一昨年に、「雪の日に来る恋人」という記事を書きました。その時に取り上げたのは、「〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕」(「詩ノート」)という作品でした。
一〇〇四
一九二七、三、四、今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです
ひるすぎてから
わたくしのうちのまはりを
巨きな重いあしおとが
幾度ともなく行きすぎました
わたくしはそのたびごとに
もう一年も返事を書かないあなたがたづねて来たのだと
じぶんでじぶんに教へたのです
そしてまったく
それはあなたの またわれわれの足音でした
なぜならそれは
いっぱい積んだ梢の雪が
地面の雪に落ちるのでしたから雪ふれば昨日のひるのわるひのき
菩薩すがたにすくと立つかな
その少し前に、この作品に出てくる「あなた」とは保阪嘉内のことではないかと、signaless さんがブログ記事に書いておられて、私もその考えに賛意をこめて、記事を書いたのです。
この「今日」というのがどういう日であったのかということは、その際の記事で触れたのですが、いわば1921年7月の嘉内との最後の会見以降、賢治がずっと心に抱いていた「農」への思いが、羅須地人協会において「あかるくにぎやかな」形に、ひとまず結晶した日だったと言えるでしょう。
さて、最近になって私は、賢治が上の作品において、梢の雪が地面に落ちる「巨きな重いあしおと」を聴いて「あなたがたづねてきた」と感じたというのは、象徴的で面白いことだと、あらためて思いました。
というのは、古代から「まれびと・まろうど(客人)」は、その来訪を知らせる「音」を伴って現れるということになっていたらしいからです。「訪れ(おとづれ)」の語源は、「音・連れ」ということにあり、「訪う(おとなふ)」の語源も「音・なふ」ということです。(『岩波古語辞典』によれば、「おと(音)なふ」の「なふ」という語は、「とも(供)なふ」「うべ(肯)なふ」のように、「上の体言の行為・動作をする意」を表すとのことです。昔は、「門口で咳ばらいをしたり扇子を鳴らしたりして音を立て、来訪を知らせ」たということで、「音」と「来訪」は現代よりも密接に関連していたようです。)
また折口信夫は、「古代生活の研究 常世の国」(1925)において、次のように書いていました(青空文庫:「古代生活の研究 常世の国」より)。
八 まれびとのおとづれ
祖先の使ひ遺した語で、私どもの胸にもまだある感触を失はないのは「まれびと」といふ語である。「まらうど」と言ふ形をとつて後、昔の韻を失うて了うた事と思はれる。まれびとの最初の意義は、神であつたらしい。時を定めて来り臨む神である。大空から、海のあなたから、或村に限つて、富みと齢と其他若干の幸福とを齎して来るものと、村人たちの信じてゐた神の事なのである。此神は宗教的の空想には止らなかつた。現実に、古代の村人は、此まれびとの来つて、屋の戸を押 ぶるおとづれを聞いた。音を立てると言ふ用語例のおとづるなる動詞が、訪問の意義を持つ様になつたのは、本義「音を立てる」が戸の音にばかり偏倚したからの事で、神の来臨を示すほと/\と叩く音から来た語と思ふ。まれびとと言へばおとづれを思ふ様になつて、意義分化をしたものであらう。戸を叩く事に就て、根深い信仰と聯想とを、未だに持つてゐる民間伝承から推して言はれる事である。宮廷生活に於てさへ、神来臨して門におとづれ、主上の日常起居の殿舎を祓へてまはつた風は、後世まで残つてゐた。平安朝の大殿祭は此である。
夜の明け方に、中臣 ・斎部 の官人二人、人数引き連れて陰明門におとづれ、御巫 (宮廷の巫女)どもを随へて、殿内を廻るのであつた。かうした風が、一般民間にも常に行はれてゐたのであるが、事があまり刺戟のない程きまりきつた行事になつてゐたのと、原意の辿り難くなつた為に、伝はる事尠く、伝へても其遺風とは知りかねる様になつて了うてゐたのである。此よりも古い民間の為来 りでは、万葉の東歌 と、常陸風土記から察せられる東国風である。新嘗の夜は、農作を守つた神を家々に迎へる為、家人はすつかり出払うて、唯一人その家々の処女か、主婦かゞ留つて、神のお世話をした様である。此神は、古くは田畠の神ではなく、春のはじめに村を訪れて、一年間の予祝をして行つた神だつたらしい。
此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に一年中の心躍る様な予言 を与へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を、高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくても、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。私の話はまれびとと「常世 の国」との関係を説かねばならなくなつた。
彼方から来訪する「まれびと」は、戸をたたく風の音、森を揺らす音など様々な物音とともに、この世界に現れるのです。
これに続いて折口信夫は、「まれびと」がどこからやって来るのかと問い、それは「常世の国」すなわち海の彼方の理想郷であり、また琉球の伝承では「ニライカナイ」と呼ばれる地であっただろうと推論します。
さてここに、「カナイ」という語が登場しました。
実は、保阪嘉内の「カナイ」という名前は、「ニライカナイ」に由来するという説があります。大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)には、次のように記されています。
「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられている楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人(マレビト)信仰に基づくという。ニライカナイからは豊穣をもたらす神が年ごとにこの世に来訪するという信仰があり、神道でいう「常世の国」にあたるものと考えられている。(中略) 嘉内が海の彼方ならぬこの地上に楽園―花園農村を作ろうと志したことを考えると、嘉内自身が稀人そのものであったかのようにさえ思われる。
保阪嘉内の父親・善作は、神道の一派である「禊教」の熱心な信者であったということで、このような琉球古来の信仰にも詳しかったのでしょうか。
しかし、嘉内が生まれた1896年(明治29年)の時点で、「ニライカナイ」という言葉が奄美・沖縄以外の本土の人に知られる状態にあったのかどうかについては、検討の余地が残されているように思います。(沖縄県尋常中学校教諭の田島利三郎が琉球の古歌謡集「おもろさうし」を発見したのが1894年(明治27年)頃、「琉球語研究」を発表したのが1900年(明治33年)、伊波普猷が第三高等学校時代に「琉球の歴史と其言語と」「琉球史の瞥見」を発表したのが1901年(明治34年)のことでした。琉球の歴史や民俗に関する研究は、この辺りからやっと始まったのです。)
しかしいずれにしても、この舞台設定は、私に面白く感じられます。
ある春の日、「マレビト(客人)」たる保阪嘉内が、花園農村からはるばるやって来て、「巨きなあしおと」とともに賢治を「オト・ヅレ」る・・・。
それに折口信夫は、「まれびと」は風の音とともに訪れると書いていますが、そう言えば「風の又三郎」も、「どっどど どどうど どどうど どどう」という風の音とともに、ふとこの世界に現れたではありませんか!
signaless
「訪れる」は「音ずれる」であったのですね。
ます音を聞いて来訪を知る、そしてそれを「言葉」にしてしまう、というのはなんと繊細な感性でしょうか。本来日本人は誰もが神の音を聞く耳を持っていたのでしょう。しかし、現代はあまりに「音」が氾濫しすぎていて、私たちはいつの間にか大切なものをなくしてしまったのではないかと思いました。
今回拝見していて気になったのは8行目の「じぶんでじぶんに教へたのです」という表現です。「そう思った」や「そんな気がしてしかたがなかった」ではなく、「じぶんでじぶんに教へた」…。嘉内への想いの強さがそこに現れている気がします。
「「あかるくにぎやかな」形に、ひとまず結晶した日」に、嘉内がこれを見ればきっと喜んでくれるに違いない、いや、それどころかきっと嘉内の魂がここに来てくれたのだ。そうだ、そうに違いない。なぜなら自分がしっかりとそこに嘉内の気配を感じているのだから…。
会わずとも、二人の心の絆はしっかりと結ばれていたのだとあらためて感じました。
mishimahiroshi
昔の人は喧騒とは程遠い静寂の中に暮らしていたと思います。同様に夜の明るさとも。
静寂の中に訪れる何かには心踊らせたり、怯えたりしたに違いありません。
「音のかそけきこの夕べかも」「風の音にぞ驚かれぬる」とは秋の忍び寄る気配を音で感じたもの。
雪が梢から落ちる音に袂を分かった親友の訪問を思う。
これは友への思慕や再訪への期待感がそうさせるのでしょうが、純白の世界にあってそれは賢治にとって寂しくも豊穣の思いだったのでしょうね。
signalessさんの鑑賞は素晴らしいと思います。
余談ですが、ぼくがフルートを吹くと人が訪ねてくると言われました。
音ズレ・・・失礼しました。
hamagaki
signaless 様、mishimahiroshi 様、こんばんは。
「じぶんでじぶんに教へた」・・・。本当にそうですね。これはとても意味の深い、賢治の切実な気持ちが現れた言葉ですね。
そう「感じた」のではなく、いわば意識的に、(実際はそうではないと頭ではわかっていても?)あえて自分で一つの場面を設定せずにいられなかった、という感じがありますね。あらためて、嘉内とまた一つの空間と理想を共有するために・・・。
また、mishima さんご指摘のように、「音」に対する繊細さというものも、昔の日本語から感じます。本文にも引用したように、昔は「門口で咳ばらいをしたり扇子を鳴らしたりして音を立て、来訪を知らせ」たということですが、こんな小さな音で屋敷の中にいる人に知らせられるなんて、現代の生活環境からは不思議さえ感じるほどです。
あ、ところで mishima さんもフルートを吹かれるんですか・・・。
mishimahiroshi
スミマセン。
フルートは音を鳴らしただけです。
音色にもなっていませんし音ズレです(苦笑)。
高校の音楽の授業がなんとブラスバンドでして、これは当時全国的にも珍しいケースらしいのですが、わたしはコルネットを担当していました。
普通高校ですからみんな大変下手くそです。でも面白かったですね。
遊びでいろいろな楽器を吹きました。
リード楽器はうまく吹けず、フルートは音が出たのです。
サックスで芸大に行った知人がほっぺたをブルドッグのように下げて
「みっちゃんの音はみんな低くズレてるよ」
と笑ったことを印象深く記憶しています。
彼は今、洗足学園の教授。奥さんも芸大出身で賢治をよく扱うオペラシアターこんにゃく座
http://www.konnyakuza.com/index.aspx
でピアノを弾いています。
そこに加えて高校の後輩が今度「光の素足」を能でやるってことで、妙にこんがらがっています。
ぼくは一回会っただけですが、先の友人のブラスバンド部の後輩です。
http://www.hosoya-artist.com/artist/nakasho.html
国立能楽堂ですが行けたらなあと思っています。
hamagaki
音楽の授業でブラスバンドとは、ユニークですね。そして mishima さんの周りには、素晴らしい方がたくさんおられるようで素敵です。
こんにゃく座はこれまで2回ほど賢治作品を見に行きましたので、私はその方のピアノを、きっと聴いているはずですね。
そして12月の現代能「光の素足」は、私もぜひ行きたいなあと思っているところです。(^_^)
ナオ
マレビトのオトヅレを読んで、改めてこの詩を味わいました。いい詩ですねえ。今、私の部屋にかすかに聞こえるお湯が沸く音、掛け時計の音さえもなんだか愛おしくなりました。最近、音・サタのない友、忙しさにかまけて音・シン不通になった人を思い出してます。こないかなあ。
名前って不思議ですね。ただの記号ではなく、なんだかその人を運命づけるものがあるような気がすることがあります。嘉藤冶さんという名前もすごい名前ですよね。清六さんは二男なのにどうして六なのかなあ...なんて思ってしまいました。
hamagaki
ナオさん、こんにちは。
二男なのに「清六」さんは、たしかに不思議ですね。仏教用語に、「六根清浄」という言葉がありますが、これからとったのだろうかと考えてみたりしました。「六根清浄、お山は晴天、…」というのは登山の時の掛け声だそうで、賢治も岩手山に登る時に唱えていたそうですね。
同様に、賢治の父の「政次郎」さんも、長男なのにどうして?と疑問は尽きません。