さで、賢治の何かを変容させたのだろうと思います。

◇          ◇

 古東哲明氏という哲学者は、おそらく能をこよなく愛しておられるのでしょう。能を観る体験については、次のように書いておられます。

 実際の演能では、観客であるこちらがわまで、まるで一幅の至福のひかり絵でもみるかのようなこころもちで、この世の光景を遠望する。演能現場では、「この世こそ寂光土ではないか、往きつく他界とはこの世のことではないのか」、そんな感興をともなった、ある新しい感覚さえ蘇ってくるはずだ。まさに<向こう側>から観るゆえに、である。

 「この世こそ寂光土ではないか」という認識、あるいは少なくとも「この世こそ寂光土にしなければならない」という思想は、賢治自身が強く念じ、「銀河鉄道の夜」など作品中にも繰り返し現れるテーマであったことは、あらためて私に不思議な感興を呼び起こします。

【参考文献】
・古東哲明: 『他界からのまなざし 臨生の思想』(講談社選書メチエ)
・入沢康夫: 「賢治の文語詩」(『宮沢賢治 文語詩の森』柏書房)
・小西甚一編訳: 『世阿弥能楽論集』(たちばな出版)

【関連エントリ】
賢治詩の変容