朝起きてテレビをつけると、岩手県知事選が今日公示されたと言っていました。以前に普代村でお会いした増田知事は今期で引退とのことで、新人5人が立候補と伝えています。岩手県だけでなくて、今日は東京都をはじめ全国で「13都道県」の知事選の告示日なんですね。
朝食をすませると、花巻駅から東北本線に乗って石鳥谷に向かいました。ここに、昨年できた詩碑を見に行くためです。
石鳥谷駅で列車を降りると、まず駅前の通りを東に向かって、旧奥州街道に突き当たったところで南に曲がります。100mほど進んだ道の東側に、右のような看板が出ていました。
「石鳥谷肥料相談所跡」と書いてあって、その昔に賢治がここで、巡回の肥料相談所を開設したことを説明してくれています。その当時には、相談所となった家屋の向側には奥州街道時代の「一里塚」が残っていて、それにちなんで「塚の根肥料相談所」と呼ばれていたそうです。
詩「三月」はその時の模様を書いた作品で、賢治は3月15日から延べ8日間、午前8時~午後4時の間、「肥料相談」に応じました。まず賢治が肥料について講演をした後に、参加者個人別の相談・肥料設計を行うという内容だったそうです。
「三月」の中には「並木の松」という言葉が出てきますが、南部藩時代に植えられた松並木が、当時はまだ街道沿いに残っていたのですね。ところでちょうどこの場所の向かいあたりに、立派な松の木が一本ありましたが(左写真)、これは当時の名残なのでしょうか。
たしか奥州街道沿いの松の保存の是非をめぐっては、賢治も農学校時代にディベート大会をやったという逸話が残っています。花巻で残っているのは、詩碑にも近い南城小学校のあたりだけだったように思います。
また、上写真の左側には警察の派出所が見えますが、伊藤光弥氏によれば(『宮沢賢治』17号)、「三月」の最後の方に出てくる「火の見櫓」は、当時はこのあたりにあったのではないかということです。
さて、実際に作品の舞台となったのは、旧街道沿いのこの場所なのですが、このたび「三月」の詩碑が建てられたのは、「なるべく多くの人に見てもらえるように」と、現在の国道4号線沿いの「道の駅」の方なのです。
ここからまた1.5kmほど歩いて、国道にある「道の駅」に行くと、下写真のような見事な黒御影石でできた「三月」詩碑が建っていました。
碑面で、テキストのバックに薄い線で刻まれているのは、旧「石鳥谷町」の形です。
昨年の大合併によって、稗貫郡石鳥谷町は「花巻市」の一部となり、行政区画としての石鳥谷町というものは消滅してしまったわけなのですが、その輪郭はここにしっかりと刻まれて残されているわけですね。この碑を作られた「石鳥谷賢治の会」の方々の、郷土に対する愛も感じられる碑です。
詩碑を写真に収めると、また歩いて石鳥谷駅に戻り、お昼前に花巻に着いたのですが、花巻はあいにくの雨でした。今日の残りの時間は、レンタサイクルであちこちまわってみようと思っていたので、大幅な予定変更です。
しかし雨にもまけず傘をさして、市街地に残る花巻電鉄・鉛温泉線の跡を歩いてみたり、「東公園」というのはどのあたりにあったのだろうかと散策してみたり、それなりに時間をすごしました。結局は3時間ほど歩いていたのですが、昨日の「雪中行軍」の影響か、時間とともに太もものあたりの筋肉痛を自覚します。
昼食は、ちょうど近くまで来たので、一度食べてみたかった上町の「竹駒」の中華そばにしました。ここは、かまどに薪をくべてラーメンを作ることで有名で、スープはあくまですっきりと澄み、ご覧のように具はいたってシンプルですが、「丁寧に調理された一品の料理」をいただいた感じです。
ということで、ひとまず飛行機の時間になったので、16時40分の便で花巻を後にしました。「Kenji Review」の渡辺宏さんのブログによると、渡辺さんは明日から花巻に来られるとのこと、ちょうど入れ違いになってしまいました。
コメント