たゝかひにやぶれし神(1)

 「文語詩稿 五十篇」の第二番目に収められている「〔水と濃きなだれの風や〕」は、私のとても好きな作品の一つです。

水と濃きなだれの風や、  むら鳥のあやなすすだき、
アスティルベきらめく露と、 ひるがへる温石の門。

海浸す日より棲みゐて、  たゝかひにやぶれし神の、
二かしら猛きすがたを、   青々と行衛しられず。


 初めの二行は、早池峰山を中心とした北上山地の自然を美しく雄大に描きます。透明で濃密な、まるで液体のような風が吹き、鳥たちは入りみだれ鳴きかわし、アスティルベの小さな白い花に露はきらめき、北上山地特有の大きな蛇紋岩も、風に揺れるかのようです。
 後半になると、一転して「たゝかひにやぶれし神」のことに想いが馳せられます。この「神」の正体は、これまでの研究でもまだ謎のままなのですが、たとえ具体的なモデルがわからなくても、この二行からは神話的で厳かな雰囲気が立ちのぼってきます。
 そして、最後の「青々と行衛しられず。」の結びに至って、読者の心には青々と重なる北上の山々の姿が残り、ふたたび前半で描かれた「自然」に戻るのです。

 ことにその前半部には、賢治独特の感性がきらめいていますが、全体は「五七調」のリズムのどっしりとした安定感に支えられ、まるで万葉集の歌の持つ響きにも通ずるような荘重さも感じられます。


 さて、ここでまた先日に続いて「神」の話になってしまうのですが、後半に出てくる「たゝかひにやぶれし神」について、です。
 信時哲郎さんは「近代文学ページ」の「文語詩稿 五十篇 評釈一」において、この神の正体について、(1)「早池峰の女神」説、(2)「インドラ神話」説、(3)「恐竜」説、というこれまでの研究者による三つの説を紹介し、結局は「正直言ってどれも決定力には欠けると言わざるを得ない」とまとめておられます。
 私は、これにさらに一説を加えるなどという大それたことをするつもりは全くないのですが、実はこの部分を読む時、自分の個人的な「思い入れ」というのがあります。
 それは、この「二かしら猛きすがた」を、蝦夷(エミシ)のリーダーとして朝廷軍に対し果敢に戦い、最後は征夷大将軍・坂上田村麻呂に投降してこの地から去っていった、阿弖流為(アテルイ)、母禮(モレ)という二人の武将に重ねる、という読み方です。

 781年に即位した桓武天皇は、東北の「まつろわぬ民」=蝦夷を征討しようと、786年に蝦夷征伐の動員令を発します。789年に、紀古佐美を将軍とした征討軍が派遣され、2万3000以上の兵を擁する朝廷軍は、当初は戦果を上げつつ進むように見えましたが、巣伏村(現在の水沢市あたり)で北上川を渡ろうとした時、アテルイとモレの率いる数百騎単位の蝦夷軍に急襲され、3000もの死傷者を出して敗退します。アテルイの活躍は、まさに「寡兵をもって多兵を破る」鮮やかなものだったと言われています。
 794年には、朝廷は10万もの大軍を派遣し、今度は蝦夷軍も応戦しきれず、胆沢と志波の地を失います。その後、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、801年に4万の軍でさらに攻撃を仕掛け、802年に胆沢城を造成して強力な軍事的根拠地とします。ここに及んで、アテルイとモレは、これ以上の抵抗戦争はもはや不可能と判断し、軍勢500余名を率いて田村麻呂の前に投降しました。
 敗軍の将である二人は京都へ連行され、坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、河内国で処刑されたということです(『日本紀略』)。

 この辺のストーリーは、高橋克彦著の小説『火怨 北の耀星アテルイ』において、劇画調に活き活きと描かれており、興味をお持ちの方には一読をお勧めします。アテルイとモレというのがどんな人物だったのかということについて、史料的には何も残されていないのですが、この小説では、アテルイはすぐれたリーダーシップを持った勇敢な武将として、モレは智略に長けた参謀として登場します。そして二人の間の深い友情の絆が、なにより印象的です。(余談ですが、三谷幸喜脚本の一昨年のNHK大河ドラマ「新選組!」のファンだった者としては、「たゝかひにやぶれし」ところも含め、思わずこれは近藤勇と土方歳三の二人のキャラクターに重なり合ってしまいます。)

 さて、宮澤賢治とこれらの話の関連をあえてたどれば、アテルイがモデルになっていると言われる「悪路王」という存在に行き当たります。ご存じのように、『春と修羅』所収の「原体剣舞連」においてこの「悪路王」が登場するのですが、本来は剣舞と悪路王伝説は無関係なものと考えられていました。しかし中路正恒さんは、「ひとつのいのち考 ―宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって―」という論考において、すでに現在は廃れてしまった剣舞の一つに、達谷に住む悪路王らしき鬼の討伐と関連する伝承を持ったものがあることを見出し、賢治がこのような伝説を耳にした上で、「原体剣舞連」の中に引用した可能性を示唆しておられます。
 いずれにしても、現在は江刺市に属する原体地区が、アテルイが大活躍した789年の「巣伏村の戦い」の主戦場でもあったことを思うと、不思議な因縁のようなものを感じます。


鹿島神宮「悪路王の首像」 河内国で処刑されたというアテルイとモレが、その後どこに葬られたのかは不明ですが、様々な伝説が残っています。大阪府枚方市の片埜神社の隣に、「アテルイの首塚」と伝えられる「塚」があり、私は一昨年にここを訪ねてみました。また、岩手県平泉町にある「達谷の窟」は、悪路王が田村麻呂に首を刎ねられた場所であるという言い伝えを持っています。さらに、悪路王は都で首を刎ねられたが、「切られた首は、叫び声を上げながら空を飛び、故郷へ帰った」という伝説もあります。賢治の「原体剣舞連」では、悪路王の「首は刻まれ漬けられ」ます。一方、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮には、「悪路王の首像」が伝わっています(右上写真)。

 つまり結局、「行衛しられず。」なのです。

 賢治が、アテルイとモレなどという古代の武将について知っていたかどうかはわかりません。知らなかった可能性の方が高いのではないかとも思います。
 しかし、もしも知っていたら、彼が早池峰山に登っている時に、はるか昔にこの北上山地を縦横無尽に駆けまわり、太古からこの地で暮らしてきた民を守り、最後は消えていった蝦夷のヒーローの「二かしら猛きすがた」を、追想したとしても不思議はなかっただろうと思います。