この間、五郎沼で私が跡をたどろうとしていた「草稿的紙葉群」は、その後大幅に手を入れられて、「産業組合青年会」という作品になっていきます。題名ともなっているこの「青年会」が具体的にどのようなものであったのか、これまでの研究や調査からも明らかにはなっていません。しかし、「熱誠有為な村々の処士会同の夜半」というような描写を見ても、またこの頃の「心象スケッチ」の性格から考えても、賢治がこの夜に何らかの会合に参加したことは一定の事実にもとづいていて、単なるフィクションではないだろうと推測されます。
そしてその帰り道に、賢治は「おもかげ」を求めて五郎沼の岸辺にやってきたのではないかと考えられるわけです。
今回は、その「会」の方について、少し考えてみたいと思うのです。
「業の花びら詩群」というページにも書いたことですが、「春と修羅 第二集」には「産業組合青年会」と同じ1924年10月5日という日付を持つ「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」作品が存在していて、やはり定稿に至るまで推敲を繰り返されています(その下書稿段階の、「業の花びら」という標題も有名です)。
そして、これら二つの作品の下書稿は、数多くの同じモチーフを共有していて、たとえば「祀られざるも神には神の身土がある」とか、「億の巨匠(天才)が並んで生れ、しかも互に相犯さない、明るい世界はかならず来る」などの語句が、双方の下書きに登場しては消されています。
つまり、これら二作品は単に同じに日にスケッチされたというだけにとどまらず、内的にも非常に密接につながっていると考えられるのです。
さて、「産業組合青年会(定稿)」において、私が以前から謎のように思えてならなかったのは、最初に現れ、また最後にも現れる、「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉です。二回も繰り返されているのは、作品においてとても重要な事柄なのだろうと思われるのですが、具体的にはいったい何を言いたいのでしょうか。言葉の意味としては、「祭祀されていない神でも、神としての身柄とそのおわすべき場所がある」ということでしょうが、これが「青年会」においてどんな意図で発せられたのか、これだけではよくわかりません。
また一方、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」には、「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」という一節があります。密接な二作品に一緒に出てくるのですから、こちらの「神々」も、「祀られざる神」と関係していると考えておく方が自然でしょう。しかしここでも、「神々の名を録す」とは、具体的にどういう行為のことなのでしょうか。
この辺の事柄に関連して、「NHKカルチャーアワー 宮沢賢治」において栗原敦さんは、次のように解説しておられます。
作品の日付、大正十三年十月五日は日曜日、この日の夕刻、産業組合の青年会に招かれて、「わたくし」(賢治)は「今日のひるま」「鉄筆でごりごり引いた」「北上川の水部の線」の資料などを用いて農事講話などをおこなったと見られる。いまはその帰り道、紫波郡紫波町南日詰の国道沿い、五郎沼の近くで、先ほどの会合を反芻する。自分が明るい夢を語り、(みんなも)具体的な産物を思い、組合やその連合がもう祀る者もなくなったあそこの「山地の稜をひととこ砕き」、土壌改良のための「石灰抹」を得て……と語ったあたりで、調子にのっていい気になるな、とばかりの「あざけるやうなうつろな声で」「祀られざるも神には神の身土がある」という異議が発せられた。(テキストp.109-110)
すなわち、農業を発展させるための自然開発が、土着の神を冒涜することにもつながりかねないと批判されたのではないか、というお考えです。
ところで、栗原さんも記しておられることですが、「(夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿(一)の推敲途中には、「山地の〔神〕〔?〕を/舞台の上に/うつしたために」という一節がいったん書き込まれ、また抹消されています。
私が思うには、この部分が、この二つの作品に出てくる「神」の正体を示唆してくれているのではないでしょうか。
すなわち、「山地の〔神〕」を「舞台の上にうつした」というのは、賢治が農学校の生徒たちのために書き下ろしてこの年の8月に上演させた劇、「種山ヶ原の夜」において、「楢の樹霊」「樺の樹霊」「柏の樹霊」「雷神」という神々を舞台に登場させたことを指しているのではないかと思うのです。
[この項つづく]
匿名
日詰旅行お疲れ様でした。
また早速のご報告ありがとうございます。
高橋ミネさんははたして札幌鉄道病院に派遣
されたのかが以前からの関心事なのですが、怠慢
により私は調査に手をつけぬままでおります。
それは別としても、「業の花びら」の
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえてゐる
は、「宗谷挽歌」の
永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。
と並んで、私にとってはとても迫力を感じる詩句です。
つめくさ
先程は記名を忘れて失礼致しました。
hamagaki
つめくさ様、いつもありがとうございます。
境忠一著『宮沢賢治の愛』には、「彼女(高橋ミネさん)は大正三年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌鉄道病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった」と記載され、いっぽう佐藤勝治氏は、賢治は岩手病院入院の翌年(1915)に岩手病院を再訪し初恋の人にそれとなく会っているが、この時期に高橋ミネさんは札幌鉄道病院に派遣されて不在だったから、高橋ミネ説はありえないと論じました(「火のごとくきみをおもへど」,『宮沢賢治』第2号所収)。
これに対して小川達雄著『隣に居た天才』では、札幌鉄道病院の創設は1915年11月であり、賢治が岩手病院を再訪したと推定されるのは1915年6月~7月であるから、この時はまだ岩手病院にいたはずだ、としています。
はたして正確には、高橋ミネさんはいつからいつまで札幌におられたのでしょう。
また、小川達雄氏の上記著書によれば、その後高橋ミネさんは、「(岩手県東磐井郡)川崎村薄衣の教員伊藤正と結婚」し、病を得て盛岡の国立療養所に一時入院した後、「その後、息子を頼って北海道に渡り、そこで亡くなりました」とあります。これに対して佐藤勝治氏は、「北海道夕張の伊藤家に嫁し、昭和四十六年七十八歳で死去された」とあり、記載が食い違っています。
しかし少なくとも、再び晩年は(意外に最近まで)北海道におられたようで、どこでどんな生活をしておられたのか、気になるところです。
伊藤 正毅
北海道夕張に住んでいた先妻の長男を頼って行きそこで亡くなったのが正しいです。みねさんには実子がありませんでした。おみね婆様が生前に一言も宮沢賢治の話をしなかったので孫の私はまるで知りませんでした。亡くなって一年後に賢治の研究者が見えたということで大変驚きましたし残念に思いました。家に宮沢賢治の本がたくさんあり家族みんなが愛読していたのに身近に関係者が居たなんてそうとわかれば聞きたいことがたくさんあったのにと・・・・!!
みねさんは薄衣で長いこと一人暮らしをしていました。かなり気の強いおばあさんでしたが学生時代薄衣をたずねた私には心臓が悪いので先行き心配だとこぼしていました。そのあとで夕張の父のところに引き取られました。
hamagaki
伊藤 正毅 様、はじめまして。貴重なコメントをありがとうございます。
伊藤(高橋)みね様の晩年のご様子について、とてもよく理解することができました。やはり夕張で、最後の日々を過ごされたのですね。
小川達雄著『隣に居た天才』(河出書房新社)のp.163には、みね様の「又姪」にあたる高橋兌子さんという方から聞き取った内容が載っていて、「とてもはきはきした気丈夫な人だった」と書いてありましたが、まさにそのようなお祖母様だったのですね。
それにしても、研究者の方がみね様を訪ねたのが、亡くなられた1年後だったというのは、かえすがえすも残念なことです。20歳の時に1ヵ月ほど看護された一人の患者の名前が「宮澤賢治」だったことを、はたしておぼえておられたでしょうか。
賢治の死後、その名前や作品が世に知れ渡っていくつれ、きっと名前は耳にされたり、ひょっとして作品も読まれたかもしれませんが、その名前が昔の記憶と結びついていたかどうか、興味あるところです。
しかし、「賢治初恋の人=高橋ミネ説」というのが初めて提唱されたのは、昭和47年刊行の川原仁左衛門編『宮沢賢治とその周辺』という本だったようですから、昭和46年に亡くなられたというみね様自身は、後に自分がそのような取り沙汰をされるとは、思いも寄らなかったかもしれませんね。
ところで私の方には、以前の記事にも書いたように、この3月にはみね様の「曾甥孫」のお嫁さんという方からもメールをいただいたりしましたし、ほんとうに不思議なご縁があるものです。
私どものこのような好事家的な詮索は、ご親族の方にはご迷惑をおかけしてしまうことも間々あるかと思いますが、このたびはご親切にもコメントを頂戴しましたことに、心から感謝申し上げます。
町田幹子
祖母にあたるミネさんは昭和37年夏十勝の芽室町に父に連れられてやって来ました。父は芽室高校の教員をしてましたので、その教員住宅で一緒に暮らしました。それから昭和40年父が夕張に転勤になったので夕張に一緒に移りました。そこで46年夏に亡くなりました。藤山愛一郎氏のお父さんの看護婦をしていたことはよく話してくれ自慢そうでした。父母にあとで聞くと、宮沢賢治のことを詳しく知っているので、不思議に思っていたが、まさか初恋の人だとは想像もつかなかったそうです。私が初めて会ったのはミネさんが69歳ころですが、ずいぶん老けて見えました。最近父が亡くなって、残されたアルバムにミネさんの若いころの写真などもあり、初めて若いころは美人だったかもしれないと思ったことでした。
hamagaki
町田幹子様、貴重なコメントをお寄せいただきましてありがとうございます。このようなブログをやっていて、今回のような「出会い」があるたびに、感激と恐縮をいたします。
やはりミネ様は、宮沢賢治のことを、詳しく知っておられたのですね。はたしてご自身が18歳の頃に、ただ1ヵ月ほど看護した患者の名前が「宮澤賢治」だったことを意識しておられたのかどうか、重ね重ね興味が湧くところです。
それからこれを機会に、藤山愛一郎氏のお父さんの藤山雷太氏という方についても調べてみました。すごい人ですね。藤山雷太氏は1938年(昭和13年)に亡くなっているようですが、このような要人のことですから、ミネ様は「お抱えの看護婦」をされていたのでしょうか(東京で?)。どのようなご縁があったのか、興味は尽きません。
お若い頃のミネ様については、古く不鮮明な写真を拝見したことはあります。お美しかったことがうかがわれました。
その生涯においては、何度か住まいを移られたり、病気をされたり、長く一人暮らしをされたり、いろいろとご苦労をなさった上で、晩年はお孫さんにも囲まれて、幸せな数年間を過ごされたのでしょうね。
このたびは、本当にありがとうございました。
町田幹子
ご丁寧にありがとうございます。藤山愛一郎氏を坊ちゃんと親しげに呼んでいました。ご推察通りだと思います。私もそのように受取っていました。東京に住んでいたのではないかと思います。東京での写真も定かではありませんが確かあったようです。(調べればわかります)
祖父の伊藤正と結婚して昭和4年7月7日に入籍しています。七夕のこの日を選んでいる?のも面白いと思っています。生まれが明治26年7月28日です。賢治が8月27日生まれですので、ちょうど数字が728にたいして827だと面白く思いました。賢治より3歳年上でしたので、きっと恋されても相手にしなかったのではと思ったりしています。最期は夕方台所で炊事をしている母と居間のソファに座ってお喋りしていたらしいのですが、返事がないので母が居間に来てみると息絶えていたとか。その日の午前中には往診を受けていて大丈夫と言われたばかりだったので、びっくりしたそうです。写真がたくさん残っていました。祖父の伊藤正の若いころからのアルバムに、ところどころはがして自分の若いころの写真を貼ったりしていて後妻だった複雑な気持ちが窺えるように思いました。
hamagaki
町田幹子様、またさっそくにお返事をありがとうございました。
貴族院議員でもある当時最上級の大富豪のお宅に、看護婦として召し抱えられるというのは、岩手県で普通に看護婦として働いていたという経歴だけでは実現しないことでしょうね。どのようないきさつがあったのかわかりませんが、本当に「波瀾万丈の人生」を送られたのだと感じます。
また、「坊ちゃん」と呼んだ藤山愛一郎氏は、明治30年(1897年)生まれですから、ミネ様の4歳年下だったわけですね。「坊ちゃん」と賢治は1歳違いで同時代人ですが、住む世界は全く違ったでしょう。
その東京における藤山家の看護婦を辞められた後に、岩手県に戻って川崎村薄衣で町田様のお祖父様と結婚されたのかと思いますが、その時ミネ様は35歳、お祖父様(伊藤正氏)は後に川崎村の村長もされたということですから、村長夫人としても大変だったでしょう。そして、夫であるお祖父様を亡くされてからは、長らく気丈に一人暮らしをしておられたのですね。
ミネ様の最期のご様子は、それまで普通に燃えていたろうそくの火がふっと消えたような、まさに安らかなお姿だったのかと拝察します。波瀾万丈の後の、穏やかな日々を象徴するかのように思えます。
このような方の人生の軌跡と、宮沢賢治というこれまた変わった人生の軌跡が、お互いの若い日に一瞬だけ交叉して、また別々に離れていったというのは、本当に不思議な感じがします。728と827という鏡像的な数字は、こんな二人の交叉を暗示するかのようですね。
末筆ながら、ミネ様のご冥福をお祈り申し上げます。
町田 幹子
さらにご丁寧なコメントをありがとうございます。
今日再度近くに住む母(90歳ですがまだ頭脳は明晰です)に聞いてみました。ミネさんは岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していたとはっきり言っていたそうです。でもそのときの感じでは好意をもっていたかどうか逆に好意を持たれていたかどうかもわからなかったそうです。そういうことには全く言及しなかったようです。何かあればいうタイプのひとだったので、亡くなってから初恋のひとらしいと知らされ、とても不思議だと思っているようです。
ミネさんの写真は一関、宮古、盛岡などで写したものがありましたが、以前見たと思った東京での写真は今日探しても見つかりませんでした。宮古では警察署の前で大勢で記念写真を撮った中にいます。まるでそこに勤めていたような感じです。伊藤正も宮古の役所で財務課にいた写真がありました。よくはわかりませんが、そのあたりが接点かと推察します。結婚してから釜石では婦人会の長をして権勢をふるっていたらしいとのこと。愛国婦人会の集合写真でも真中にいて堂々とした様子です。釜石では祖父は助役だったようです。
結局いったいいつ東京にいたのか、よくわかりません。母は藤山家には派遣されて行ったのだろうというのですが、はっきり知らないようです。
伊藤正は昭和27年3月に亡くなっています。(その後ミネさんは昭和32年に私の両親の伊藤正一夫妻を養子にしています。)それから10年後に父に引き取られてきたということですね。ミネさんが結婚する時の条件が子どもは一人しか引き取らないということだったらしいです。5人の子供のうち下の女の子2人は養子に出し、長男だった父だけが引き取られました。弟と妹は川崎村に住んでいた父方の祖母が育てたそうです。父は小学6年で実母を亡くしていてそれから2年半後に継母のミネさんと暮らすことになったようです。そのような経過があってミネさんの老後は父がみることになったのでしょう。
hamagaki
おお、ありがとうございます! わざわざお母様にお聴きいただきまして、恐縮です。しかしおかげさまで、そのお言葉はこれまでの賢治研究によっても明らかにされていなかった、素晴らしい価値のある「証言」だと思います。
高橋(伊藤)ミネ様は、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していたとはっきり言っていた」のですね!
ミネ様が、1914年(大正3年)に1ヵ月ほど入院しただけ青年の名前を、その後も憶えておられたとは、すごいことだと思います。1933年(昭和8年)の死去までは、「宮沢賢治」という名前は花巻以外の一般の人には、ほとんど知られていなかったはずで、やっと1930年代の終わり頃になると、だんだん有名になってきて、何かの折にミネ様の目にも止まり、「この『宮沢賢治』という人は、あの時の・・・」というふうに昔の記憶と一致したのかもしれません。しかし、病院に勤めていると毎年厖大な数の患者さんを看護しているわけですから、20年以上も後まで、その中の一人の名前を憶えておられたことに、感嘆します。
このような場合、「あなたは岩手病院勤務時代に宮沢賢治を看護していたはずだ」と研究者の方から指摘されたのだとしたら、「そう言えば、そのような記憶があります」と、実は忘れていたことを「思い出し」て、さらにその「記憶」を何度も人に語っているうちに、本人にとっては「真の記憶」なのか、後から得た情報なのか、自分の中でも区別がつかなくなっていく、という現象はありえます。
しかし、ミネ様の場合は、このような「偽記憶」である可能性は、まず考えられません。というのは、「高橋ミネ看護婦が、賢治の初恋の人である」という説は、1972年(昭和47年)に刊行された『宮沢賢治とその周辺』という本において、川原仁左エ門という人が初めて提唱したことなのです。町田様のお母様も不思議がっておられたとおり、1971年(昭和46年)に亡くなっておられたミネ様ご自身は、自分が「賢治の初恋の人」の候補に挙げられるとは、生前は夢にもご存じなかったはずなのです。
つまり、ご自身が岩手病院で宮沢賢治を看護したことは、自分で思い出す以外に、他の人から指摘されることはなかったはずなんですね。
かろうじて残る他の可能性としては、ご自身では宮沢賢治を看護したことは憶えておられなかったけれども、賢治が死後に有名になってから伝記か何かで1914年(大正3年)に彼が岩手病院に入院したという事実を知り、それがご自身の在職期間に属するということを、後から確認して意識しておられたということも、考えられなくはありません。しかし、岩手病院に何年に入院したかなどという細かいことは、あまり一般の伝記には書かれていなかったのではないかとも思います。
となると、ミネ様にとって宮沢賢治という青年は、後々まで記憶に残るような存在であったのだろうということになり、それはたとえ「好意を持った」とか「好意を持たれた」という意識ではなかったとしても、形式的な看護婦―患者関係だけでない、何か印象に残るような出来事や「交流」があった可能性もありうる、という推測の余地も出てきます。
そのような意味で、ミネ様が「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していたとはっきり言っていた」というのは、貴重な証言だと感じた次第です。
このたびは、わざわざ本当にありがとうございました。お母様にも、どうかよろしくお伝え下さい。
町田 幹子
本当にご丁寧にありがとうございます。そのように感激していただいて、かえって心配になり、母に一体いつそれを聞いたのか訊ねてみました。北海道に渡ってきて同居してからだそうです。確かにそう言っていたそうです。結婚しても別居ですからそれほどミネさんと会う機会がなかったからでしょう。晩年9年ほど同居していましたので、その間のことだそうです。父も初恋のひとらしいと知らされてから、「そういえば妙に宮沢賢治のことに詳しかった」という言い方をしていました。残念ながら私たち孫にはそんなことを話してくれませんでした。
確かにおっしゃるように宮沢賢治が有名になったのが亡くなってからだとすると、本人が当時のことを覚えていた可能性が高いようですね。
hamagaki
町田様、またご確認のお手数をおかけすることになってしまいまして、恐縮です。
今回の貴重なご教示の内容は、あらためて整理させていただいて、よろしければまた当ブログの新たな記事として、ご紹介させていただければ幸いに存じます。
重ね重ねこのたびは、何度もご丁寧な書き込みをいただきまして、本当にありがとうございました。
中嶋 信
いつも興味深い論考を拝見して刺激を受けております。
このたび、産業組合青年会に関する浜垣様の考察を引用して論文を書きました。抜き刷りを送付したいので、上記アドレス宛に送付先をお知らせくださるようお願いします。
hamagaki
中嶋信様、ご親切にありがとうございます。
貴メールアドレスあてに私の住所をお送りいたしましたので、よろしくお願い申し上げます。