詩「三月」の執筆年について

 先日、石鳥谷で撮影してきた「三月」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。またこの詩碑を、「花巻・賢治詩碑マップ」にも追加しました。

 ところで、この「三月」という作品に関しては、賢治の元教え子の菊池信一による「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」という回想記(草野心平編『宮澤賢治追悼』,1934に所収)に、昭和3年(1928年)3月15日から一週間および3月30日に、賢治が石鳥谷の「塚の根肥料相談所」で肥料相談を行ったという詳細な記載があることから、1928年3月の出来事と考えられてきました。堀尾青史『宮澤賢治年譜』でも、『【新】校本宮澤賢治全集』年譜篇においても、そう記載されています。

 これに対して、伊藤光弥氏は、この肥料相談が昭和3年(1928年)に行われたというのは菊池信一の勘違いであって、実際には昭和2年(1927年)3月のことだったのではないかという説を提唱しておられます(洋々社『イーハトーブの植物学』、および「「三月」の詩の解釈」:洋々社『宮沢賢治』第17号所収、など)。
 伊藤氏が、昭和2年説の根拠として挙げられているのは、次のような事柄です。

  1. 菊池信一は上記の回想の中で、肥料相談の年を「羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年」と書いているが、羅須地人協会の発足は大正15年(1926年)なので、その翌年は昭和2年(1927年)になる
  2. 菊池は「その年は恐ろしく天候不順で」、賢治が「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」と書いているが、昭和2年(1927年)は他の作品から読みとれるように冷害の年であり、また昭和3年(1928年)の賢治は6月に東京・大島に行った後、8月10日頃に病気で倒れているから、これらの記述は昭和2年(1927年)の方に合致する
  3. 〔あすこの田はねえ〕」という作品は1927年の日付だが、その内容は、菊池の回想記の内容と重ね合わせることができる
  4. 菊池の回想記には、肥料相談の会場に、肥料と水稲の関係図が十数枚貼られていたとあるが、これらの図は昭和2年3月頃に羅須地人協会の講義で使われていたものと思われる

 そして伊藤光弥氏は、菊池信一が「翌四年には先生一身上の都合にて、それに僕の入営により(肥料相談は)實現し得なかった」と書いているところの「先生一身上の都合」とは、昭和3年(1928年)3月15日に政府が全国一斉に行った無産政党の取り調べや検挙に伴い、賢治が警察の聴取を受けたということではなかったかと、推測しておられます。
 この伊藤氏の推測は、賢治と労農党の関係を考える上でも大変に興味深いものではありますが、私としては、この肥料相談が昭和2年(1927年)3月に行われたとする説には、無理があると思います。


 その理由の一つは、昭和2年(1927年)3月16日の日付を持つ、賢治から菊池信一宛ての書簡[227]です。この葉書の全文は、「ばらの苗が来て居ります。廿日なればみんなも集ってゐませう。お知らせまで。」という簡単なものですが、もしも昭和2年3月15日から一週間、賢治と菊池信一が肥料相談所で毎日顔を合わせていたのなら、16日にこのような「お知らせ」の葉書を出す必要はないはずです。
 伊藤光弥氏はこの葉書に関して、「肥料相談を終えて花巻に戻ると薔薇の苗が届いており、このことを早速、菊池に伝えたかったのではないかと思われます」と述べておられます。しかし、いくら「早速、伝えたかった」としても、葉書を出すより翌朝に直接会った時に話す方が早いでしょう。
 さらに、この葉書は、3月20日なら羅須地人協会に「みんなも集ってゐませう」と言って菊池も来ないかと誘っているわけですが、これももし賢治と菊池信一が、石鳥谷の肥料相談に出ているのなら、おかしなことです。賢治が、自分が不在の協会へ、菊池は肥料相談の世話を抜け出して行くようにと勧めるというのは、ありえないでしょう。


 あともう一つの理由は、1927年3月15日から21日頃までの日付を持つ賢治の作品の中に、明らかに作者が日中に花巻にいたと読みとれるものが、いくつも存在することです。
 3月19日の日付のある「運転手」(「詩ノート」)は、「瀬川の岸にもうやってきた」という一節から、花巻電鉄の花巻温泉線に乗っている情景と思われますし、同じ日付の「〔ひるすぎになってから〕」(詩ノート)には、「鳥ヶ森」という花巻南西にある山の名前が出てきて、「ノスタルジア農学校」とは、1年前に退職した花巻農学校のことでしょう。また、3月16日の「〔たんぼの中の稲かぶが八列ばかり〕」は、下根子桜近辺の農民どうしの共同労役のことを描いているように思われますし、同じ日付の「〔土も掘るだらう〕」(「春と修羅 第三集」)では、近所の農民たちから言われる疎外的な言葉を、「いまもきゝ」と書いています。
 これら花巻での出来事の描写は、賢治が「3月15日から一週間、朝8時から午後4時まで」、石鳥谷で肥料相談を行っていたとしたら不可能なはずです。


 伊藤光弥氏が挙げられた上の4つの根拠に関しては、まず1.の「羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年」という陳述に関しては、いずれにせよこの言葉は自己矛盾を孕んでおり、「翌年」という部分が間違いであるか、「昭和三年」が間違いであるか、可能性は二つのうちどちらかであるにすぎません。したがって、これだけでは、「翌年」が正しく「昭和三年」が誤りと断定する理由にはなりません。
 2.の天候不順に関しては、昭和3年(1928年)も、「七、八月旱魃四十日以上に及んだ」(『【新】校本全集』第十六巻「年譜篇」p.379)とあることから、やはり天候は不順であったようです。それに、昭和2年(1927年)は冷害であったのに対し、昭和3年は旱害だったので、「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」という描写にはむしろ合致するようにも思われます。賢治は昭和3年も、6月に大島から帰ってから8月に倒れるまで、忙しく花巻周辺の村々の田をまわっていたことは多数の記録や作品に記載されています。
 また、3.4.の内容は、肥料相談が昭和3年に行われたことを否定する根拠にはならないと思います。


 というわけで、私は石鳥谷の「肥料相談」が昭和3年(1928年)に行われたと100%断定するほどの根拠はありませんが、少なくとも、昭和2年3月15日から一週間にわたって行われたとする伊藤光弥氏の説には、賛成しかねるのです。
 ただそれにしても、「翌四年には先生一身上の都合によって」肥料相談が行えなかったという「一身上の都合」が、無産政党弾圧の一環としての警察聴取だったという伊藤氏の仮説は、大きな歴史との繋がりを暗示するようで、一定の魅力を感じるのも事実です。従来どおりの「昭和3年説」なら、「一身上の都合」とは賢治の病気だったという、新味のないことになってしまいます。
 しかし、おそらくこれが、実態だったのではないでしょうか。

「石鳥谷肥料相談所跡」説明板