ホップのかほり

キリン一番搾り「とれたてホップ」

 関西に住んでいるもので、たまに「岩手県産」などと言われると、つい買ってみたくなる習性があります。
 キリンの「一番搾り」シリーズで、10月末から期間限定で販売されている「とれたてホップ」というビールは、今年収穫されたばかりの「岩手県遠野産」ホップを使用して作られているというのが謳い文句です。となると、これは賢治の故郷に関連した商品ということで、調査をしてみないわけにはいきません。
 飲んでみると、たしかに香りがとてもみずみずしくて、ふつうの「一番搾り」よりもおいしいような気がするのですが・・・。

 岩手県には、「地ビール」が豊富にあって、ホップの栽培も行われていることはこれまでにも何となく知ってはいました。あらためて調べてみると、日本におけるホップの作付面積・生産量とも、一位は岩手県、二位は秋田県、三位は山形県なのだそうです(参考「岩手県 - ホップに関する資料」)。
 ビールやホップなどというと、何はともあれ「北海道!」というイメージなのですが、今は違うんですね。

 歴史的には、明治初期に北海道で野生のホップが自生しているのが発見され、以後も戦前は上富良野村など北海道がホップ栽培の中心だったようですが、戦後はビールの消費増大とは裏腹に、安価な輸入ホップとの競争には勝てず、全国的にホップ生産量は徐々に減っていったようです。
 岩手県でホップが栽培されるようになったのがいつ頃からなのか、たとえば前述の「岩手県 - ホップに関する資料」には、次のように書いてあります。

昭和31年 県内で初めて、江刺町で6.4ha植栽。
昭和37年 軽米町を中心に県北部で9.7ha植栽。
        その後九戸村、二戸市、一戸町、浄法町に広がる。
        岩手町で20a試作。その後6.3haまで栽培面積が拡大。
        玉山村で試作開始。翌年2.8haで栽培。
        紫波町で4.2haの栽培を開始。
昭和38年 遠野市で7.6ha植栽。

 また、「ホップの由来と栽培歴史」というページには、次のように書かれています。

日支事変(昭和12年)の勃発により、外国からのホップの輸入が困難となったので、国産ホップの自給体制の確立が急がれ、再び増反に踏み切った。昭和十四年には山梨、山形、同十五年に福島の各県にホップが始めて導入されている。
(中略)
また昭和三十一年に秋田県、さらに昭和三十七年岩手県、新潟県にもホップが栽培され全国的には北海道、東北十県の各地に拡大されている。

 多少の差はありますが、岩手県でホップが栽培されはじめたのは昭和30年代からということで、かなり新しいんですね。


 ところが、賢治の作品「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」の中には、次のような箇所があります。

七四
               一九二四、四、二〇、
そのとき嫁いだ妹に云ふ
十三もある昴の星を
汗に眼を蝕まれ
あるひは五つや七つと数へ
或ひは一つの雲と見る
老いた野原の師父たちのため
老いと病ひになげいては
その子と孫にあざけられ
死にの床では誰ひとり
たゞ安らかにその道を
行けと云はれぬ嫗のために
  ……水音とホップのかほり
     青ぐらい峡の月光……
(以下略)

 この日の賢治は、旧宮守村(現在の遠野市)にあった岩根橋発電所に行くために、岩手軽便鉄道を岩根橋駅で降りて、もう暗くなった道を猿ヶ石川の渓谷に沿って歩いているところだったと思われます(「岩根橋発電所詩群」参照)。
 そこに、「ホップのかほり」が漂ってきたというわけです。

 この時、そこに本当にホップがあったのかどうか、なにせ賢治は月の光から「エステルの香」を感じるような人ですから(「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」)、この時もそれが現実の香りだったのかどうかは、何とも言えません。上に見たように、まだ大正時代には岩手県で本格的なホップの栽培は行われていなかったようですし、ホップの毬花が収穫されるのは秋なのに、4月のうちにあの独特の香りがするのかも、私にはわかりません。

 しかしそれでも、この夜賢治が、雲が蛍光のように明らむ夜の渓谷において、水音とともに「ホップのかほり」を感じたことは、事実なのでしょう。
 ちなみに賢治が歩いていた旧宮守村は、今は「みやもりビール」という地ビールの産地でもあります。まさに、ホップの香りが漂ってくるにはうってつけの場所なのです。
 残念ながら宮守村は、「平成の大合併」によって「遠野市」の一部になってしまいました。しかし、冒頭写真の「遠野産ホップ使用」のビールは、この夜に賢治が感じたであろう「かほり」を、現代の私たちに追体験させてくれるものではないだろうか・・・。

 そう思って飲んでみると、心なしか別の風情も出てくるではありませんか。

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