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岩根橋発電所 詩群

1.対象作品

「春と修羅 第二集」

504 〔硫黄色した天球を〕1925.4.2(下書稿(三))

506 〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕1925.4.2(下書稿(二)手入れ)

508 発電所 1925.4.2(下書稿(三)手入れ)

511 〔はつれて軋る手袋と〕1925.4.2(定稿)

「春と修羅 第二集補遺」

〔雪と飛白岩(ギャブロ)の峯の脚〕(定稿)

2.賢治の状況

 4月2日の夕暮れから夜ふけまでのスケッチです。賢治はこの日、夕方から岩手軽便鉄道に乗って、岩根橋駅の近くにある水力発電所を訪ねてきたようです。 木村東吉氏の調査によれば、当時の岩手軽便鉄道下り最終列車は、花巻発5時50分、岩根橋着7時11分ということでした。

 「五〇四 〔硫黄色した天球を〕」には、ちょうど日が沈もうとする花巻駅を、北上山地へ向けて出発しようとする岩手軽便鉄道の列車の情景が描かれています。夕焼けの景色がきれいです。

 「五〇六 〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」では、賢治はすでに列車を降りて夜道を峡谷に沿って歩きながら、「農民劇」の上演のことを考えています。花巻農学校に着任以来、数々の劇を書き下ろして生徒に演じさせてきた賢治ですが、前年の夏に文部大臣による「学校劇禁止令」が出て、それまでの努力は水の泡になってしまいました。一時はかなり意気消沈していましたが、この頃は農民の劇団を作ることも夢見ていたようです。

 この作品の一部は、のちに「庚申」(『文語詩稿 一百篇』)に改作されました。「汗に眼を蝕まれて昴の星の五つ七つしか見えない」という部分が、「庚申信仰」への連想を呼んだものと思われます。
 庚申の日というのは60日ごとにめぐるので、多くの年は一年のうちに六回あるのですが、年によっては五回七回のこともあって、このような年は「五庚申」「七庚申」と呼ばれて、凶作になると信じられていたということです。(「庚申」詩碑の頁もご参照ください。)

 さて、次の「五〇八 発電所」は、岩根橋水力発電所の情景ですが、それにしても賢治はいったいなんでこんな夜ふけに、発電所などに行ったりしたのでしょうか。下書稿に出てくる「Y技師」への用事かなにかでしょうか。
 上に掲げた最終稿には、「まっ黒な工場」が描かれ、また「下書稿(二)」などには「カーバイト工場」が登場します。当時、発電所の対岸には、カーバイト工場があったのです。ちなみに、『春と修羅 〔第一集〕』所収の「カーバイト倉庫」も、ここが舞台と思われます。

 空気中の窒素を原料として、有機物または硝酸塩などの窒素化合物を合成するという夢(窒素の固定)は、19世紀末から世界中の研究者がしのぎを削っている課題でした。これが可能になれば、人工的な肥料として農業増産のための切り札になると考えられていたからです。1906年にイタリアで、生石灰とコークスからカルシウムカーバイドを作り、カルシウムカーバイドを窒素と反応させて石灰窒素を作る「石灰窒素法」が初めて工業化されると、世界各地で石灰岩と電力のある場所に、それにならった工場が建設されていきました。日本でも、これは化学工業の幕開けを告げるものでした。
 基本的には、

   CaO(生石灰) + 3C(コークス) → CaC2(カーバイド) + CO

という反応をさせるのが、「カーバイト工場」なわけですが、これには大量の電力を必要とします。岩根橋には猿ヶ石川の支流の豊富な水を利用した発電所と、北上山地の石灰岩がありましたから、工場建設には絶好の場所です。
 化学肥料としての石灰窒素は、農業の近代化のために大いに期待されたもので、賢治もこの「カーバイト工場」には強い関心を持っていたのだろうと思われます。

 「五〇八 発電所」が作品番号や日付を失って改稿されたものが、「第二集補遺」所収の「〔雪と飛白岩の峯の脚〕」です。筆致はユーモラスではありますが、その雑誌発表形の「詩への愛憎」という題名が示すように、作者がみずから「詩人」であるということに感じているアンビヴァレンスが表現されて、切実です。

 「五一一 〔はつれて軋る手袋と〕」では、賢治は帰途についています。もう最終列車はとっくに行ってしまっていますから、賢治は20数kmの夜道を歩いたのだと思われます。この作品中にある「三郎沼」は、もう花巻も近い小山田のあたりです。
 ぼんやりと歩きながら、夜空にうかぶ月や雲を、それぞれ眼や蝗に見たてているのでしょうか。

 この詩群には、全体としてなんとなく孤独感がただよっています。