「三月」詩碑

1.テキスト

  三月

正午(ひる)になっても
五分だけ休みませうと云っても
たゞみんな眉をひそめ
薄い麻着た膝を抱いて
設計表をのぞくばかり
稲熱病が胸にいっぱいなのだ
一本町のこの町はづれ
そこらは雪も大ていとけて
うるんだ雲が東に飛び
並木の松は
去年の古い茶いろの針を
もう落すだけ落してしまって
うす陽のなかにつめたくそよぎ
はては緑や黒にけむれば
さっき熊の子を車にのせ
おかしな歌をうたって行った
紀伊かどこかの薬屋たちが
白もゝひきをちらちらさせて
だんだん南へ小さくなる
みんなはいつか
ひそひそ何かはなしてゐる
つゝましく遠慮ぶかく
骨粉のことを云ってゐるのだ
一里塚一里塚
塚の下からこどもがひとりおりてくる
つゞいてひとりまたかけおりる
町はひっそり
火の見櫓が白いペンキで、
泣きだしさうなそらに立ち
風がにはかに吹いてきて
店のガラスをがたがた鳴らす

            宮澤賢治 ・ 詩
          「石鳥谷町地図形」

2.出典

三月」(「口語詩稿」)全文

3.建立/除幕日

2006年(平成18年)10月9日 建立

4.所在地

花巻市石鳥谷町 中寺林第七地割17-3 道の駅「石鳥谷」構内



5.碑について

 2006年10月、賢治生誕110年を記念して「石鳥谷町賢治の会」では、賢治が旧石鳥谷町内で行った肥料相談の様子を描いた作品「三月」の詩碑を、建立しました。旧石鳥谷町内の賢治文学碑としては、葛丸ダムにある「葛丸」歌碑に続いて、二つめとなります。

 賢治は、1928年3月15日から1週間にわたって、石鳥谷町の通称「塚の根肥料相談所」において、多数の農民を対象に肥料相談を行いました。その企画と準備にあたったのは、元教え子で石鳥谷に住む菊池信一でした。
 この間、賢治は毎朝7時半の列車で石鳥谷駅に着くや菊池信一に出迎えられ、徒歩で会場に到着すると、すでに集まっている人々に丁寧にお辞儀をして、すぐに設計用紙を出して肥料相談を開始したということです。人々は熱心に賢治の話に耳を傾け、お昼時になってもなかなか休憩に入れないほど真剣な雰囲気が、作品からにじみ出ています。

 この肥料相談が行われた「塚の根」とは、石鳥谷の町並からは南のはずれの旧奥州街道沿いにあって、作品中にも出てくるように、当時は街道の「一里塚」があったので、この名前で呼ばれていました。
 現在はその一里塚はなくなっていますが、右の写真のように「石鳥谷肥料相談所跡」と書かれた説明看板が、石鳥谷町と教育委員会によって立てられています。看板に載せられている民家の写真は、当時相談所として提供されていた民家ですが、この家も今は残っていません。
 詩「三月」の中には「並木の松」という言葉が出てきますが、南部藩時代に植えられた松並木が、当時はまだ奥州街道沿いに残っていたわけです。私が訪れた時には、ちょうどこの場所の向かいあたりに、立派な松の木が一本ありましたが(左写真)、これは当時の名残なのでしょうか。
 たしか奥州街道沿いの松の保存の是非をめぐっては、賢治も農学校時代にディベート大会をやったという逸話が残っています(4月25日の「賢治 日めくり」参照)。
 また、上写真の左側には警察の派出所が見えますが、伊藤光弥氏によれば(「「三月」の詩の解釈.『宮沢賢治』第17号,洋々社)、作品の最後の方に出てくる「火の見櫓」は、当時はこのあたりにあったのではないかということです。

  ところで実際に「三月」詩碑が建てられたのは、作品の舞台となったこの場所ではなくて、少しでも多くの人に見てもらえるようにということで、国道4号線沿いの「道の駅「石鳥谷」」の構内です。

 見事な黒御影石の碑面には、詩「三月」の字間を縫うようにして、薄い線が刻まれているのが見えますが、これは旧石鳥谷町の形を表しているのです。実は、2006年4月にそれまでの石鳥谷町は合併によって花巻市の一部となり、自治体としての「石鳥谷町」は、消滅してしまいました。しかし、碑にその形を刻んで記念に残したという今回の趣旨に、「石鳥谷賢治の会」の方々の、郷土への愛が表れているようです。
 碑の裏面(下写真)に記されている、「賢治の詩の中にふるさとの当時を偲ぶよすがをと「三月」詩と地図形碑の建立といたしました」という一文が、その思いを私たちに語ってくれています。