牧馬地方の春の歌

1.歌曲について

 現在も岩手県は北海道に次いで全国二位の馬産地ですが、この地域は伝統的に中世の頃から、良質の「南部馬」の産地として知られていました。
 このあたりで馬を飼う農家の人々が、まるで家族のようにその馬を大事にする姿勢は、人と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲がり家」という家の造りにも表れています。また、信仰や芸能としての「チャグチャグ馬コ」や「南部駒踊り」などの存在も、この地方の人々の生活において、いかに馬というものの存在が大きいかということの証だろうと思います。
 このような旧南部藩領地の北上山地の高原こそ、まさに日本における「牧馬地方」と呼ぶにふさわしい地域と言えるでしょう。
 そして岩手に生まれ育った賢治が無類の「馬好き」になったのも、このような背景からして自然なことと思われます。

 1924年4月19日、農学校の仕事を終えた賢治は、盛岡から外山高原を目ざして、夜を徹して歩きました。この間の状況は、『春と修羅 第二集』の中の一群の作品に記録されています(「外山詩群」参照)。
 そして4月20日の朝に外山に着いた賢治は、近隣の村から農家の人々に引かれて次々と集まってくる、何百頭という馬を目にしました。実はこの日、外山にある「岩手県種畜場」で、「種馬検査」が実施されることになっており、賢治が苦労してここまでやってきた目的も、まさにこれを見るためだったのです。

 「種馬検査日」という作品の題名にもなっているこの「検査」とは、いったいどういうものだったのでしょうか。これについては、池上雄三さんの著書『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(雄山閣)という本が、その実態を解明してくれています。
 岩手県北部が良質な馬の産地だったことは上にも述べましたが、明治後半以降、政府は外国から種馬を輸入して旧来種と交配させることで、さらに品種の改良を図りました。
 池上氏が引用しておられる『外山開牧百年史』には、そのような事業のために外山の種畜場が果たした役割について、次のように記されています。

 外山本場における主たる事業は優良種雄馬および種雄牛を繋養して、本県産馬および産牛の改良をはかることにあった。特に種馬については、種雄馬を県内の各種付所に派遣し、広く県内の優良雌馬に配合を行った。種馬には仏国産アングロノルマン種及び英国産ハクニー種が輸入された。

 「種馬」とは一般には「種牡馬」のことを指しますから、「種馬検査」と言うと上記のような外国産種牡馬を検査するのかと一瞬連想されますが、わざわざ良い馬を選んで輸入しているのになぜまた検査などする必要があるのか、またそうならばこの日になぜ一般の農家の人が馬を引いて集まっているのか、いろいろ不可解なことばかりです。しかし池上氏は、当時の関係者から直接に話を聞くことで、その本当の意味を明らかにしてくれました。
 この4月20日に外山で行われた「種馬検査」とは、近隣の農家で飼われている牝馬が、上記のような輸入された優秀な種牡馬から種付けを受ける権利を得るために、健康状態や身体的特徴などについて「検査」を受けるというものだったのです。晴れてこれに合格した牝馬は、発情期が訪れた暁には、外国産種牡馬と交配させてもらえる資格を得るのです。

 そうであれば、農家の人々がこの日にことさら張り切って馬を連れてやってくる気概も、十分に理解できます。もしも自分の家の牝馬に優秀な外国産牡馬の「種」がもらえたら、生まれてくる子馬には、軍馬として高く売れる可能性も出てくるのです。
 ふだんから大事に育てられた牝馬は、この日は一張羅の「馬着」を着せられ(♫ 水色の羅紗を着せ…)、主人とおかみさんによって、あるいは家族総出で、引いてこられます。馬に食べさせる「まぐさ」と人間の食料も持参しますが、この日ばかりは決して馬には背負わせず、人が担いで歩いたと言います。
 集まる馬は100頭から150頭、多い年には何百頭という数になったということで、まさに「にぎやかな光の市場」(「北上山地の春」)という活況を呈していたでしょう。
 池上氏の調査によれば、4月20日に検査の対象になったのは、藪川村、玉山村、米内村の3村の牝馬で、これらの地区から高原にある種畜場を目ざし、馬と人は外山川の渓流に沿った道を「みなかみへ」とさかのぼって行ったのです。

 「北上山地の春」―「種馬検査日」―「牧馬地方の春の歌」という関連作品の系列に見られる高揚感、輝き、熱気は、北国に春が訪れた喜びを背景として、このような多くの人々の期待感、馬への愛情などが一体となって、醸し出されているものだったのです。またその描写には、馬が交合の資格を得るという意味あいもあってか、どこか官能的な雰囲気も漂っています。

 さて、賢治が「牧馬地方の春の歌」という詩を付けて歌っていた曲は、当時の彼が持っていたSPレコードの一つ、イッポリトフ=イワーノフ作曲の『コーカサスの風景』という組曲から、「サルダールの行進」という終曲のメロディーでした。
 イッポリトフ=イワーノフとは、1859年生まれのロシアの作曲家で、ペテルスブルグ音楽院でリムスキー=コルサコフに師事した後、1882年から1893年までコーカサス地方のティフリス(現在はグルジア共和国の首都トビリシ)にある音楽学校の校長を務めたということです。
 モスクワ音楽院の教授として中央に戻った翌年、彼が「第二の故郷」とも呼んだコーカサス地方の風物を懐かしんで作曲したのが、この『コーカサスの風景』というオーケストラ組曲でした。
 その構成は、第一曲「峡谷にて」、第二曲「村にて」、第三曲「モスクにて」、第四曲「サルダールの行進」という4曲から成っています。ことにその第四曲は初演当時から人気があって、賢治が持っていたSPレコード(L.ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団)にも、この曲だけが「酋長の行列」と題して収録されていました。
 賢治としては、コーカサス地方もまた馬の産地であるという連想も働いたのかもしれませんが、それよりやはりこの特徴ある東洋的なメロディーが、彼の気に入ったのでしょう。

2.演奏

 下の演奏は、イッポリトフ=イワーノフによるスコアの音符をそのまま MIDI に打ち込んで作成したオーケストラ演奏に、‘VOCALOID’のMeikoとKaitoによる歌声を重ね合わせたものです。

 全曲は5分弱、「行進」の旋律は最初と最後に現れる三部形式になっています。
 まず最初は、トルコ風の打楽器のリズムに乗って、ピッコロとファゴットで行進曲のメロディーが奏でられ、後半は弦楽器も参加します。
 ホルンと弦楽器による簡単な移行部の後、中間部は、六連符の下降音型のクラリネット、舞曲的なオーボエの旋律の掛け合いで始まります(1:30)。クラリネットの音型は、組曲第一曲において夜明けを表していた弦楽器のモチーフ、オーボエの旋律は第三曲に現れた民謡風の歌に由来しています。しだいに弦楽器や金管楽器も加わって曲想は高まり、ついに「行進」の動機の一部がトランペットとトロンボーンで再び導入され(3:09)、壮大なクレッシェンドの後、行進曲が再現します(3:43)。
 ここからは最初より少しテンポも上げて「行進」が強奏され、最後はさらに加速して、めくるめくような絢爛のうちに幕が閉じられます。

 「サルダールの行進」全曲をファイルにしたために、下の演奏において「歌」は初めの1分20秒と、最後の1分ほどに登場するだけで、あとはオーケストラによる一種の間奏になっています。しかし、もし賢治がSPレコードを聴きながらそれに合わせて歌っていたとすれば、きっとこういう形だったのではないでしょうか。
 現在は耳にすることも稀になってしまった小曲ですが、その輝かしく祝祭的な雰囲気は、「牧馬地方の春」を謳歌する賢治の歌詞に、ぴったりとあてはまっている感じがします。

3.歌詞

風ぬるみ 鳥なけど
うまやのなかのうすあかり
かれくさと雪の映え
野を恋ふる声聞けよ
白樺も日に燃えて
たのしくめぐるい春が来た
わかものよ
息熱い
アングロアラヴに水色の
羅紗を着せ
にぎやかなみなかみにつれて行け
   雪融の流れに飼ひ
   風よ吹き軋れ青空に
   鳥よ飛び歌へ雲もながれ
水いろの羅紗をきせ
馬をみなかみに連れ行けよ

4.楽譜

(楽譜は『新校本宮澤賢治全集』第6巻本文篇p.365より)