札幌のミネさん

 賢治の「初恋の人」と言われる高橋ミネさんのご遺族のMさんが、またご親切にも新発見の貴重な資料を、お送り下さいました。

 これまで、ミネさんは若い頃に札幌で仕事をしていた時期があったのかどうかという議論が、研究者の間にありました。
 境忠一氏は、『宮沢賢治の愛』(主婦の友社, 1978)において、

彼女(引用者注:高橋ミネ)は大正3年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌鉄道病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった。

と書いておられますし、佐藤勝治氏は「火のごとくきみをおもへど(その一)」(洋々社『宮沢賢治2』所収, 1982)に、

それに賢治は翌年の春、高農入学後に再び岩手病院を訪ねてもう一度その看護婦さんにそれとなく遭っているのだが、高橋ミネさんは賢治の退院後まもなく、新設の札幌鉄道病院に長期出張していて、再び岩手病院を訪ねたときは既にいなかったのである。

と書いておられます。

 一方、小川達夫氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社, 2005)において、「もともとわたしは、札幌鉄道病院への長期出張については、二つの疑問を抱いていた」として、(1)『岩手医大四十年史』の年譜に、岩手病院の他の看護婦の出張・出向の記事はあるのに、高橋ミネに関する記載はない、(2)設立母体がまったく異なる病院に、しかも県内ではなく北海道まではるばる出向させられることがあるのであろうか、という理由を挙げて、慎重な姿勢を示しておられました。

 ミネさんの札幌勤務の有無が問題にされていた一つの理由は、佐藤勝治氏が触れておられるように、賢治は岩手病院に入院した翌年、盛岡高等農林学校に入ってから岩手病院を再び訪ね、その初恋の看護婦さんを「一目見ル」ということがあったらしいことが、「「東京」ノート」、「「文語詩篇」ノート」のメモから推測されているのです(まさに恋していたんですね!)。もしも、高橋ミネさんが1915年(大正4年)の夏前に岩手病院にいなかったのならば、「初恋の人」は高橋ミネさんではなかった可能性も出てくるからです。

 さて、今回Mさんが送って下さった資料の一つは、下のものです。この1月7日に、Mさんの妹さんがお父様の遺品を整理している時に、見つけられたそうです。

高橋ミネ産婆試験合格証書

 ミネさんは、大正5年(1916年)10月に「札幌区」において施行された産婆試験に合格して、産婆の資格を得ておられたのです。
 札幌で試験を受けたということは、少なくともこの頃ミネさんが北海道に在住していたことを示しているでしょう。議論にほぼ決着をつけてくれる証拠が見つかったわけです。

 当時の「産婆試験」の受験資格が気になったので少し調べてみましたが、1899年(明治32年)に出された「産婆規則」第三条には、「1ヶ年以上産婆の学術を修業したる者に非ざれば産婆試験を受くることを得ず」とあります。当時、「産婆学校」「産婆講習所」というものが全国にあったようですから、「1ヶ年以上産婆の学術を修業」という条件を満たすためには、(看護婦資格があっても)こういう学校に通う必要があったのかどうかということが、私の疑問でした。ちなみに、現在の「保健師助産師看護師法」では、看護師免許取得者でも、あらためて6ヶ月以上の専門教育と実習を受けないと、助産師試験を受けることができません。
 しかし、たとえばこちらの看護婦養成所に関する記載を見ると、大正13年に開設された看護婦養成所の卒業生が、「北海道庁の看護婦試験に全員合格し、うち1名は産婆試験にも合格」とありますから、看護婦養成所の卒業者は、すでに「1ヶ年以上産婆の学術を修業」したと見なされて、産婆試験を受けることができたのかと推測します。そうであれば、ミネさんが札幌鉄道病院の開設に合わせて1915年の11月か12月に札幌に行ったとして、それから産婆試験受験の1916年10月までは「1ヶ年」に少し足りませんが、もともと産婆試験の受験資格は持っていたということになります。

 ミネさんの北海道における勤務先が「札幌鉄道病院」だったという確証は、今のところ私の手もとにはありません。しかし、この「札幌鉄道病院」(現在の「JR札幌病院」)は、1915年(大正4年)11月6日に仮診療を開始し、12月に病院庁舎が落成して正式に診療を始めたということです(Wikipediaより)。境忠一氏や佐藤勝治氏が「新設の札幌鉄道病院に派遣(長期出張)」と書いておられるように、この開設に合わせて高橋ミネさんが赴任し、その仕事のかたわら産婆試験に向けた勉強をして、1916年(大正5年)10月に試験を受けたというのは、時間経過としてもぴったりと当てはまる感じです。
 ただ、当時の産婆試験はかなりの難度であったようで、滋賀県のデータですが、明治41年には16名が志願して合格者は9名、42年には37名中15名、43年には36名中11名、44年には43名中15名、という数字があります(「明治期の産婆規則」より)。この間の合格率は38%で、やはりミネさんは優秀だったんですね。
 札幌に出向した時、ミネさんの看護婦経験は2年半ほどだったことになります。遠くの病院に派遣されるのですから、身軽に動ける若手であることも必要でしょうが、新しい医療体制を軌道に乗せるのに一定の役割を果たすことが期待されているわけで、選ばれたミネさんはやっぱり若くても有能な看護婦だったのでしょう。

 以上、ミネさんが若い頃に北海道にいた時期があって、その間に産婆資格も取得したという話でした。
 さて今回、Mさんがお送りいただいたもう一つの資料は、下のものです。

高橋ミネ看護婦試験合格証書

 高橋ミネさんが、大正2年(1913年)4月に、岩手県で行われた看護婦試験を受けて合格したという証書です。
 賢治が岩手病院に入院したのは大正3年(1914年)4月ですから、その時ミネさんはおそらく、看護婦として勤務を始めてちょうど1年という時期だったことになります。業務にも慣れて、若くはつらつと仕事をしていたのでしょうか。

 一方、私はミネさんが東京で藤山家という超上流家庭のお抱え看護婦をしていた時期もあったというMさんのお話から、東京に遊学して看護学校を卒業し、そのまま上流家庭への「派出看護婦」をしていたのかもしれないと推測してみたこともあったのですが、これは間違っていたことになります。
 岩手県で看護婦試験を受験したということは、学校も岩手だったと思われ、そうなるとミネさんの出身学校は、岩手病院の付設学校である「岩手産婆看護婦学校」と考えるのが自然です。

 結局、これまでにわかったことと、境忠一氏による記述、それに蓋然性の高そうな推測を合わせると、若い頃のミネさんの経歴は、次のようなものだったと思われます。括弧内の年齢は、満年齢です。

  • 1913年(大正2年)3月、岩手産婆看護婦学校?を卒業(19歳)。
                 4月、看護婦試験に合格。岩手病院に勤務。
  • 1914年(大正3年)4月、入院患者・宮澤賢治と出会う(20歳)。
  • 1915年(大正4年)夏前?、賢治が岩手病院を再訪・再会。
                 11月?、札幌鉄道病院に出向(22歳)。
  • 1916年(大正5年)10月、札幌で産婆試験に合格(23歳)。
  • 1918年(大正7年)?、岩手病院勤務に戻る(25歳?)。

 そして、上の期間の前や途中に「東京で藤山家のお抱え看護婦」という時期を挿入するのは困難ですから、ミネさんが東京へ出たのは、上記よりも後の時期ということになるでしょう。
 どのような経緯があって、岩手県の一看護婦が東京で超上流階級の家庭に入ることになったのか、それは不思議な謎です。以前にかぐら川さんがコメントでお寄せいただいたように、岩手病院の創設者である三田俊次郎氏の実兄・三田義正氏が貴族院議員になったのが1921年、藤山雷太氏が貴族院議員になったのが1923年ということで、ここに三田家―藤山家のつながりがあったのかもしれません。
 ちなみに、ちょっと本題からそれますが、三田義正氏は教育事業にも熱心で、氏が創設した旧制・岩手中学校の初代校長に就任したのが、賢治の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」(「春と修羅 第二集」)に「鈴木卓内先生」として登場する、鈴木卓苗氏でした。花巻農学校で賢治の教え子だった桜羽場寛の叔父にあたる方だそうです(「イーハトーブセンター掲示板」も参照)。

 いずれにしても、高橋ミネさんの波瀾万丈の生涯の一部が、また少しだけはっきりとしてきた感じです。

 末筆ながら、今回もご親切に貴重なお知らせをいただき、さらに拙ブログへの画像掲載を快く了承して下さったMさんのご厚意に、心から感謝申し上げます。

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