このところ、10月に山梨県韮崎市で行われた「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」のDVDを、視聴させていただいていました。
嘉内の生家に近い会場ホールには、「アザリア」の4人のご遺族の皆さんや、4人が出会った盛岡高等農林学校の後身である岩手大学の学長先生、そのほか多くの関係者や専門家が一堂に会し、素晴らしい盛り上がりを見せたイベントだったことが、ありありと感じられます。はたしてまた今後いつか、こんな企画が実現する機会があるでしょうか。
私も、このような貴重な場に居合わせたかった・・・、と今さらながら悔やんでいます。
さて、このDVDの中で私がとくに個人的に興味を惹かれたのは、韮崎市民合唱団が、保阪嘉内が作詞・作曲したものを含むいくつかの歌曲を披露してくれたところです。ステージでは、「アザリア」「帰去来」「勿忘草の歌」「藤井青年団団歌」という4曲が歌われましたが、保阪嘉内も賢治に負けず劣らず、仲間とともに唄う「歌」を愛し、それを自分で作ってしまうという才能に恵まれていたことがわかります。
実はいま私は、この中の「藤井青年団団歌」に、自前で編曲し伴奏を付け、例によって VOCALOID に歌わせる作業をしています。先日の日曜日に新たな記事をアップできなかったのも、この作業に忙殺されていたためでした。一度はだいたい出来上がっていたのですが、迷ったあげく編曲をやり直したりしているので、思いのほか時間がかかってしまっています。
この歌は、嘉内が1919年(大正8年)9月に作ったもののようですが、賢治が「精神歌」を作るよりも、そしておそらく「星めぐりの歌」を作るよりも、かなり早い時期なんですね。
「藤井青年団団歌」は、嘉内が地元の青年団の士気を高め、絆を深めようと作った格調高い歌ですが、賢治が稗貫農学校に着任してまだ日も浅い頃に、「精神歌」を作ったことを連想させます。
はたして賢治は、嘉内がこのような歌を作ったという話を、聞いたことがあったのでしょうか。私は今回、「藤井青年団団歌」に親しく接してみて、賢治が農学校で生徒を教えながらたくさんの歌を作っていった背景には、このような嘉内の活動の影響もあったのではないだろうか、と感じています。
signaless
「勿忘草の歌」は、白秋の詩を元に嘉内が作ったものだと思いますが、冒頭「とらよとすれば・・・」賢治の「習作」のも出てきますね。これも二人が共有していたモチーフだったのかも知れません。
二人はどんなときもお互いのことは常に知っていたのだと私は思っています。
会場では、歌詞が聴き取りにくかったのが残念でしたが、嘉内の歌も、賢治に負けず素晴らしいと思います。たくさんの人に知ってもらえればうれしいです。
「藤井青年団団歌」の完成が楽しみです!
「アザリア」「勿忘草の歌」「帰去来」もぜひお願いしたいところです(^^)
hamagaki
signaless さん、こんばんは。
嘉内の「勿忘草」と、賢治の「習作」に出てくる、「とらよとすればその手から ことりはそらへとんで行く」という詞は、北原白秋作詞、中山晋平作曲による「恋の鳥」という歌の一部に由来していて、1919年(大正8年)の元日から東京の有楽座で上演された歌劇「カルメン」の劇中歌として、松井須磨子によって歌われたものです。
ただここで興味深いのは、白秋の歌詞では正しくは、一番では「捕へて見ればその手から/小鳥は空へ飛んでゆく・・・」であり、第三番では「捕らよとすれば飛んで行き/逃げよとすれば飛びすがり・・・」となっていて、上の嘉内と賢治による詞は、元歌の一番と三番を、混在させてしまっているようなのです。(参考記事「とらよとすればその手から…」)
このように二人が「同じ間違い」をしているということは、二人が独立して偶然に間違ったと考えるよりも、二人のうちどちらかがもう一人に「間違って教えた」と考える方が自然です。
ですから、私も signaless さんご指摘のように、これは「二人が共有していたモチーフ」だったのだろうと考えます。どちらがどちらに教えたのかということは、これも面白い想像の題材ですね。
「藤井青年団団歌」は、日曜日の夜にアップできればと思っているのですが・・・。