1914年(大正3年)に岩手病院に看護婦として勤務していた高橋ミネという女性が、宮澤賢治の初恋の人だったという確証は、現時点ではまだ何もありません。しかし、1972年に川原仁左エ門氏が『宮沢賢治とその周辺』において高橋ミネさんの名前を挙げて以来、現時点でこれは最も広く知られる仮説となっています。
直接的な証拠もないのに、なぜ高橋ミネ説が有力と考えられているのか。実は川原仁左エ門氏の夫人の実家は、日詰のミネさんの実家(「高福」という大きな八百屋)の筋向かいだったということで、そのルートから具体的な情報があったのだろうというのが、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』の著者小川達雄氏の推測なのですが、残念ながら川原氏はその「具体的な情報」は書き残しておられません。「高橋ミネ説」が発表されたのもミネさんの死の翌年のことですし、川原氏が細かいことを明かさなかったのは、プライバシーへの配慮もあったのかもしれません。
しかし結果として、現時点で私たちの前には、「高橋ミネ説」を支持しているように見える間接的な所見しかありません。
今回、あらためてそれらの傍証を整理してみると、それは以下のような事柄です。
1.高橋ミネさんは後年まで賢治の入院を憶えていた
これは、以前に「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事にも書きました。北海道で晩年を送った高橋ミネさんは、当時同居していた義理の娘さんに、「岩手病院に勤めていた頃に、宮澤賢治が入院していた」と語っていたということです。この話をミネさんのご遺族にお聞きした時、私は一種の「奇跡」のように感じました。
かりに賢治が入院当時すでに有名人であったのなら、そういう人物を看護したことを後々まで記憶にとどめているのも理解できます。しかし、宮澤賢治の名前が世に知れ渡るのは、1933年に死去して後のことでした。となると、ミネさんは賢治の入院から少なくとも20年間は、その昔1ヵ月だけ看護した18歳の無名の青年の名前を、なぜかずっと憶えていたわけです。
ミネさんは賢治入院後も第一線で看護婦を続けられましたから、その後も何百人という患者さんと出会い、別れていったわけで、その「全員の名前」をずっと記憶しつづけるということは、到底不可能です。
その中で、なぜ「宮澤賢治」という名前が心に残っていたのか・・・。そこには何か、ミネさんの記憶に残るような要因があったのではないかと、どうしても考えてみたくなります。
1'.賢治の祖母は、ミネさんの出身地日詰の名家の生まれだった
この、賢治の祖母と日詰との縁は、上に述べた「ミネさんの記憶に宮澤賢治という入院患者の名前が残っていた」理由として、私にはもっとも有力と思える要因です。
賢治の父方祖母キンは、日詰の旧家である関家の次女でしたが、この関家というのは、南部藩勘定奉行頭の関七郎兵衛保憲の子孫で、キンの父である関善七は、日詰で「御殿暮らし」と言われる豪勢な暮らしをして遊芸を好んだということです。吉見正信氏は、『宮澤賢治の道程』の中で次のように書いています。
そうした旧家から賢治の祖父宮沢喜助に嫁したキンのことは、その嫁ぎ先を含めて町ではかなり語られていた話のはずである。したがって、宮沢家に関するミネの知識は、のちに日詰の町の世間話から得ていたものと思われる。
すなわち、ミネさんは地元の世間話から、すでに花巻の宮澤家については予備知識を持っていた可能性があるわけです。そうであれば、「宮澤賢治」という花巻出身の若者が入院してきた時、花巻の宮澤という家にお嫁に行った日詰の町の伝説的セレブのお嬢様について、ふとミネさんが話題にしたということはありえますし、もしそうなれば、この青年こそが宮澤家の御曹司であることを、ここでミネさんは知ったでしょう。
そして、当時そのような多少とも個人的な交流があったとすれば、それが、ミネさんが賢治の入院から50年以上もの月日がたってもその名前を記憶していたという「奇跡」の伏線となったと思われます。逆に現時点で私は、それ以外にこの超人的な記憶力を説明する仮説を思いつきません。
一方、賢治の側にすれば、何人もいる看護婦の中で、若い一人が自分の祖母のことを知ってくれていて、それを機に個人的な会話もはずんだとすれば、彼女のことを特に意識しやすくなるということは、大いにありえます。
2.その後の賢治は、恋心を日詰の方角に向けた
岩手病院から退院した賢治は、恋愛感情を歌った短歌を、多数作っています。
桑つみて
きみをおもへば
エナメルの
雲はてしなく
北にながるゝ 129a130きみ恋ひて
くもくらき日を
あひつぎて
道化祭の山車は行きたり 174a175君がかた
見んとて立ちぬこの高地
雲のたちまひ 雨とならしを 175山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも。 179志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し 179a180神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも 179b180
これらの短歌で注目されるのは、175に「君がかた見んとて立ちぬこの高地」とあるように、賢治はせめて「きみ」のいる方角を見ようとして、「高地」(神楽殿のある胡四王山)に登っているところです。そこから切実な思いをこめて眺めたのは、「志和の城」、すなわち日詰の町にある「城山」でした。
日詰が花巻の北方の町であることを前提とすれば、[129a130]において「雲はてしなく/北にながるゝ」と、「北」に向かう雲に思いを託すことも理解できますし、
北のそら
見えずかなしも
小石原
ひかりなきくも
しづに這ひつゝ 126
という歌で、北の空が見えないことを悲しんでいる理由もわかります。
また、後年になって賢治は、日詰まで農事講演に来る機会を持ちますが、その時のことを後に文語詩化した「水部の線」は、次のような作品です。
水部の線
きみがおもかげ うかべんと
夜を仰げばこのまひる
蝋紙に描きし北上の
水線青くひかるなれ竜や棲みしと伝へたる
このこもりぬの辺を来れば
夜ぞらに泛ぶ水線の
火花となりて青々と散る
ここで賢治は、「きみがおもかげ うかべんと」しているわけですが、それが誰のことなのか、なぜ急にそうしようと思ったのか、作品からは何とも言えません。その事情はわかりませんが、これが「日詰へ来た時の体験」であることを考えると、ミネさんが日詰出身だったことを、どうしても連想してしまいます。
この作品の初期形は、「おもかげと北上川」と題されていた段階もありました。そこで、「このこもり沼の夜の水に/あつきひたひをぬらさんと/夜草をふめば・・・」として出てくる「こもり沼」は、日詰の南はずれにある「五郎沼」という沼です。額が熱くなるほど、賢治は何かの思いを抱いていたのです。
さらに、1917年(大正6年)、賢治が盛岡高等農林学校3年の時に詠んだ短歌に、次の作品があります。
さくらばな
日詰の駅のさくらばな
風に高鳴り
こゝろみだれぬ 473
この桜は、よほど印象が強かったと見えて、賢治は何度も手を加え作品化します。
焼杭の
柵にならびて
あまぞらを
風に高鳴る
さくらばななり 473a474あまぞらの風に
高鳴るさくらばな
ならびて黒き
焼杭の柵 473b474あまぞらの風に高鳴り
さくらばな
あやしくひとの
胸をどよもす 473c474さくらばな
あやしからずやたゞにその
枝風になりてかくもみだるは。 474
ここで賢治がなぜか「こゝろみだれぬ」という状態になったのも、やはり「日詰」という場所においてでした。
以上、どれも確定的な事柄ではないのですが、いずれもが一つの方向を指し示しているように、私には思われてなりません。川原仁左エ門氏は、当時の看護婦名簿(現在は失われているとのこと)も参照して検討したということですが、賢治が入院していた病棟に勤務していて、賢治と同世代と言えるほど若い看護婦となるとかなり人数も限られたでしょう。
その中に、日詰出身の人がいたという事実は、やはり非常に意味があるように思えるのです。
◇ ◇
その日詰の駅前に、今年の4月下旬に賢治の歌碑ができたと聞いたので、私は先のゴールデンウィークに見に行ってきました。
歌碑除幕式に関する「岩手日報」の記事では、「その3年後、賢治が21歳のころミネさんを訪ね日詰駅に降り立った際に詠んだといわれている」と書いてありますが、残念ながら「賢治がミネさんを訪ねた」ことを示す史料は存在しません。もしも存在すれば、「高橋ミネ説」は即確定ということになりますが、賢治の性格からして、初恋の人を自分から訪ねるなどということはしなかったでしょう。それに「札幌のミネさん」に書いたように、1917年春には、ミネさんは札幌鉄道病院に勤務していた可能性が高いと思われるのです。
現在の駅前には桜はありませんが、上の記事によれば「駅前に住む滝浦良子さん(86)は「私が20歳頃にはホーム沿いにきれいな桜並木があった」と懐かしむ」とのこと。賢治の短歌を見ても、「焼杭の柵」(線路に沿っていたと思われる)にならんで、「さくらばな」があったと推測されますから、「ホーム沿いにきれいな桜並木」というお話と一致します。
ご覧のように、歌碑のプレートには桜花の図案があしらわれています。この場所にふたたび「駅前の桜並木」が復活すれば、よりいっそう風情が出るだろうなどと、勝手な余所者は思いました。
一方、「水部の線」で描かれた「五郎沼」の方には、満開の桜がありました。ゴールデンウィークに満開というのは平年よりかなり遅く、見事な花が見られたのは願ってもない幸運でした。
桜並木の向こう側には松並木がありますが、「水部の線」の元となった「草稿的紙葉群」に、「こゝはたしか五郎沼の岸で/西はあやしく明るくなり/くっきりうかぶ松の脚には・・・」とあり、初期形で「並樹の松を急ぎ来て・・・」とあることに一致します。
◇ ◇
最後に、下の写真は現在の日詰駅と歌碑です。
それから下の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。この建物は明治23年の開業以来のものだったということですから、賢治が1917年4月に降り立った時と、同じだったわけです。
signaless
この記事を読んでいたら
胸が疼くような気持ちになりました。
賢治の初恋はほろ苦く切ない。
押さえられたぶんだけ胸の奥で激しく燃える・・・。
賢治の想いがこれほど強いものだったのかと、今更ながら知らされた気がします。
hamagaki
signaless 様、いつもありがとうございます。
そうですね。これらの賢治の恋の短歌を読むと、ほんとうに切ない苦しみが伝わってきます。後の賢治の生き方を知った上で読むだけに、よけいにそう感じてしまうのでしょう。
私が、「日詰」という町を訪ねたいと何度も思ったり、胡四王山の上から城山を見ようとしたり(私の視力では見えませんがw)してしまうのは、賢治の気持ちに感情移入してしまうからなのだと、あらためて自覚しました。
mishimahiroshi
「公子 先駆形A」で賢治が
桐の木に青き花咲き
雲はいま 夏型をなす
熱疾みし身はあたらしく
きみをもふこころはくるし
(中略)
はるばるときみをのぞめば
桐の花 むらさきにもえ
夏の雲 遠くながるゝ
と詠んだようにhamagakiさんも彼女をのぞんできたのですね。もちろん賢治のことも重ねて。
それはまた
丘(先駆形)の中程の
来しかたは夢より淡く
行くすゑは影より遠し
という思いを想起させます。過去未来ともに現実ながら淡く遠いという儚さ。
初めてこれらの詩に出会ったのは中三か高一でした。賢治の聖人伝説ばかり読んでいたわたしは賢治の青春の苦悩を知って嬉しかったですね。
賢治は初恋の思いが強かったこと、結核を病んだことが結局は女性に対して積極的になれず、実態のない感情を抱く、あるいは自らに課すようになったのでしょうか。
次の詩はわたしの大好きなものです。申し訳ありませんが全部載せて下さい。賢治の一生はこの詩のようでもあったと思うのです。
(わたくしどもは) 宮沢賢治
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮らしました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢をみてゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壷にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな果物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花がきょうひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
・・・・その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や・・・・
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
hamagakiさんの賢治を現場において追体験される研究の在り方は素晴らしいと思います。大変な作業ですが賢治への深い思いがそれを可能にしているのですね。
大好きなおでんを補給しながら(内輪ネタ)今後も継続されることを期待しています。
hamagaki
mishimahiroshi 様、奥深いコメントをありがとうございます。
上に挙げていただいたような、賢治の「恋」に関連した作品に私が触れたのは、もう大学生になってからだったように思います。
それまでは、岩波文庫版(谷川徹三編)の『宮沢賢治詩集』なんかでオーソドックスな作品を知っていただけでしたから、やっぱり私も賢治の初々しい恋の歌を読んで、嬉しかった記憶があります。
そして、「〔わたくしどもは〕」は、これもやはり私も大好きな作品です。
あまりにも繊細な感受性を持って生まれ、失恋や、親友との訣れや、妹の死など、彼の心にとっては痛切すぎる体験を重ねるうちに、賢治は自分の個人的な生(ナマ)の感情を、どんどん蒸溜して、透きとおったものにしつづけていったのかもしれません。私も、misihma 様のご指摘のとおりに思います。
「あらゆる透明な幽霊の複合体」という言葉のように、上の「〔わたくしどもは〕」に登場する人物は、まるで生身の肉体を持たない「透明な幽霊」のようです。
そのような水晶のような美しさが、賢治の作品のかけがえのない魅力でもありますが、このように空気の薄い現実離れした高地まで、自らの精神を運んで行かざるをえなかった賢治という人の生涯を思うと、鼻の奥がつぅーんとするような感じもしてきます。
ちょうど、おでんに辛子を付けすぎた時のように(笑)。