「口語詩稿」の中に、「霰」と題した作品があります。本文は20行で、賢治の口語詩としては短い部類と言っていいでしょう。
霰
鍬をかついだり
のみ水の桶をもったりして
はだしで家にかけこむところは
やまと絵巻の手法である
現にいまこの消防小屋の横からぱっとあらはれて
ちらっと横目でこっちを見
きものの袖で頭をかくし
橋へかゝってゐる人などは
立派にその派の標本である
小屋の中には型のごとくにポムプはひとつ
ホースを巻いた車も一つ
黒びかりする大きなばれん
尖った軒の頂部では
赤く塗られた円電燈の
塗料がなかば剥げてゐる
雀がくれの苗代に
霰は白く降り込んで
そこらの家も土蔵もかすむ
もう山鳩も啼かないし
上の野原の野馬もみんなしょんぼりだらう
にわかに霰が降ってきて、「鍬をかついだり/のみ水の桶をもったり」した人々が急いで家に駆け込んだりする外の景色、そして自分の背後にある消防小屋の中の暗がりを、それこそ一幅の絵巻のように描いた小品です。
賢治の作品の中では、天才的な感覚が表れているとか、切実な生活や思想がにじみ出ているとかいうわけでもなくて、どちらかというと「地味」な感じはあります。
しかし、私として何となく気になったのは、ここに描かれているのはどこの状景なんだろうということでした。何となく、花巻の馴染んだ景色とは、少し違った感じなのです。
「鍬をかついだり/のみ水の桶をもったり」した人がいて、「雀がくれの苗代」があるのは、農村の風景でしょう。そこに消防小屋があって、土蔵があります。これは、花巻の町並みよりは、小規模な集落を思わせます。それに、「上の野原の野馬」とは、馬が放牧されているわけでしょうが、これは花巻の周囲の農村では見られない光景だと思います。
そこで、この作品の先駆形態である「霰(下書稿初期形)」を見てみると、もう少し詳しい状況が書き込まれています。
さっき峠の上あたりでは
山鳩もすうすう啼けば
ほたるかづらの花も咲き
野馬も光って遊んでゐたが
とあって、作者はここへ来る途中で「峠」を越えてきたことがわかります。となると、花巻を中心とした「稗貫平野」の範囲内ではないのでしょう。
そして、
むかしは富有な村だったのに
いまはすっかりいけなくて
しじゅう公事をしたり
骨董をいぢったりするといふ
この山峡の小さな村
という描写が出てきます。「山峡の小さな村」という表現は、賢治がまだ盛岡高農研究生時代に、保阪嘉内に宛てて書いた手紙の一節を思い起こさせます。
私は今夕飯を終へうちへの葉書を入れに暗い処を郵便局迄行きました。途中に高い橋があります。黄昏の水は遠くの峡から流れて来てこの橋の下に烈しく鳴つてゐました。此処はすぐ山の下で丁度温泉にでも居る様に感じました(昼は)
私は橋に立つて私の周囲をめぐりぼんやりと空を劃る山のはを見ました。いかにも淋しく感じます 空間の唯中をこの小さな峡の町と私とがめぐり行く。はてもなくめぐり行く。この町には私の母が私の嫁にと心組んでゐた女の子の家があるさうです。どの家がそれかしりません。またしらうともしません(書簡63)。
これは、1918年(大正7年)5月に賢治が稗貫郡土性調査の途中、大迫町で泊まった夜に書いたものです。なかなかロマンチックで、私の好きな賢治の書簡の一つなのですが、この時に賢治が泊まったのは「石川旅館」、旅館から郵便局へ向かう「途中に高い橋」とあるのは、稗貫川に架かる「新大橋」のことです。下の写真は、1913年(大正2年)に架け替えられた新大橋で、橋の向こうに見えている建物が、石川旅館です(『目で見る花巻・北上・和賀・稗貫の100年』より)。
この書簡では、大迫町のことが、「小さな峡の町」と表現されていたわけです。
あと、作品中で「むかしは富有な村だったのに/いまはすっかりいけなくて…」と書かれているのも、大迫町の実態と符合します。この町は、江戸時代から盛岡と三陸を結ぶ街道の宿場町として栄え、金、生糸、葉たばこなどの生産によって、明治までは「盛岡より裕福」と言われていたのに、岩手軽便鉄道が別ルートに開通してからは、もはや交通の要衝ではなくなります。賢治は、この町の人が没落してからも「骨董をいぢったり」していることを、やや揶揄的に書いていますが、最近では、江戸時代からこの町に伝え残されてきた「享保雛」「次郎左衛門雛」「古今雛」などという由緒ある京都の雛人形が、「大迫・宿場の雛まつり」という町おこしイベントに活用される時代になっています。
「野馬」に関しては、大迫町の両隣にある当時の内川目村、外川目村が、稗貫郡内における有力な馬産地でした。下の表は、『大迫町史<産業編>』より、「大正年間馬匹飼育頭数」という表です(p.562)。峡の町・大迫町の周囲の高原では、明治後期から馬の放牧がさかんに行われていたのです。
一方、大迫町の消防は、第一部(上町)、第二部(川原町)、第三部(下町)の三組に分かれていたということで、それぞれの組が火の見やぐら兼ポンプ小屋を建設していました。下写真は戦後のものですが、上町の消防小屋です。このような木造の火の見やぐらは、現在の大迫にはもう残っていません。
ちなみに大迫町の消防組では、1924年(大正13年)に「ガソリンポンプ」を購入したということです。
このガソリンポンプは大迫消防組の自慢で、当時稗貫郡内では珍しく、郡下の消防演習に持っていき他の消防組をうらやましがらせたといわれる。まだ大迫町は経済的に余力のある時代であった。(『大迫町史<行政編>』)
ただ、賢治が見たポンプがこのガソリンポンプだったのかどうかはわかりません。
以上、「霰」という作品の舞台が、花巻から北東に峠を一つ越えた山峡の町である大迫町ではないかと思われる状況証拠を、いくつか挙げてみました。ただ、もしこの大迫町説が正しかったとしても、まだこれだけでは、町内で三つあった消防小屋のうちどの小屋の前に賢治がいたのかは、わかりません。
そこで、「霰(下書稿初期形)」に対してその後「黒インク」で推敲が加えられた「霰(下書稿中間形)」を見てみます。この段階の作品は、次のように始まります。
霰を避けて
葉桜の下
暗い石碑の前に遁げこむ
黒溝台の戦死者を
三人祀った石碑である
東京も見たことがないのに
いきなり満州へ連れて行かれて
荒漠とした雪なか
黄いろな土塀のある村で
頭巾のついたカーキーいろの外套と
ぼろぼろの着換えや袋をしょって
どんな気持ちで死んだらう
この部分は、その後の推敲によって削除されてしまうのですが、ここには全く別のテーマが出現しています。
「黒溝台」とは、日露戦争における激戦地で、ロシア軍の奇襲によって一時日本軍は大敗を喫しそうになりますが、ロシア軍の不可解な退却のために、最終的には日本軍の「辛勝」という結果になります。東北四県(青森・岩手・秋田・山形)出身者で構成された「第八師団」は、当初は満州軍の予備隊に位置づけられ戦地には派遣されませんでしたが、この黒溝台の会戦において初めて実戦に投入されました。しかしその最初の戦場は、あまりにも凄絶なものだったのです(Wikipedia「黒溝台会戦」も参考になります)。
司馬遼太郎『坂の上の雲』の「黒溝台」の章には、次のような箇所があります。
この稿は、戦闘描写をするのが目的ではなく、新興国家時代の日本人のある種の能力もしくはある種の精神状態について、そぞろながらも考えてゆくのが、いわば主題といえば主題といえる。
しかし、黒溝台会戦の戦闘経過の惨烈をつぶさにみてゆくと、かれら東北の若者たちが全日本軍をその大崩壊から救ったその動態のひとつひとつを記述したいという衝動をおさえきれない。
第八師団、つまり通称立見師団といわれる弘前師団は、熊本の第六師団とならんで日本最強の師団とされてきた。その師団の故郷である弘前にあっては、戦後、冬のいろり端で語られることといえば、この黒溝台の惨戦の話であり、さらにはかれらの生き残りの兵卒たちはひとりとして師団長立見尚文をほめない者はなく、あの人がいたから勝ったということが、それらの回顧談のしめくくりのようになっていた。
黒溝台において第八師団がこうむった被害は、死傷6248人(うち戦死1555人)で、やはり司馬遼太郎によれば「一戦場で一個師団がうけた損害の多さは、この時期までの世界戦史に類がない」とのことです。「全日本軍をその大崩壊から救った東北の若者たち」の犠牲も、甚大なものだったわけです。
そして上記の司馬の文章にもあるとおり、東北の各地において黒溝台会戦の記憶は、様々に語り継がれていったようです。青江瞬二郎は、「宮沢賢治と演劇」において次のような回想をしています。
私の郷里秋田では毎年一月二十八日(引用者注:ロシア軍が黒溝台から退却した日)には、この日を記念して軍隊がはげしい吹雪の中で特別演習をやって見せ、中等学校の上級生も参加させられる。この戦争に肉親を失った市民たちは、みな公園附近にあつまり悲壮な思い出と感激でこの野外劇に没入するのであった。盛岡の連隊でもそれはおそらく行事化されていたのだろう。
黒溝台の会戦(1905)は、賢治が小学校2年の時のことでした。当時も、賢治の周囲では、やはり黒溝台の戦闘については様々な口伝が語られていたでしょうし、厳寒の満州で戦死した東北の若者たちに対して、賢治も思いを致したのでしょう。
「霰(下書稿中間形)」において現れる、「東京も見たことがないのに/いきなり満州へ連れて行かれて/荒漠とした雪なか/黄いろな土塀のある村で/頭巾のついたカーキーいろの外套と/ぼろぼろの着換えや袋をしょって/どんな気持ちで死んだらう」いう一節には、そんな賢治の気持ちがにじんでいるような気がします。また、晩年に書かれたと思われる劇のメモの中にも「黒溝台」と題されたものがあり、登場する兵士の台詞に「こんな馬鹿げた戦闘があるか。こんな馬鹿げた戦闘があるか。」という言葉が出てきます。
ということで、賢治は突然の霰を避けて、「黒溝台の戦死者を/三人祀った石碑」の下にも来ていたようなのです。
私は、大迫地区にはこのような石碑が今も残っているのではないかと一縷の望みを託して、先日の連休に花巻駅前からバスに乗り、大迫に来てみました。
上の写真は、上町にある「花巻消防署大迫分署」と、その火の見やぐらです。ここから40mほど右の方に行くと、「愛宕神社」があります。
鳥居をくぐって、この神社の境内の奥深くに進んで行くと、下のような「忠魂碑」が建っていました。
碑銘の左下には、「陸軍中将 田中義一 書」と刻まれています。私は、「黒溝台戦死者慰霊碑」などというようなものを期待していたのですが、これが果たしてそれに相当するのでしょうか。
『大迫町史<行政編>』のp.683には、次のように書かれています。
忠魂碑の建立 西南戦役から日露戦争にいたる各戦争による戦死者を合祀する忠魂碑は、大正時代に入って各在郷軍人会で計画し建立されるようになった。大正七年には亀ヶ森村、大正八年には大迫町、大正九年には内川目村に建立されている。それ以前は木製の招魂碑が大半であった。(中略)
大迫町と外川目村の忠魂碑は、陸相や首相を歴任した田中義一の書であるが、建立年月日は刻まれていない。大迫町の場合は、大正八年の大迫小学校記録に、五月七日(水)御成年式挙行。招(忠)魂碑除幕式へ参列(尋三以上)。 (大迫小学校『学校沿革誌』)
とあり、愛宕神社境内へ建立された忠魂碑除幕式当日の月日が知られる。
すなわち、戦没者を祀った石碑は、大迫地区内ではこの愛宕神社にあるものだけのようで、「黒溝台の戦死者を/三人祀った石碑」があるとすれば、これ以外にはなさそうです。
しかし、賢治が戦死者を「三人」と具体的に書いていることに関してはどうなのでしょうか。石碑のどこにも、そのような記載はありませんでした。
そこで再び『大迫町史<行政編>』を調べると、大迫町の「日露戦争従軍戦没者名」という表がありました(p.563)。
これは、1955年に大迫町が内川目村、外川目村、亀ヶ森村と合併してからの町史なので、3村の出身者も一緒に挙げられていますが、それ以前の旧大迫町出身の戦死者・戦病死者は4名、うち1名は戦病死ですので、結局大迫町出身の日露戦争戦死者は、上に赤丸を付けた3名ということになります。それぞれの享年(満年齢)は、22歳、25歳、22歳です。
彼らがすべて黒溝台で戦死したかどうかは調べた範囲ではわかりませんでしたが、第八師団の犠牲者のほとんどは黒溝台会戦において出たものでしたから、彼らが黒溝台で亡くなった確率は高いと思われます。
そして、3人ともまだ20代前半の若者です。賢治が「東京も見たことがないのに/いきなり満州へ連れて行かれて…」と書いているように、東京へ行ったことがなかったのかどうかはこれもわかりません。しかし、賢治がここまで具体的に3人の若者のことを書いているからには、何か地元の人などから聞いた話があったのではないかと想像させます。
以上から私としては、賢治が「霰(下書稿中間形)」において、「黒溝台の戦死者を/三人祀った石碑」と書いたのは、上の写真の石碑のことだろうと推測します。すると、この場所から近い消防小屋は、三組のうち「上町」のものだったということになります。
ところで、その最終形態では削除されてしまいますが、「霰(下書稿初期形)」や「霰(下書稿中間形)」には、
午后にはみんなこの人たちが
学校に来てわたくしを見る
という一節があって、賢治はこの時、学校で農事講演などをするために大迫町を訪れていたのだろうと思われます。花巻農学校の農事講演は、稗貫郡内の小学校を巡回して行われていたということですから(『証言 宮澤賢治先生』p.124)、この「学校」とは、1873年(明治6年)創立の大迫小学校のことでしょう。
以上の関連地点を大迫地区の地図にマークすると、下のようになります。
(A)が忠魂碑の場所、(B)が上町の消防小屋、(C)が大迫小学校です。AまたはBの地点から「橋へかゝってゐる人」を眺めたのなら、目の前の中居川に架かる橋だったのではないかと思われます。ただし、現在は家などが建ち並んでいるため、AまたはB地点から橋は見えません。
最後に下の写真は、昭和10年頃に写された大迫町の全景です(『目で見る花巻・北上・和賀・稗貫の100年』より)。町の東側にある大迫公園から、西に向かって撮ったもので、中央下部に、愛宕神社の鳥居が見えています。
游氣
作品のコトノハを手繰るように精査された力作ですね。
それにしても作品がしっかり読み込まれ、記憶されていることに驚嘆いたします。
忠魂碑が想像通りのものであろうと確信されたとき、おそらく身震いするほどの感動ではありませんでしたか。
賢治とおよそ90年の時を隔てて同じ地に立ち、景を見て、往時に思いを馳せる。
身を持って作品を読まれたことにわたしも強い共感を抱きました。
hamagaki
游氣さま、いつもありがとうございます。
大迫の消防分署のすぐ近くに神社があることに気がついた時、きっとこの境内のどこかに「黒溝台戦死者慰霊碑」があるのではないかと、妙な自信が湧いてきました。
境内の一番奥まで進んで、何も余分な文字の書かれていない「忠魂碑」を見つけましたが、これがその碑に相当するのかどうか、最初はちょっと心もとない感じがしました。
しかし、翌日に図書館へ行って、旧大迫町内には日露戦争の犠牲者を祀った碑としてはこれしか存在しないことを確認し、さらに旧大迫町出身の日露戦争戦死者が、賢治が書いたとおり「三人」だったことを確かめた時、「身震いするほどの感動」がありました。
そして、日露戦争が日本人の、黒溝台が東北人の、心に強く焼き付いていた時代の雰囲気が、「霰」の草稿の推敲中間形態から、立ちのぼるような気持ちがしたのです。