大使館の桜

 賢治は1916年(大正5年)夏に上京して、麹町区麹町3丁目の「北辰館」(後に同住所の「栄屋旅館」)に滞在しつつ、神田区中猿楽町17番地の「東京独逸学院」で行われていた「独逸語夏季講習会」を受講しました。この間に、保阪嘉内に宛てて出した[書簡19]〔8月17日〕には、東京で詠んだ20首もの短歌が書きつけられていました。
 その中に、次の短歌があります。

大使館低き練瓦の塀に降る並木桜の朝のわくらば

 それから、賢治がこのドイツ語講習会を終えて、盛岡高等農林学校の「秩父地方土性地質調査見学旅行」に合流する上野駅から、また保阪嘉内に宛てて葉書を出します([書簡21]〔9月2日〕)。その文面は、次のようなものでした。

あなたが手紙を呉れないので少し私は憤つてゐますがまあ今日から旅行の話しを致します。今日はその序であります。今博物館に行つて知り合ひになつた鉱物たちの広重の空や水とさよならをして来ました。又ニコライの円屋根よ。大使館の桜よ。みんな さようーなら。

 この夏、約1ヵ月にわたり東京で生活した賢治が、去るにあたって別れを告げたのは、「博物館の鉱物」「広重の版画」「ニコライ堂の円屋根」とともに、「大使館の桜」でした。夏ですから、もちろん桜の花はないわけですが、賢治にとってこれはよほど印象に残る桜並木だったのでしょう。彼が「鉱物」や「版画(浮世絵)」好きだったのは周知の事実で、また神田の「ニコライ堂」の見事なドームにも愛着を持って、いくつかの作品や書簡に登場させていますが、「大使館の桜」は、これらに並ぶ地位を与えられているわけですね。
 上の短歌で、「朝のわくらば」とあることを考えると、旅館から独逸学院へ通学する際に、毎朝この桜並木の場所を通ったのかもしれないとも思わせます。

◇          ◇

 というわけで、賢治がこれほど心に懸けていたのは、いったいどこの大使館のどんな桜並木だったのだろうかということは、気になる問題です。
 しかしこれについては『新校本全集』で賢治の書簡を収めた「第十五巻」校異篇がすでに答えを用意してくれていて、上の「大使館…」の短歌への「注」として、

大使館・・・・・・フランス大使館。麹町区飯田町一丁目(現千代田区九段南一丁目)

と書いてあるのです。旧版の『校本全集』で書簡を収めている「第十三巻」にも、まったく同じ「注」が付けられています。
 つまり、賢治がこの夏に親しんだ桜並木のあった「大使館」とは、当時のフランス大使館だったというわけですね。しかし私としては、なぜこれがフランス大使館と判断できるのか、「推定」など留保を付けずに、「フランス大使館。」と断定している根拠は何なんだろうか、ということが不思議でした。

 その辺の事情について、私が手もとにある資料を調べてみたかぎりではあまりよくわからなかったのですが、一つだけ、奥田弘編『宮沢賢治の短歌をよむ』(蒼丘書林)という本に、関連した記載がありました。
 この本は、猪口弘之、小澤俊郎、須田浅一郎、高木栄一、続橋達雄、奥田弘、というまさに錚々たるメンバー(=「六人会」)が、1970年から1977年頃まで、賢治の短歌を中心に研究会を行い、その内容を続橋達雄氏が「賢治ノート」として筆録していたテキストを、奥田弘氏が編集して刊行したというものです。

宮沢賢治の短歌を読む―続橋達雄筆録/六人会「賢治ノート」 宮沢賢治の短歌をよむ―続橋達雄筆録/六人会「賢治ノート」
蒼丘書林 2004-10
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 この本のp.84には、嘉内あて書簡中で上の「大使館…」の短歌の二首あとに記入されている

日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかかるさびしさ

という歌に対して、次のようなメモが書かれています。

(神田からみた日本橋か?)    (p.263 第4首、フランス大使館か?)
天下の日本橋(一見はなやかなれど、文化、金融の面で)―さびしさ。
(白秋の詩にありそう) ~色。 (雲の色)のくりかえし、の、うまさ。
かかる(このような) (~ かかっている) =掛詞?

一行目の右の方に、問題の短歌に関して「フランス大使館か?」とのメモがあるのです。
 「六人会」のメンバーは、「日本橋…」の短歌を、(神田からみた日本橋か?)と推測し、もしもこの短歌が神田からの眺めを詠んだものならば、「大使館…」の短歌も神田から見た大使館ではないかと推測して、「フランス大使館か?」と考えたのだろうかと思います。
 それでは当時、神田から見えた「大使館」とはフランス大使館だけだったのでしょうか?

 下のコピーは、1922年(大正11年)に刊行された『東京視察案内』(明治図書)という本の中の、「締盟各国使臣館」(大正11年4月現在)という項目ですが(国会図書館「近代デジタルライブラリー」より)、なんと大正時代は日本に「大使館」は、6つしかなかったんですね。

「締盟各国使臣館」

 それぞれの住所を調べると、上記のうちイギリス大使館は皇居の西側、イタリア、ドイツ、ベルギー、アメリカ大使館は皇居の南西に位置していて、皇居の北東側である神田からは、全く見えないはずです。当時のフランス大使館だけが、皇居の北側で現在は千代田区役所や東京法務局、九段合同庁舎などがある場所にあって、神田から直接見ることも可能な位置なのです。(現在のフランス大使館は、港区南麻布4丁目に移っています。)
 つまり、この短歌が神田から見た情景であるとすれば、やはり「大使館」としては「フランス大使館」しかありえなかったわけです。

 この「六人会」による「フランス大使館」との推測は、『昭和42年筑摩版全集』をテキストとしたものでした。次の『校本宮澤賢治全集』の編集委員には、6人のうち3人も(猪口弘之、奥田弘、小澤俊郎)が参加しましたから、「第13巻」の書簡に注釈を付ける際に、この「六人会」の見解が盛り込まれたのかもしれないと推測することも可能です。

◇          ◇

 ということで、なぜ『新校本全集』の「注」において、「大使館…」の歌がフランス大使館を詠んだものと解釈されているのかという疑問に対して、私なりには以上のようなことを考えてみました。たしかに、これが「神田からみた」大使館だとすると、フランス大使館になるでしょう。
 しかし、この歌が「神田からみた」ものと考えなければならない理由は、実際は何もないのです。この短歌から「日本橋…」の短歌までの連なりを見ても、

大使館低き練瓦の塀に降る並木桜の朝のわくらば
うすれ日の三井銀行その中の弱きひとみのふっとなつかし
日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかかるさびしさ

となっていて、二首目において当時の三井銀行本店が日本橋にあったこと、行員の「ひとみ」が見えるほどの距離に作者が位置していることからすると、三首目とともに、この二首は神田ではなく日本橋近辺において詠まれたと考えるのが自然だと思います。そして、上の六ヵ国の大使館の中に、日本橋から直接見えるものはありませんから、上記三首を一つの場所で連作的に詠まれたものと考えることは、不可能です。
 何よりも、「朝のわくらば」という表現にあるように一枚の葉っぱが観察できるためには、この「大使館…」の歌は、大使館を遠望したのではなく、その桜並木の目の前で詠まれたと考えるべきでしょう。

 さらに、下図は『東京府名勝図絵』(1912)に掲載されている、当時のフランス大使館の写真です。(国会図書館「近代デジタルライブラリー」より)

フランス大使館(1912)

 これを見ると、少なくとも玄関の周辺においては塀は「板塀」のようで、賢治に歌のあるような「練瓦の塀」ではありません。

 結局のところ、私としては賢治がこの歌に詠んだ「大使館」を、「フランス大使館」とする十分な根拠はないのではないか、またその「塀」の様子は、フランス大使館とする解釈に対して否定的なのではないか、と考えるのです。

◇          ◇

 では、この「大使館」とは、どこの大使館だったのでしょうか。
 私は、「イギリス大使館」だったのだろうと思います。

 まず当時の賢治の通学路を確認しておきます。下の地図をご参照下さい。

北辰館、東京独逸学院、イギリス大使館、フランス大使館

 これは、明治40年(1907年)時点での「麹町区全図」と「神田区全図」をつなぎ合わせたもので、北辰館と東京独逸学院の場所には、赤丸を付けてあります。薄赤く塗った区画が二つありますが、北辰館に近い縦長の方がイギリス大使館、皇居の北側でより小さい横長の方がフランス大使館です。

 麹町3丁目の旅館「北辰館」から、神田区中猿楽町の「東京独逸学院」まで行くとすれば、大まかには、(1)ずっと北へ行き「靖国通り」に出て、それから東へ向かうという経路と、(2)イギリス大使館の北端近くで東に折れて千鳥ヶ淵を渡り、「代官町通り」を近衛師団の南側を通って、「竹橋」でまたお濠を渡り北へ行く、という経路が考えられます。(上図で、中ほどより上を東西に横断している長い青い線が「靖国通り」、それより南でお濠の内側の区域にある短い青い線が「代官町通り」です。)
 この二つの経路のいずれも、イギリス大使館の前を通ることはできますが、フランス大使館に関しては、(1)は通らず、(2)は通ります。
 「通学路に沿っている」という点に関しては、フランス大使館とイギリス大使館のいずれの可能性もありえることになります。

 それから、短歌中で詠まれている「練瓦の塀」です。下図は、やはり『東京府名勝図絵』(1912)に掲載されている、イギリス大使館の写真です。(国会図書館「近代デジタルライブラリー」より)

イギリス大使館(1912)

 ご覧のように、少なくとも玄関周囲は、立派な「煉瓦」の塀があります。堂々とした高い塀で、賢治の短歌では「低き練瓦の塀」となっているのがちょっと気になりますが、当時の玄関周辺以外の部分の塀がどうなっていたのかは、わかりません。
 しかし、そもそも「大使館」とは、内部では治外法権が認められる特別な区域であり、その境界線は「小さな国境」とも言えるものです。したがって、あまり低い塀で容易に侵入できてしまうような造りにすることは、考えられません。現在のイギリス大使館の塀のように、それほど高くはない塀の上に、金属の柵を設けていたのかもしれません。
 いずれにしても、「練瓦の塀」が大正時代(震災前)のイギリス大使館に存在していたことは、賢治の短歌の場所として、フランス大使館よりも蓋然性を高めてくれるポイントです。

 しかし、私としてイギリス大使館の最大のポイントと考えるのは、「桜並木」です。
 現在も、イギリス大使館前の桜並木は有名で、内堀通りをはさんだ千鳥ヶ淵公園とともに、都内で有数の桜の名所になっていますが、そもそもこの桜は、1898年(明治31年)にイギリス公使のアーネスト・サトウが、「東京の人々への贈り物として、またサトウの日本への愛情の印として」、桜の木を植えたことに始まるのだそうです(「英国大使館の歴史」より)。いったんは戦災等によってその見事な桜樹の大半は失われたそうですが、戦後また植樹されて桜の名所はよみがえり、現在にまで至っているのです。

 下の文章は、1914年(大正3年)に刊行された『東京史蹟写真帖』に掲載された、英国大使館前の桜並木に関する説明と、その写真です(国会図書館「近代デジタルライブラリー」より)。当時の東京においても、この大使館前の「数百の」桜が、いかに名高く、人々に愛でられていたかを、これは雄弁に物語ってくれていると思います。
 そして、独逸語夏季講習のために上京した賢治が、桜花の季節でもないのに「大使館の桜」「並木桜」を特に意識し愛着を寄せたのは、このようにイギリス大使館前の桜が、当時すでに「名にし負う」ものであったからこそなのではないかと、私は思うのです。

  英國大使館前の櫻は公使サトウ氏が東京府へ寄贈の名花

□半蔵門外の大使館、今の五番町一、二、三番地邊は昔は南部丹波守、永井信濃守などの大名屋敷の跡なり、館前數百の櫻樹は子爵岡部長職氏が東京府知事在職の頃、當時の公使サトウ氏が東京府へ寄附せられし者なり、今は此の美擧を知る者も稀なりと、岡部子爵の談話ありき、若し夫れ春風嫋々たる時、遍地の麗と華とを占盡するは實に大使館前の花のトンネルに非ずや、東京市の内外に櫻花多しと雖も、荘厳なる大使館と優麗なる皇城の翠松を左右にして、花を賞せんと思ふ者は必ず此の館前を観る可きなり、恰も日英の同盟を花も唇を開きて謳ふの感なくんばあらず、非情の電車も屋上に紅雪を積んで霞に酔えるが如し。

英国大使館前桜並木